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<僕らの子育て奮闘記V> 季節は夏から秋へと移りゆき、愛子の着る服も少しずつ厚みを増してきた今日この頃。幼稚園のお母さんから「愛子ちゃん、大きくなりましたか?」と聞かれて「ええ、まあ」といつも煮え切らない返事で答える僕。いつも幼稚園では「ちょっと前の姿と比べることで子ども達の成長を感じてあげてください」などと偉ぶっているそのくせに、我が子のこととなると何も見えてない『ぼんやり父さん』の僕なのです。『なになにが出来るようになった』と言う視点でついつい子どもを見てしまう僕の目には、愛子は『まだ何も出来ない赤ん坊』としてしか映らないのかもしれません。いっとき、一週間で三千枚も写真を撮ったなんて頃もあったのですが、今はそんな勢いも影を潜めてしまっています。自分の「これ!」と言う一枚を作品に出来た満足感からか、その後なかなかこの子の『変化』に気付いてあげられないこの『ていたらく』。ありのままの我が子の存在を神様に感謝すると言う想いが希薄になって来ているのでしょうか。日々、愛子のことを愛しく受け止め愛情を注いでいる自負はあるのですが、それを表現するアイディアと実現するパフォーマンスがいまいちパワー不足なのかも知れません。やはり『その気にならないと何も出来ない』と言う僕の『むらっけ』は相変らず健在で、僕こそ成長していないようです。 一方、母親である奥さんはと言えば「こっちを見て笑うようになった」とか「私の服の裾を掴むようになった」などと、僕が家に帰ったならまずは僕をつかまえまして愛子の『変化』をうれしそうに話しかけて来てくれます。こういう変化をきちんと捉えてすぐさま喜びの表現を出来る彼女の方が、毎日幼稚園で子ども達の顔を見つめている『プロのはしくれ』のつもりの僕なんかよりもよっぽど優れた洞察力を持ち合わせ、我が子のことを感じる感性に富んでいる人と言えるのでしょう。こうした我が子の些細な日常の変化を成長と捉え、自身の喜びへと変換出来る才能と言うのは子育てにおいて重要なパフォーマンスだと思うのです。そのことが子育てにおける大いなるモチベーションを奮い起し、また我が子に向き合ってゆこうとする想いを高めてくれるものなのだから。さて早く着替えたい僕はと言えば「ふんふんふん」とその言葉を聞いているのですが、聞いているのかいないのかそんな感じの僕に向かって奥さんは我が子の『今日一日』のそのさまを語り、喜びを分け与えてくれています。仕事を終えてお疲れモードで帰った僕にとって、そんな愛子の笑顔と奥さんの『喜びの一日報告』はやはりうれしく感じられるもの。でもそれが『有意差を持った成長』なのか『今日という日にたまたま見られた彼女の所作』なのか?、そんな目で見てしまう工学部卒の僕。一緒になって「えー、すごい!」ってテンションにはなかなかなれない僕なのでありました。『人は自身の体験をもって初めて、その事象を認めることが出来る』と考える僕は、「確証を得るまでもうちょっと待って」とそんな意識でこの報告を聞いてしまうから彼女のような新鮮な感動を味わうことがなかなかもって出来ないのでしょう。それでいてそれが日常化して『この子の成長』と認められるようになった頃には、このタイムリーな感動は薄らいでしまうと言う自己矛盾。何とも損な性格です。『夫婦で行う我が子の子育て』と言う状況の中ではお互いの言葉を素直に受け入れ、素直に共感することの出来るセンスが重要になって来るものなのかも知れません。分かっていながらそれを妨げるのは『僕にでなく奥さんに笑いかけたこと』に対するジェラシーか(日常生活における共有時間が全く違うのですから当たり前のことなのですが)、はたまた嬉しい報告と共に浴びせかけられる一日の愚痴に対するレジスタンスか。ともあれこうして自分の事を俯瞰で見つめてみたならば、あれこれ反省することに気付かされるものです。僕にとってこの愛子の成長記録は自分の子育てをもう一度見つめ直す学びの場であり、その足跡こそが僕自身の成長記なのかも知れません。 さあ、当の愛子さんですが、月齢三か月となりました。毎日あまり変わり映えのないように見えていた我が子だったのでありますが、ここのところ僕の目にも見える『変化』や『成長』をちょっとずつ見せてくれるようになりました。最近では愛子をお風呂で受け取って、一人で身体洗いから入浴まで面倒が見れるようになった僕。膝の上に乗っけてもらってから愛子との『ふたりお風呂』が始まります。まずは足からベビーシャンプーで洗い始め段々と上にあがってゆくのですが、お腹から脇の下あたりを洗っていた時のこと。かけ流したお湯が僕のお腹と愛子のおまたの間に三角形の水たまりを作ることがあるのですが、その時には水たまりがなかったはずのデルタ地帯になにか温かいものを感じたのです。素知らぬ顔をしている愛子さん。そう、僕の膝の上でおしっこをされてしまったのでありました。温かいお湯とシャボンのコチョコチョに刺激され気持ち良くなっちゃって、きっと「しー」っと出ちゃったのでしょう。それが気に入ってしまったのでしょうか愛子さん。それから毎日のようにそこでされるようになってしまいました。それまではお風呂から出た後、間髪入れずに返品されて来ることの多かった愛子さん。お着替えの時に「しー」とやっては着替え直し・洗い直しとなっていたのですが、僕の膝の上でやるようになってからはそれがピタッとなくなりました。洗濯や着替えにかかる奥さんの手間暇は削減されて良いのですが、将来におけるわがまま娘からの扱われ方が暗示されているような気がいたしまして、なかなかに複雑な心境の父なのでありました。 またつい先日、愛子と一緒に向かい合わせでお風呂に入っていた時のことです。愛子がキックキックしそっくり返るそのさまを見て奥さんが「あなたの胸に頭をつけてあげたらいいんじゃない?」と言い出しました。「そう?」と言うことで脇を抱えつつ僕の胸に迎え入れようとした途端、おでこが僕の胸に「こん!」。首が座っていない愛子が垂直姿勢になろうした瞬間に頭が前方に流れ出して来てごっつんこしてしまったのでありました。そんなに強く当たった感じでもなかった当事者の僕だったのですが、大いに慌て大騒ぎしている奥さんの姿にびっくりしてしまったものでした。当たったのが胸で、音が共鳴して大きく聞こえたのでしょうか。そんなこんなで大騒ぎとなった事件だったのですが、その数日後、愛子の首が座りまして、自分で支えられるようになりました。「この人達に任せていてはあぶないわ」と思ったのでしょうか。愛子の独立独歩の第一歩となった出来事なのでありました。 色んなものを認識出来るようにもなって来ました、愛子さん。それに伴ってカメラを向けると急に緊張顔をするようになってしまいました。生物学的に考えた場合、丸くてキラキラしているものは自然界においては『自分を狙う敵の目玉』くらい。鳥よけに丸い目玉に見立てた風船やキラキラ光るCDが畑にぶら下げられているのはそのためです。生き物にはそれを恐れると言う本能があるのですが、この子の場合もそう言うことなのかも知れません。俗社会に影響されない生まれて間もない子ども達は、文字通り自然そのものの存在・そして生命体なのですから。それならばと言うことで、新たな作戦を一計案じた僕。最近少し肌寒くなって来たのを受けてフリースジャケットを着ているのですが、それから右手裾を抜きつつ前のファスナーを途中まで閉めるのです。その右手にビデオカメラを持ちながらファスナー口から覗かせて、いざ愛子の撮影開始。これは意外と成功しまして、愛子の笑顔が撮れました。どこを撮っているか分からないと言う不安定さと、ファスナーが画面に映り込んでいると言うドキュメンタリータッチの映像になってしまいましたが、そうやってあれこれやることに楽しみを感じている僕の『我が子・子育て』です。自分の立てた仮説検証と実験実証、『○○しないといけない』ばかりではなくして『自己実現』の要素を持ってやることを許してもらえたなら、お父さん達の子育てもモチベーションを高く持ちつつ出来るのではないかと思うのです。 週末は宿題のお仕事に加えましてお休みにしか出来ないお掃除や食事当番(週末と休日は僕の当番になっています)も担っている僕。それらを愛子のお世話も手伝いながら全部やり遂げるのは僕にはとても大変なことなのですが、それって子どもを持つお母さん達がいつも普通にちゃんとやっていること。自分に余裕があった頃には感じなかったのですが、これをお母さん達、よく毎日やっているなとつくづくそう思うのです。僕なんかがそれをちゃんと出来るはずもないし、途中でイヤになってしまうのが関の山なのですが、そこはそれまた発想の転換で自分流に楽しみながらやっています。お料理の時間には『のだめの千秋真一君』ばりにクラッシックCDをかけながら自分の時間を楽しんでいる僕。ビールをちょっとたしなみながらIHのクッキングヒーターとタイマーを駆使しながら、毎週同じようなものを作っています。山盛りの仕事達を『あっちをやっている間にこっちをやって』と時間をやりくりしながら一人でやり遂げた時の達成感、出来栄えはよくなく「あれがだめ、これがだめ」とダメ出しばかりされているのですが、それがほろ苦いビールの味わいと相まって「今日もなんとか出来た。またがんばろう」と思わせてくれるのです。5%のアルコールと自己陶酔によって支えられている僕の休日なのであります。 そんなこんなでなかなか愛子にじっくり構うことの出来ない毎日なのですが、その日はたまたま午前中で幼稚園のお仕事を終えることが出来た僕。そのお仕事の合間も僕の横でバウンサーに揺られ寝ていた愛子さん。仕事が終わったその頃に起き出して来まして僕に笑いかけてくれました。やっぱり話に聞くより自分に向かって笑いかけてくれるその笑顔が、どれだけ父親を感動させてくれるかと言うことを体験を持って教わった僕なのでありました。こう言う体験こそがお父さん達のモチベーションを高めるのです。その気になってしまった僕は、誰に頼まれなくてもカメラを取り出し愛子をパシャパシャ撮り始めました。それを見つけた僕の奥さん。「もっとかわいく撮って」とご注文。多少腕に自信があってきっとうぬぼれていたのでしょう。自分の写真に文句をつけられ「こんなもんだよ」と言い返したなら「だって顔が三角だもん」。そう、ちょっとしもぶくれっぽい愛子さんを近くから撮ったならばそう言う風にデフォルメされてしまうのです。「こうならいいの?」とわざとらしく頭の上から撮った画像を見せたならば「かわいい!」と言う奥さん。「へ?」。まだ薄い生え際ばかりが強調された絵のどこがいいのかと思ったのですが、よくよく見たなら先程の絵との違いに気がつきました。子どもの写真を撮る時には下から撮る習慣がついている僕。愛子の時も同じようにしていたのですが、顔の形と短い焦点距離のレンズが相まって、より頭つぼみの写真になってしまっていたのです。「こんな極端なアングルありえない」と思いつつ上から撮った写真の方は逆にそのフォルムを補正してくれまして、ちょうどいい感じの長方形に写っていたのでありました。しかも彼女の目は上目使いになりますからちょっと『可愛さ二割り増し』って言う感じ。また目の上の方にある物にはなぜか警戒心が薄らぐようで、レンズを目で追ってくれさえする愛娘。この理屈は分かりませんが頭上のメリーを目で追う仕草を最近よくよく見かけるようになったことと何か相関があるのかも知れません。奥さんのクレームが僕に新しい写真を撮らせるきっかけとなったこの出来事。「人の意見はちゃんと聞いて一度は受け止めてみるべきものだ」と言うことをお勉強させてもらいました。子ども達への対応と同じようになかなかにリアルタイムではそんな冷静な判断は出来ないのですが。事あるごとに自分を振り返り見つめ直す機会を持つことが、きっと僕らには必要なことなのでしょう。 僕の子育てチャレンジ、寝かし付け用『コマさん座布団』はその優秀な実績から市民権を得ることが出来まして、愛子を寝かす必須アイテムとなりました。その実力にちょっと有頂天になっていたのでしょう。その座布団を持って松山に行った時のこと、「この座布団、すごいね」と知り合いの人に言われて「そうですか?」と謙遜してしまった僕。でも後から「すごいねとはどうすごいのだろう?」と考え始めてしまいました。最初は「すぐ寝てくれるところがすごいね」と言うお褒めの言葉かと思っていたのですが、よくよく考えれば本当のところは知らぬが仏なのかも知れません。いずれにしても松山の街中でもあれでいいと思えるのは日土の田舎者だからなのか、はたまた朴念仁の僕ならではのなせる業か。見栄えより実用性重視の僕と言いつつも、「え?これってだめ?」って考えさせられたものでありました。いつも引きこもって自分の世界を構築している僕ですが、「外に出た時にはTPOには気をつけましょう」とこの歳にして思わされたエピソードでありました。 もうひとつの僕の子育て必須アイテム『さだまさしのBGM』の方は早くも奥さんから却下されてしまいました。しかしながらSDカードに落とすためにここ数年聞いたことのなかったアルバムも再生し、グレープ時代のものも含めた46枚分を改めて聞く機会を得ることになりました。それを愛子と聞きながらとあることに気がついた僕。僕が自分で弾き語り出来るのは1985年の『自分症候群』と言うアルバム迄なのですが(僕の持っている弾き語り全曲集がそこで終わっている為)、それまでの曲を一緒に聞いていると機嫌のいい感じの愛子さん。しかしそれ以降で僕もあまり覚えていない歌達になると急にぐずり出すのです。さだまさしが若い頃に作った楽曲達が優れているのか、はたまた青春時代に聞いた思い入れのある歌達への僕の想いが分かるのか、親子で「これいいよね」と言う曲が一致していることに驚かされてしまいました。これまたDNAによる感性の遺伝なのか、それとも僕の機嫌のよさが愛子にも伝わってその想いに共感してくれると言うことなのか。いずれにしても親子と言うものは不思議なものです。言葉であれこれ理屈であーだこーだ言うよりも、この腕に抱きながら好きな曲を口ずさむそのことの方が想いを伝えられると言う不思議な体験をしてしまった僕。そんな我が子を見つめながら改めて「この子は僕の娘だよな」と言う想いに浸ったそんな幸せのひとときでありました。 『音楽ならモーツアルト』と言うことを聞きつけて来た奥さんが「モーツアルトなら」と言い出したので、さだまさしの後任としてモーツアルト10枚組のCDを買い求めて来た僕。モーツアルトなら昔のレコードから起こしたCDを始めとして家にもかなりのものがあるのですが、「モーツアルトでもダメなものがあるの」と言う彼女。「モーツアルトの音楽がいかなるものかも知らないくせに」なんて思いつつも、僕自身勉強し直す意味でそれを購入したのでありました。その企画物のCDは一枚ごとにテーマを持ってセレクトされておりまして、一枚目は『映画のモーツアルト』と言う特集でした。映画アマデウスに出て来る曲を集めたものだと言うことに「これ!」と飛びついてしまった僕。このサウンドトラック版を昔、東京のHMVで見つけたのですが買わずじまいになっていたところ、いつの間にか廃盤になってしまいました(輸入盤は今でも販売されているようです)。全く同じものではないのですが、あの映画の名場面の数々を彷彿とさせるインデックスに「もうこれだけで買い!」と思ってしまった僕。奥さん向けには『おやすみモーツアルト』『癒しのモーツアルト』『親子で楽しむモーツアルト』『マタニティ・モーツアルト』などのラベルを指示しまして「ね、いいでしょ」。『ネットや出版社のお墨付き』は素直に受け入れられる彼女。一方の僕はその正反対で自分の経験と感性を重んじる性分。その二つの落とし処がちょうどあった今回のモーツアルトセレクトなのでありました。 早速一枚目のCDをかけますとあのアマデウスのオープニング、高らかにヴァイオリンの鳴り響く交響曲25番の第一楽章が始まります。「これ、夜はダメ。寝なくなるから」のダメ出しに「これが好きなのに…」と思いつつもCDをスキップさせてゆきます。そして最後のピアノ協奏曲20番第2楽章、これは映画のエンディングで精神病院に入所しているサリエリが車椅子に乗せられて部屋から退出してゆく場面で流れるピアノコンチェルト。その美しいメロディを聞きながら愛子をあやしてやりますと、すっと寝てくれたのでありました。芸術と僕の想いを分かってくれる愛娘に「この子はえらい」とえらく感じ入ってしまった父。SDに録音する際、この後には『おやすみモーツアルト』を入れまして、このピアノ協奏曲20番第2楽章以降は本当にお休みモードの選曲となっています。しかし先の交響曲25番以降もデリートしていないので、夜にその部分に差し掛かるとピアノコンチェルト20番までスキップスキップを慌てながら繰り返す僕なのでありました。 でもいずれにしても愛子の子育てがなかったら、さだまさしのちょっと前のアルバムやモーツアルトをこうして聞くこともなかったかも知れません。またカメラの新たな扱い方を編み出したり、自分の至らないところに気がつかされたり、これらも全て僕の自己再発見&自己研鑽。この歳にしてまだ自分に伸び代があると感じることが出来ると言うことは、新たな幸せを感じることが出来ると言うことなのです。子育てとはミルクをあげてオムツを替えて、しんどいばかりのものかと思った頃もあったのですが、このように時の流れの中にすっかり埋もれてしまっていた自分の想いや財産を発掘する素敵な機会を僕に与えてくれていることに気がつかされたこの三か月。リアルタイムのその中では色々とジレンマを感じてしまうこともあるのですが、しばらく間を置いてこうして違う切り口・観点から見た時には多くの恵みを与えてくれるものであると改めてそう思うのです。そしてそれらは全て僕らを守り愛しんでくださる神様に感謝すべきものであると言うことを、この歳にして未だに未熟な僕らに教えようとしてくれる、大切なカリキュラムなのだと思うのです。 |