日土に暮らす僕らの小さな物語〜冬の書き下ろし1〜 2015.12.4
<僕らの子育て奮闘記W>
 先月の終わり頃、いっとき冬の入りを感じさせるような寒さがやって来た日土地方でありましたが、その後はまた穏やかな過ごしやすい秋の暮れの様相を呈しています。「キチキチキチ」と高らかに鳴り響く秋の風物詩の『モズの高鳴き』と、冬の到来を一足早く僕らに教えてくれる北の国から渡って来た冬鳥ジョウビタキの「ヒーヒー」と言う声を聞きながら、お散歩途中に「あいこさん、あのキチキチキチはモズですよ。ヒーヒー鳴くのはジョウビタキです」と語りかけつつ、移りゆく季節を共に心に感じている僕ら親子なのでありました。
 あれくらいの大きさの野鳥を見れば、みんな「スズメ!」と言ってはばからないのが現代人。鳥の名前を覚えたところで何の役に立つ訳でもありませんが、この日土の田舎暮らしにおきましてはここで生きてゆく楽しみの一つときっとなってくれるはず。草木を愛で、鳥の鳴く音に耳を傾けて、季節の風を感じつつ、夜空の星々を仰ぎ見る。そう、これこそ花鳥風月。僕らの人生を必ずや豊かにしてくれる、田舎暮らしの友となるもの達なのです。神様によって生かされていることを確かに心に感じながら、自然を愛し自然と共に生きてゆく。幼稚園の子ども達に対してもそうですが、僕はそんな生き方を愛子と共にしてゆきたいと願っています。

 毎晩、愛子をお風呂に入れたその後が僕らの夕食タイムとなるのですが、奥さんが食事をしている時には自室で我が子をあやしながら面倒を見ていた僕。このお風呂上りは比較的僕のお得意時間帯で、愛子のお世話はかなり上手くやっていたつもりだったのですが、ある時から何をやってもダメと言う事態に陥ってしまいました。僕が抱いただけで愛子さんはもう大騒ぎ。ミルクをあげてもおむつを替えても音楽を流してもそこいらじゅうを歩き回ってもダメダメダメ。それどころかそれまでになかった泣き方でぎゃんぎゃん泣くので、うちの両親からも「どうしたんだ?」と言われてしまう始末。どうもこうもなく、今までと何が変わった訳でもないのにこの愛子さんのつれない態度。ほとほと困ってしまいました。それなのに母親である奥さんに返したならばふっと落ち着きヒステリーも収まります。「じゃあ」とまた僕がもらえば大泣きに泣いてくれる愛子さん。問題はこの僕にあるのでしょう。しかし昼間は僕が抱いていても機嫌良くしてくれたりもするものだから、ますますもって訳が分からなくなってしまいます。こう言う時は大いにへこんでしまうものです。奥さんは育児雑誌を片手に「ああすればいい」「こうしないと」とあれこれ言って来るのですが、一向に落ち着く様相を示さない愛子の姿と矢継ぎ早に繰り出されてくる奥さんの言葉にますますもって舞い上がってしまう僕。この間はついに「もうできん」とギブアップ宣言してしまいました。
 元々『雑誌』と言うものをあまり信用していない僕。そこにあるのは断片的な情報であり仮説であり、「これが良い良い」と言っておきながらちょっと経ったら違う学者や出版社・編集者が「あれは全然ダメ」なんて平気で言ってのけたり批判したり。その分野での情報収集能力に秀でていることは確かであるので、妄信することなく客観的に受け止めながら読むべきものだと思うのです。また「お母さんが○○してあげたらいいでしょう」と言う視点で書かれたノウハウを男である僕がしても字面の通りにならないこと数知れず。勿論僕を含めて世間の父親達がちゃんと『お母さんの実現したい育児』に協調そして実践出来ていないのは分かっているつもりです。しかしあからさまに「父親の育児参画に対する多大なフラストレーションを抱えているお母さん達の溜飲を下げるためではなかろうか」とも思えるほど手厳しく書かれているコメントの数々に、「これは男の人は読みたくなくなるよな」と引いてしまうのでありました。それを引き合いに出されてあれこれ言われた挙げ句に思うように成果を上げられないものだから、今回は「もうできません」と言って降参してしまった僕なのでありました。

 そんな僕の大スランプだったのですが、いっときその時間帯における愛子のお世話を免除してもらい、その他のお役に立つことをやっているような状況です。こんなにも自分の無力感を感じたのは久方ぶりのこと。でもこのような『うちのめされるほどのダメージ』と言うものは時には必要なものなのかも知れません。うまく行けば行っただけ、僕らは増長してしまう生き物だから。相手の理解と手助けなしには何一つ自分で成し遂げられない小さな存在であることをすぐに忘れ、ちょっと調子よく物事が運んだなら『自分で何でも出来る』と思い上がり、そのあげく謙虚に自分自身を見つめることや人の言葉に耳を傾けることを怠る心の貧しき人間である、そんな小さな僕なのです。そのことを僕に教えてくれた今回の愛子のレジスタンス。今はただただそれを受け止めながら、僕の出来ることをそしてなすべきことを探し求めているところです。世間のお父さんより我が子と一緒にいられる時間が多いこと、また『子育て』を生業としている自負もあって、自分なりには奮闘しているつもりだったのですが多分に驕りもあったのでしょう。「自分は人並み以上にきっとちゃんと出来ているはず」と。
 人は他人からとやかく言われる言葉よりも、うつろいゆく無作為な自然を見つめる自らの心に浮かぶ心象にこそ、自分自身を見つめ省みることが出来るものなのかも知れません。子どもは自然、花鳥風月に属する無垢な存在。想いのままにならぬ者達を愛でつつそれらに自分を沿わせてゆければ、時のうつろいと共にまたきっと違った関わりが出来るようになるはずと、そう信じて今は我が子を見つめています。時が満ちれば神様が、きっと僕をより良く用いて下さるはずだと信じながら。


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