園庭の石段からみた情景〜園だより12月号より〜 2015.12.10
<宿屋さんとみんなの『馬小屋・ほそ腕繁盛記』>
 「今年はいつまでも暖かい秋で過ごしやすいねえ」と思っていたら急に寒波がやって来まして、寒さに身を縮めている今日この頃。でもカレンダーを見てみたならばもう12月でありまして「今頃ならこんなものか」と頭では納得出来るのですが、今までぬるま湯に浸かっていた身体の方が分かってくれません。まだ最高気温も10℃を越えており、あの大寒の頃の極寒と比べてみれば全然たいしたことがないはずなのですが、『徐々にちょっとずつ段々と』と身体を慣らすミッションを怠るとこんなにも僕らの体は環境に対応してくれないと言うことを思い知らされます。だからこそ毎日の積み重ねをあせらずはやらずゆっくりと、でもこつこつやってゆくことの大切さを思い出させてもくれるのです。そう、その積み重ねがきちんとちゃんと出来たなら、僕らは少なく見積もっても外気0℃から35℃にもおよぶレンジの広いこの国の四季を、味わい深く喜び受け入れ堪能することも出来るのです。そう、感謝の想いと自己鍛錬の心は僕らの感性と身体能力をきっと高めてくれるでしょう。

 アドベント週間を歩んでいる幼稚園では、色んな所で『クリスマス・イエス様お誕生』への想いが芽生え大きく膨らんで来ています。大きな子達の練習するページェントを見つめながら小さい子達も羊になったり天使になったり聖劇の歌を歌ったり、自由遊びやごっこ遊びの中に生誕劇の情景が取り込まれその雰囲気をかもし出してくれています。またばらさん達のクラスの中での聖劇ごっこも盛り上がりを見せておりまして、それぞれの解釈でそれぞれの場面を演じながら遊んでいます。マリヤさんとヨセフさんが手をつないで歩くシーンをよっぽど気に入ってしまったのでしょう、ある女の子。彼女は宿屋探しの場面は勿論、羊飼いのシーンでも博士のシーンでも好きな男の子の手を引きその子を引き連れて、お芝居の場面を行ったり来たり。物語自体はなんだかよく分かっていなさそうな彼女なのでありますが、とにかく『ラブラブカップル』の喜びを体現したくって、手をつながれへらへらほよよんと喜んでいる男の子を意のままに連れまわして大喜びしていたのでありました。
 そんなある日のこと、もも組のお部屋の前に運動マットと積木とお布団で小さな小屋が建てられました。ごっこ遊びの延長で子ども達と先生が作った小さなおうち。子ども達もその中に潜り込んでうれしそうに遊んでおりました。翌週には研究会の公開保育が行われることにもなっていたので、子ども達の遊びの姿としてそれをそのまま残しておくことになり、その時はそれで終わったかのように見えた『おうち遊び』でありました。その日の預かり保育には沢山の子ども達が残っておりましてまたみんなしてそのおうちで遊んでいたのですが、一人のももの女の子が「なんか馬小屋みたい」とぽつりとつぶやきました。よくよく見ればそうも見えるのですが、それを豊かにイメージさせるには『シンボル』や『アイテム』が足りません。「どうしたら馬小屋っぽく見えると思う?」の問いかけに、「星があって天使が飛んでて・・・」と聖劇の大団円の場面を思い出しつつアイディアを出してくる子ども達。「じゃあまずは星を作ろうか?」とダンボールを引っ張り出して参りまして、大きな星の形に切ってみたのですが、なんか淋しいくすんだ色の星になっちゃいました。そこでこの間やった『焼いもパーティー準備』の残りがあったアルミホイルを持ち出して来たならば、「これこれ!」と子ども達がダンボールに貼り出しました。大きな大きな星なので何枚もつぎはぎしながらアルミを貼ってゆく子ども達。穴の開いた所や裏側の面まできちんときれいに貼りながらテープで止めてゆきました。それを小屋上の天井から吊るしてみれば「あー!うまごや!」と大喜びの子ども達。そこから彼女達の馬小屋フィーバーが始まったのでありました。
 そこからイメージを膨らませアイディアを出して来たのはすみれ組の男の子。博士の捧げ物が必要だと言って、空き箱で黄金を作り出しました。それならと『油』を作るためにペットボトルを持って来たならば、またまたアルミホイルを貼り出す子ども達。ピカピカの出来上がりに「それでいいんじゃない?」と言う僕に対して「色が違う」「持つ所がない」と改造を試みる子ども達。アルミの上から黄色い油性マジックを塗ってみたり銀色の画用紙を切って来て取っ手の所を作ってみたり、聖劇の小道具のイメージに近づけようと自分達であれこれ試行錯誤を重ねながら楽しそうにやっておりました。またお預かりの時間に作っていた折り紙の鶴をその周りにはべらせまして、馬小屋に飛び交う小鳥達を表現したり、ダンボールの切れ端を船形に折りながら『かいばおけ』を作って人形を乗っけたり、自分達のイメージのふくらみに伴って色んなものを配しながら馬小屋を整えて行ったのでありました。オリジナルのおうちは残しつつ馬小屋の情景をそこに描こうと思っていたのですが、遊んでいるそのうちに先の『おうち』が段々と崩れてしまい、最終的にはリメイクとなってしまいました。その出来上がりを見つめながら「おうち、なくなっちゃたんですね」とちょっと淋しそうにつぶやいた先生に申し訳なさを感じながら、子ども達の想いが生み出したこの馬小屋をしげしげと見つめた僕なのでありました。
 週が明けて公開保育の本番当日。この馬小屋を朝一番で見つけたもも組の男の子。目を輝かせながら「天使も作る!」と言い出したその子の声を受けまして、ダンボールで天使の人型を切り出せばそこに色を塗り顔を描き出した子ども達。金髪に白い服、ちょっと彩りの配された衣装を身にまとった素朴な顔の天使が出来上がりました。それも天井からぶら下げてまして、馬小屋の情景がどんどん素敵になってゆきます。こうして誰かが何かを言い出すたびに、豊かな新しい表現によって馬小屋のディテールが構築されてゆきました。公開保育が始まりまして、人目を引いた子ども達の作ったその馬小屋。やはり教会幼稚園同士だからと言うことでしょうか。「これは子ども達が作ったんですか?」とこの馬小屋の出来た経緯といきさつについて興味深そうに質問をしてくれた先生もありました。クリスマスをテーマに掲げた研究会の中でひと花咲かせてくれた子ども達の馬小屋でありました。

 その日以降もこの馬小屋の周りでごっこ遊びを楽しんでいた子ども達にまた新たな展開が訪れました。『形ある物はいずれ壊れる』のがこの世のことわり。素敵だった馬小屋も段々荒れ果てその体をなさなくなって来てしまいました。お部屋の入口前に広げられた馬小屋の部品も散乱し、ちょっと出入りや物の取り出しに不自由さを感じる様にもなりまして、馬小屋を移動してコンパクトに再構築させることにいたしました。その『立ち退き問題』に於きましてもまた張り切って働いてくれたのはあのもも組の女の子。「馬小屋は私がなんとかするわ!」って感じで、みんなに声をかけながら要らない積み木を片付けつつ新しい馬小屋をひと区画横の『預かりの部屋』の前へ移築させてくれました。みんなそれぞれこの馬小屋には思い入れがあるようなのですが、彼女のそれはなんか特別。そのノリの良さに大いに助けられた僕ではありましたが「なんでかな?」と思っていたところ、なるほど理由が分かりました。そう、この子、宿屋さんだったのです。天性の前向き少女である彼女のキャラクターのゆえなのか、はたまた聖劇での役柄を背中にしょって自分の仕事場である宿屋&馬小屋に人知れぬ愛着を持ってしまったのか。なんだかおもしろいことになって来ました。その後も『遊びに来たばらさんが壊して行った』とか『飾ってあったオブジェがなくなった』などなど、そのお宿は度々廃業寸前の試練に見舞われたのでありましたが、その度に『宿屋のおかみさん』がその部分を修繕したり新しいアイディアを持って飾り直したりしてくれて、イエス様のための馬小屋をそこに存在させ続けてくれたのです。しかし彼女のプロデュースは修繕だけにとどまらず、「これだめ!」と言って馬小屋に寝ていた赤ちゃん役のスヌーピーを降板させ代わりに子ぎつねを持って来たり、「あーあーあー、それはそうじゃないのよ」と自分の思い描く馬小屋のありようを友達に語って聞かせたり、みんなの馬小屋を素敵に体現するそのために夢中で取り組んでくれたものでした。後日、また放課後のお預かりの子ども達と馬小屋オプションを製作するそのために、マリヤさんと宿屋さんの人型をダンボールで切り抜いていた僕。それを聞きつけて来たあの宿屋の女の子、「宿屋さんは私がやる!」。「でも今日はお預かりじゃないでしょう?」と尋ねたなら「明日やるから残しといて!」と執着を見せる女の子。彼女の宿屋魂はどこまでも本物のようで、うれしい想いで「うんうん」とうなづいた僕なのでありました。

 木曜日の日土教会の礼拝後、この馬小屋の前を通りかかった牧師の松井先生が「あーこれって馬小屋なんだ」とその情景を見つめながら嬉しそうに呟いておられました。長年、聖劇をクリスマスにやって来た日土幼稚園ですが、そう言えば実物スケールで馬小屋を作ったことはなかったような気がします。毎年自由遊びの製作では塗り絵の『馬小屋バッグ』を作ったり、広告紙のくるくる棒で屋台骨を構成した『立体馬小屋』を作って遊んだりして来たのですが、こう言うのは思いつきませんでした。幼少時代、僕が通っていた杉並の永福町教会ではこの季節になりますと庭にわら仕立ての馬小屋を作りまして、それを大道具に用いて教会学校のページェントを行なっていたのですが、それを体験している僕もついぞ思いつかなかったこのアイディア。宿屋さんならではの大ホームランとなりました。苦境を乗り越えてはどんどん素敵になってゆくことの不思議さと喜びを感じながら、子ども達の「あれ作りたい!」にお付き合いしつつアドベントを過ごしている僕らなのです。
 そんな馬小屋を見つけましてお預かりでこの部屋に来ていたばらさん達、捧げてあった博士達の供物を持ち出して「私のもったこの宝ー」とご機嫌モードで遊んでいます。今、お預かりの子ども達の間では切り抜きパンチが流行っているのですが、クマや星型に切り抜いたパンチを透明プラケースに入れましてカサカサやっていた女の子。それをおもむろに祭壇に置きまして、気分は『宝をお捧げしちゃった博士さん』。「へえー」と思い見つめていたのですが帰る時には「持って帰る!」とお宝を回収しておりました。「なんでも欲しい欲しい!のこの子がお捧げなんて・・・、やっぱりもったいなくなっちゃったのかな」と思いつつ、彼女らしい行動に思わず笑ってしまいました。でも次の日、馬小屋を覗いたならその彼女の宝物がまたちゃんと置いてあって、やっぱり置いて行ってくれたのかはたまた再びお家から持って来てくれたのか、そんな揺れる女心とその子の笑顔を見つめながら、クリスマスならではのこの子達の心の成長物語になんかうれしくなってしまったのでありました。

 こうして色んな子達の心のきらめきを映し出してくれているこの馬小屋。でもそれは毎日何かしらの形で『イエス様のお誕生をお祝いするクリスマス』に触れそのイメージを豊かに子ども達が膨らませてくれているからこそだと思うのです。その想いを体現する『よりしろ』として神様によってこの馬小屋が用いられ、こんな素敵な物語を織りなしてくれていることに嬉しさを感じる僕なのです。子ども達の『おうち遊び』のおかげで生まれて来たこの馬小屋、今では積み木やマットなどオリジナル部品はほとんど残っていませんが、子ども達と僕らのクリスマスへの想いがそこに宿っている限り、そしてそのよりしろに向けて投影されるイメージとアイディアが枯れ果ててしまわない限り、きっとまた形や場所を変えながらも、そして『戦利品』としてそれぞれのオブジェをおうちに持って帰ったその後までも、この子達の想いを体現し続けてくれることでしょう。神様はそのように僕らのつたない働きを何倍にも大きくして用いて下さるのです。神様に、そして降誕祭に感謝です。


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