園庭の石段からみた情景〜園だより2月号より〜 2016.2.28
<心の根っこに育つ大根>
 二月に入り節分・立春を迎える季節となりました。朝の全国ニュースに「まだまだ真冬並みの寒さが続くようです」と脅かされ身構えながら幼稚園に降りて来るのですが、先月のマイナス零下の大雪の日の寒さを体験した身にはそれほど大ごとには感じられません。もっとも寒がりな僕のことですから防寒対策はちゃんとして『着だるま』になった上でのことではあるのですが、肌を包み込む冷気が格段に柔らいで来たことを感じます。人と言うものは「寒い寒い!」と言っていると心までが寒くなってゆき、体感的にもいっそう寒さが身に沁みるもの。小さな小さな春の香りやぬくもりを見つけては「もうすぐ春だねぇ」と感じ入ることが出来たなら、心も体もちょっと温かくなれるものなのです。心理学の観点から見てみても心と体は密につながっているもので、『心主導』で喜びと感謝を持って暮らしてゆければ体の方もそれについて来て、元気に健康に生きてゆくことが出来るのだとか。園庭にたたずんでいたならば時より差し込む春の陽射しがなんとも暖かく心地良く、そんな言葉を思い出しながら子ども達とひなたぼっこを決め込んで、春の訪れと自然の恵みを感謝しつつ喜びながら受け止めている僕らなのでありました。

 そんな春の暖かさに誘われて、朝の園庭開放の時間にまたひよこちゃん達が遊びに来てくれるようになりました。在園児のお兄ちゃんお姉ちゃん達が縦横無尽に走り回る園庭の隅っこでそれに負けじと遊んでいるこの子達。鬼ごっこのお兄ちゃんにぶつかって尻もちついたり、サッカーのボールがすんでの所まで飛んで来たり。そんな中でも自分の遊びを貫いてボールをどこまでも追いかけ遊んでみたり、お姉ちゃん達の後をついてまねして走ったり。やはりこんな幼い頃から子ども達の輪の中で遊んでいる子はたくましく力強く育つものだと、感心しながら見つめています。その子達、たいがい『上の子の登園について来ての幼稚園』なのですが、『自分もお姉ちゃんみたいに幼稚園に行きたくってなんとも仕方がない様子』がその表情の中から嬉しいほどに伝わって来るのでありました。
 夏には青草ぼうぼうのジャングルになり、秋には木枯らしに吹き飛ばされた枯葉達が舞い散り彩る園庭も、この季節にはモノトーンの淋しい風景となっています。ちょっと山裾まで足を延ばせばそれなりに草花も顔を見せてくれる幼稚園なのですが、園庭は砂地質の上に冬は遅くまで日が差し込まず、なかなか草木が育ちません。そんな園庭を子ども達も心淋しく思うのか、お散歩をする度に山に咲き乱れる菜の花をちょんちょん手折っては持って帰って来ます。しかし採った時には大喜びの子ども達も園庭まで戻って来たならもう次の遊びに想いが行って、そこらここらに摘み取られた菜の花達が淋しそうに置き去りにされているのでありました。そんな菜の花をかわいそうに思った僕。その花達をペットボトルに水と共に入れまして花瓶ざしにして園庭に飾っておきました。それは一月の大雪前のこと。その花瓶ざしのペットボトル、砂遊びの子ども達にひっくり返され、ボール遊びの子達のサッカーボールにかやされするのを見つける度に、立て直し水を入れて園庭に置き続けた僕。花屋さんの切花と同じように「一週間も持てばいい方だろう」と思っていたのですが、菜の花達は一向に枯れる様子を見せません。そうこうしているそのうちに二月も半ばを過ぎまして、とうとうひと月も園庭を鮮やかなその黄色で明るく彩ってくれたのでありました。「菜の花ってこんなにすごいんだ」と感銘を受けた僕と子ども達。今度は菜の花を『ダイコン根っこ』ごと引き抜いて来て、植木鉢に植えてそのお世話を始めてみることにいたしました。これまた子ども達の荒々しい遊びの中にあって、茎が折れたり傾いたりしながらも、花が咲いたその後に豆鞘をちょっとずつ膨らませて来ています。「これに種が出来るまで育てられたら素敵だね」と子ども達と一緒に毎日水遣りをしているところです。

 そんな野の花とひよこちゃん達を見ていると、何かあい通ずる所があるように思えて来ます。花屋さんで「これ!」と選んで来た栽培種の花苗をプランターで大事に大事に育てても、ちょっとのことで枯らしてしまうことが往々にしてあるものです。それも水のやり過ぎだったり肥料だったりの過保護に依ることが多いと言うのがなんとも皮肉なところです。僕らにしてみれば過ぎるほどに一生懸命に想ってのことなのですが、枯らしてしまうと言うよりも手をかけすぎて根を腐らせてしまうと言うのがその実なのかもしれません。それに対して野の花は栄養の少ない土地に種を落としたならば、そこに大きく根を張り『ダイコン』や球根に自ら栄養をちょっとちょっとずつ蓄えながら、自らきれいな花を咲かせて見せてくれるのです。そして子孫を残すのも彼らの大事なライフワーク。豆鞘に一杯種を作ったり、綿帽子にして種を飛ばしたり、僕らが種を撒かずとも水をやらずとも毎年この丘一面をきれいなお花で一杯にしてくれます。でもそれは神様が彼らに必要なものを全て与え、守り育ててくださっているからこそ。僕らの思惑を遥かに越えた慈しみと守りの中で、野の草花達は自らの生きる力・育ってゆこうとする力を糧にして、のびのびと育って行くのです。ひよこちゃん達も『その子の為にこの幼稚園を選んで来た』と言うよりは『お兄ちゃん・お姉ちゃんの登園について来たそのおまけ』で遊んでゆくこの園との関わりの中で、幼稚園にやって来ては『楽しいもの・欲しいもの』を自ら見つけ取り込んで心の根っこを健やかに太らせてくれているのです。「幼稚園行きたくない」と言う在園児に対して「帰りたくない」と泣いて帰るひよこちゃん、その対比がなんとも象徴的に見える朝の園庭開放の時間なのでありました。
 しかしこのひよこちゃん達も『勝手知ったる幼稚園』であるからこそ、このように想いのままに遊ぶことも出来るのです。自らの想いを一杯に満たしてくれるものがそこあることを知っているから、また「行きたい!」となってくれるのでしょう。日土教会の松井牧師が「礼拝はイエス様をみなさんに紹介するものです」とお話してくださったことがありました。その学びを得てから保育のありようについてずっと考えて来た僕なのですが、最近では「君達は神様によって選ばれ愛され、生まれて来た稀有な存在の命なんだよ。イエス様はそんな君達一人一人と共に寄り添いながら守り導いてくださる方なんだよ」と言うことを子ども達に紹介するのが僕らのお仕事なのだと思えるようになりました。『言われたことを出来るようになること』が僕らの目指すべき保育なのではありません。命と言うものはこんなにも値高く素晴らしいものだと言うことを伝えてゆくこと、神様が私達ひとりひとりに与えてくださった御霊(『何かを好きと思える心』や『一生懸命取り組める想い』)が自分達の人生を切り開いてゆく業を育み自らの想いをもってその心と身体を育ててゆくそんな保育をしてゆくこと、それこそが僕らの目指すキリスト教保育の姿なのだと思うのです。そのために僕に出来ることと言えば『子ども達にこの世界の素晴らしさを紹介すること』そして『子ども達に自分自身を紹介すること』なのではないかと思うのです。彼らと一緒に野山に繰り出し神様のお創りになったこの世界について自然物を手に取りながら言葉を投げかけたなら、きっと子ども達は自然の素晴らしさを感じる心を養い育てて行ってくれることでしょう。また一緒に遊ぶ工作遊びは『僕らの手や頭はこんなに素敵なものを作り出せるんだよ』と自分の素晴らしさを発見・探求・開発するためのプレゼンテーション。『やくたいもない廃材』に意味を持たせ価値を加えるための働きとそのための努力・自己啓発がどんなに素晴らしいことであるかを紹介するためのカリキュラムであると僕は信じているのです。これらの遊びを通して『神様は僕らにこんなに素敵な世界を与えてくださったんだよ。僕らはそれぞれ素敵な能力を与えられ、この世界とそこに生きる尊い命達を大切によりよく生かしてゆく働きを神様から託されているんだよ』と言うメッセージを、伝えてゆくべき使命を僕らは担っているのです。そのために日々自らの学びを求め、そこで得たものを子ども達に投げかけながら、僕らは保育を行っているのです。

 そんな投げかけにある日ふと応えてくれる子ども達。二月の讃美歌『まもり』の歌詞を紐解きながら「『小さな木の芽が見つかった』ってほら、ここにも木の芽があるよ」と紫陽花の枝を指させば、その言葉に大いに感銘を受けてくれた男の子。潤子先生やお母さんの手を引いて来て「ほら、木の芽だよ。これが葉っぱになるんだよ」と嬉しそうに語っておりました。歌だけではなく言葉だけでもない、そこに歌われた命の息吹きを自分の目で見、自分のその手で触れながら、「あーこれがそうなんだ」と理解・納得出来た時、そこには言葉によるただの知識をはるかに超えた感動が生まれ、それを誰かに伝え一緒に共有してもらいたいと言う想いが生まれるそのプロセスを、僕に体現して見せてくれた男の子なのでありました。
 またちょっと前までは僕の用意した『塗り絵バッグ』作りに大喜びしつつ、色塗りしながら遊んでいた子ども達が、最近になって自分でアイディア出しから作成までオリジナリティーあふれる自由製作を作り出して遊ぶ姿を見せてくれるようになりました。僕の顔を見たなら「なんか作りたい、段ボールちょうだい!」。昔の「なんか作って!」の言葉は淋しいほどに聞かれなくなりました。『なんか』を人に作ってもらって喜んでいた時代を通り過ぎ、自分のイメージする『なんか』を作りたいと願えるようになったこの子達。これも素敵な大きな成長であると思うのです。自分で何かを作りたいと願い、その何かを具現化してゆくための技術やノウハウを学びたいと言う季節に入って来たようで、僕はただただ絵を描く際の表現方法やシンボル化の手法を教えたり、二つの部品を固定する方法やその際のテープの使い方などを教えるテクニカルコーチとして用いられています。この前、「段ボールちょうだい!」と言って来た男の子が作って見せてくれたのはロボット。『ロボット』と聞いて箱型の立方体からなる立体ロボットを想像してしまった僕でしたが、彼はダンボールに二次元のロボットを描きはさみで切り出したのでありました。「これが幼稚園児の工作だよね」と思いながら彼の作業を見ていたのですが、そこからが彼のオリジナリティーの真骨頂。手の先に切り裂きを入れて何をするのかと思いきや、そこに別部品で作った剣を差し込んで持たせるようにしたのです。それも脱着可能なようにテープで固定をすることなしに。TVでやっている『○○レンジャー』の巨大ロボ、大きな剣を振りかざして戦うのですがその武器が剣であったり銃になったり、広いオプション性を持っていることを知っている今時の子ども達。色んな武器を持たせることが出来るようにと手の先を『切り裂き』にして、フレキシブル性を持たせると言うアイディアを自分の頭で考え出したのです。これには思わずびっくり、大いに感動させられたものでした。僕の狭い固定観念の中からはきっと生まれて来なかったであろうその発想は、「『○○ジャー・ロボ』を作りたい!」と言う自らの切なる想いによって生まれて来たのです。これには僕も完敗を認め、脱帽させられたものでありました。子どもとはなんとすごいものなのでしょう。
 こんな風に僕が子ども達に紹介して来た物達が、彼らの想いの中で高く深く昇華され、新しい発見・発明・パフォーマンスに結びついてくれたことを本当に嬉しく思います。でもそれは僕がただただ神様によって用いられた結果だと思うのです。彼らの想いの種を受け止めて、想いを育む土壌となって、自ら伸びてゆきたいと願う彼らの気持ちにそっと寄り添うだけの僕。とってもやせっぽちの土地ですが。その僕を生かしながら神様の御霊が子ども達に働きかけて下さることによって、これからも彼らは自らの根っこに太い太い大根を育てて行ってくれることでしょう。


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