日土に暮らす僕らの小さな物語〜冬の書き下ろし3〜 2016.2.18
<僕らの子育て奮闘記Y>
 おかげさまで先月末に愛子も生後六ヶ月を迎えまして、元気に成長しています。奥さんから「今日はハーフ・バースデー」なんて言われて最初は何のことだか分からなかったのですが、最近はそんな歳の数え方もあるんだと雑誌やメディアの『子育て盛り上げ戦略』のマメさに感心してしまったものでした。しかしそれでも一日一日を乗り越えてゆくことに一生懸命な僕らにとってそれを半年間積み重ねて来ることが出来たと言うそのことは、やはり喜びであり感謝であり「僕らにとって記念すべき日なんだな」と感じさせてくれたものでした。それほどに本当のお誕生日、一年と言うスパンは程遠く長いもの。生まれたその日から始まって、この半年の間に愛子はめくるめくような成長を遂げまして、それに対して僕らも様々な対応を求められ手探りながらがんばってやって参りました。その日々を振り返りながら、この先また前を向いて歩いてゆくには『ハーフ・バースデー』とは良い折り返し地点なのかもしれません。それが愛子自身の成長の中でも顕著に表れて来ました今日この頃。またこれまでと違った奮闘を展開している僕らなのでありました。

 比較的身軽な上に足腰のバネはしっかりついてきた愛子さん。『お座り』が出来るようになりました。そうは言っても重い頭を支えバランスを取るために前に後ろにゆらゆらふらふらしているのですが、それでも彼女自身がそれを喜んでするのです。寝かせられると怒ることが多くなった愛子さん。先月頭の時点ではそうなると抱っこしているしかなかったのですが、「私は起きていたいんだから!」の意志の強さが彼女にそうなさしめてお座りを可能にしたのでしょう。もっとも最初は『ふらふら、こてっ!』と転倒しまして「おでこを角にぶつけた!」と奥さんを大騒ぎさせておりました。こちらもそうなって初めて対応と言うものを考えるようになる訳で、今では彼女のお座りゾーンの周りには角保護テープが貼り巡らされ、さらに身の周りに三日月クッションをも配備しまして愛子がこけて来てもいいように配置がなされるようになりました。時々そのクッションに背中をもたれさせ、えらそうにふんぞり返りながら座っている愛子さん。僕にこっちに来て欲しい時には自分のひざをパンパン叩き「近う寄れ!」。そのご満悦な表情と高ビな態度に「あんたは社長か?」と苦笑いしている『御付きの者』の父なのでありました。
 『寝ているのイヤ!』になってしまった愛子さん。奥さんもほとほと困っているようでして、お着替えの時にも座って洋服を脱ぎ着するほど。抱っこも『横抱き抱っこ』をしたならば、足と背筋を使ってぴちぴち跳ね回る『ハトヤの大漁宴』のような抵抗を見せまして、「やだやだやだ!」と自己主張を見せています。「これで落ちても自爆ですよ」と言うほどのパワフルなレジスタンスなのですが、そんな彼女が従順に半横寝になってくれているのが『お風呂』と『お食事タイム』なのです。
 お風呂はもとより大好きな愛子さん。膝の上に乗っけての体洗いもご機嫌さんでひと通り洗ってもらうのを大人しく待っていてくれるのですが、ちょっと苦手なのがほっぺたとあごの下・首周りのシャボン洗い。泡で出てくるボディソープを手に取って、ほっぺたにちょんとつけてクルクルしたならそこからもうもう『しかめっつら』。そこでもたもたしていると「わーん!」と泣き出してしまうので、すぐさまお湯を浸らせたガーゼでふき取ります。そしてまたもう片方のほっぺを・・・とするのですがこれがなかなかシビアなタイムレースとなっています。そのさまはまるで自動車レース『F1グランプリ』のピットインさながらで、『その一秒のもたもたが命取り』と言わんばかりのひやひやながらにやってます。その泡泡を除いて体も流し、「もう終わり!もう終り!お風呂にはいりますよー」と愛子を抱えて湯船に飛び込むのでありました。お湯に浸かるとご機嫌も立ち直る愛子さん。両腕をぴょんこぴょんこさせながら水面をぱちゃぱちゃ叩いたならば、しぶきが飛び散って「うひゃー!」って顔。洗顔ではあんなに大騒ぎしてくれるのに自分の『ぱちゃぱちゃ!うひゃー!』は面白いのか、何度も懲りずにやっています。唯一これまで『お任せあれ!』だった入浴も愛子の成長に伴って、また更なる観測と考察・そして投げかけが求められるようになって来ました。しかし親子一緒に成長しつつ大きくなってゆくと言うことは、きっとそんな所に意義も意味もあるのでしょう。子ども達のありのままを受け入れつつも、学びと祈りとを持ちながら僕らの想いを投げかけてゆけたならそれが何よりなことだと思うのです。
 また先月から愛子も離乳食を始めまして、母子共に大奮闘しているところ。最初はWAKODOのインスタントキューブで様子を伺っていた奥さんですが、愛子さんが意外と好き嫌いせずに食べてくれる姿を見つめながら大いなる手応えを感じたのでしょう。最近では人参やカボチャを手ずから摩り下ろし離乳食を作っています。それをスプーンに乗せてお口に運んであげたなら、舌をぺろぺろやりながら口の周りをべたべた汚しまくりながら、黙々と食べてくれる愛子さん。この時にはバウンサーに座りながらも『やいのやいの!』と言うこともなく過ごしてくれるから不思議なものです。またこの姿勢でどのようにしたらそうなるのか分からないのですが、よだれかけは勿論、床にも服にもあちらこちらに食べこぼしが飛び散りまして、食後の彼女の周りはえらいことになっています。そんなこんなをやりながらも目の前に差し出されたスプーンにかぷっとかぶりつきモグモグやってる愛子さん。彼女にとって『食欲に勝る欲望はない』と言うことなのでしょう。でもでもそれが何より。体が資本、元気がなにより、美味しく食べられ健康でいられるのが一番です。そう言えば、お座りが出来るようになってからお通じの方もより良くお便りがあるようでして、奥さんが疲れ果てるほど一杯してくれちゃったその後は、決まって上機嫌なのだとか。偏食が多くて食べるものも食べず出るものも出ない今時の子どもに対して、もりもり食べたその後に「一杯出たらすっきりしちゃって気分が良いわ!」とはなかなかに健康的。お世話の方は大変なのでありますが、そんなところは親孝行のしっかり娘なのかもしれません。

 その『寝るのがイヤイヤ』で一番手ごわいのが『夜の寝かしつけ』です。ちょっと前までは寝る前の授乳で眠くなって、それから30分から一時間もあれば寝かしつけられたものだったのですが(奥さんがですが)、最近ではベッドに置いたら「んぎゃー!」と起きての繰り返し。先日、その状態で一時間も二時間も彼女に付き合っていた奥さんが「代わって」ととうとう助けを求めて来ました。代わったところでこうなった愛子を僕がどうこう出来る訳でもないのですが、「ずっとずーっとはお気の毒」と思い愛子の寝かしつけに挑戦してみました。先月来、『縦抱き抱っこでゆらゆらゆら作戦』が功を奏して寝かせるところまではなんとかもってゆけるようになった僕。それまでに散々奥さんの腕の中でぐずっての疲れもあってでしょうか、ゆらゆらしているうちに愛子さんもすーっと寝入ってくれました。そこでベッドに寝かせようとしたならば「うーん!」と起き出してひと騒ぎ。「こりゃいけない、やり直し」と彼女を抱き上げ立ち上がり、ゆらゆらしてたらすぐにも「くー」。僕もこの『負の螺旋階段』に迷い込んでしまいました。いいかげん僕もしんどくなって来まして、愛子を抱いたままベッドの上で小山になっていた掛け布団の上に体を横たえたのでありました。それには不思議と反応しなかった愛子さん。「このまま寝てしまえ」と愛子をお腹の上に乗せたまま、一緒に眠ってしまいました。ひと眠りして復活してきた奥さんがそんな僕らを見つけまして「代わる」と愛子を引き取ってくれるまでの2〜3時間の間、僕らはそうして『ラブラブ状態』で寝ていたのでありました。お腹の上の愛子さんが温かくって僕もなんか気持ち良かったのですが、彼女が僕の胸の上でうつぶせになって寝ているので口をふさいでしまわないように度々見ながら気にしたものです。それで上手くいってしまったのに気を良くしまして、最近では『寝かしつけ交替』にもまんざらではなく応じている僕。ただ全くフラットな所に寝転びますと愛子さんが気付いて起きるのと、彼女の口をふさいで息が出来なくなるのが恐いので、最近は半身をネジって腕枕状態に持ち込んでいる僕。イチャイチャモードから反転しつつベッドに押し倒しての腕枕と、なんか愛子との『恋人ムード』を楽しんでしまっています。でもこれにもオチがあって、その姿勢で2〜3時間も寝ていれば腕がしびれて来て僕も目が覚めるのですが、ちょっと姿勢を変えようと動いたとたんに「ふんぎゃー!うんぎゃ!」の『愛子覚醒』。結局のところ寝かしつけとは名ばかりの『一時預かり専門』の父なのでありました。

 ボケや駄洒落でコミュニケーションを取ることで成り立っている僕と幼稚園の子ども達の仲良し関係。でも言葉遊びの面白みが分かるようになって初めて通い合う種のコミュニケーションなので、三歳以下の小さい子はなかなか笑わすことが出来ません。それは我が子とて同じこと。愛子の写真を撮る際もなかなか快心の笑顔が引き出せず、この僕にして意欲的に「愛子の写真!撮る!」となれずにここまで来たものです。友人の中には『生まれてから毎日我が子の写真を一枚ずつ撮り続けている』と言う奇特な人もいるのですが、そう言うコツコツにはあまり想いが行かない僕。一日忘れただけで『その誓い』がそこで途切れてしまうような、そう言うチャレンジは自信のなさも手伝ってどうも嗜好が向いて行かないようなのです。また幼稚園のお母さん達は「ぶさいくな顔でも可愛いのよね」と嬉しそうに写真談議をしているのですが、カメラを手にしたならば親以前に『芸術派カメラマンモード』にスイッチが入ってしまう僕。奥さんは『記録だから』と事あるごとに「愛子の写真撮って!」と言って来るのですが、なかなか満足行くものが撮れません。愛子の撮りどころのタイミングがなかなか掴めず連写モードでパシャパシャ撮ってはみるのですが、僕的には手応えがないのでそのままハードディスクに保存してお蔵入り。しばらく経って「この間の写真は?」と尋ねられてパソコンを見返してみても、どれが良いんだか悪いんだか。結局奥さんに良いのを選んでもらってプリンターでプリントアウトしているような、そんな体たらくなのでありました。「これ!」と言う写真が撮れた時には他の仕事を後に回しても作品として仕上げようとする僕なのでありますが、我が子の写真と言えどこのムラッ気だけはどうも治らないみたいです。僕には営業カメラマンは務まりそうもありません。
ならば「愛子渾身の笑顔を撮るしかない」と彼女を笑わせる方法をあれこれ画策し始めたお父さん。それは彼女に向って遊び歌・『私は猫の子』を歌って聞かせた時のことでした。「おひげがピン!」の『ピン!』にニヤーっと笑ってくれた愛子さん。その姿に「これ!」と思い「ピン!ピン!ピン!」と『ピン』を連呼してみれば、ケタケタケタと大笑いしてくれたのでありました。これが愛子から僕が初めて取った大ウケでした。またしばらくして愛子を抱っこしていた時のこと。僕に抱き上げられて嬉しかったのか大興奮の愛子さん。両手をブンブン振り回しそれが僕の顔をペシペシ叩くので、「やめてくださいよー」と情けなさそうな顔をするとこれまたケタケタ大笑い。さらに加えてペシペシして来る愛子に「ひいー!やめてー」とオドケタ口調で言ってやれば、その「ひいー!」がツボにハマッて大爆笑。今では彼女に対する一番『鉄板のギャグ』となっています。この「ひいー!」と言う表現は漫画の中で縦線が何本も入った顔に添えて『引いてゆく心情』を表すのによく用いられる『記号』として登場するのですが、これまでそれは『漫画の中のお約束』だとばかり思っていました。その『音』が心に残るのか、はたまた表情とのコンビネーションで絶妙な取り合わせに聞こえるのか、それは愛子に聞かなければ分かりませんが確かに彼女の笑いを引き寄せるのです。漫画文化やサブカル議論など聞いたことも認識したこともないような赤ん坊がその一遍のギャグで受けたことに大いなる感銘を受けた僕。静寂を『シーン』と言う音で表したり、唖然とする表情を『目が点』の顔で表現したり、漫画が『記号化』して来た表現が今では誰もが共感・理解出来る『言語』として世の文化を支えていることなどを鑑みても、このように既存の枠に捉われない『漫画文化』が発明した表現達は、現代に生きる僕ら大人から乳児に至るまで絶妙なコミュニケーション手段なのかもしれません。愛子の子守りを通じて現代文化論にまで想いを馳せている僕。『子どもとの関わり』はこのように自分の世界をどこまでも広げて行ってくれる貴重な体験と言えるのでしょう。

 そんないい所まで行った僕の『愛子撮影プロジェクト』だったのですが、カメラを手にしてはたと気付いてしまいました。「これでは写真は撮れません」。体を張っての『愛子笑わせ作戦』であったがゆえに、カメラを構えることが出来ないのです。これが僕お得意の『言葉で笑わせる撮影術』との決定的な違いであることを、この時教えられてしまったのでありました。それはそれで仕方がありません。愛子の大爆笑の笑い顔は今のところ僕の心のフィルムにのみ焼き付けられています。でもそれはそれできっと素敵で大切なことなのかもしれません。この笑顔をも一度見るために、僕は何度も何度でも彼女のピエロになれることでしょう。この子が喜んでくれるその姿が、なによりの僕の喜びとなっているのだから。
 でもそんな僕に神様は違ったシャッターチャンスを与えてくれたのでありました。それが例の離乳食。初めの頃はスプーンを目がけて一心不乱に「ぱくっ!」と行ってた愛子さんだったのですが、近頃では食事を楽しむことを覚えた様子。「ぱく!」っと一口食べた後、満面の笑みで「にこー」っと笑ってくれるのです。これには僕も奥さんも大喜び。父はここぞとばかりにカメラを向けて素敵な彼女の笑顔にシャッターを切り、母は「これまでの苦労がこの笑顔で全て報われた」とそんな面持ちで愛娘を見つめています。いつもいつもそうなるとは限りませんが、それだからこそ神様に感謝したいこの笑顔。ほんとに素敵なご褒美を神様は僕らに与えてくださいました。早速その写真をパソコンで色味や露出を整えてプリントアウトしてみれば、いままでで一番の笑顔のスナップに父もちょっと誇らしげ。奥さんにプリントをあげたなら、いつもはちょこちょこ注文をつけてくる彼女もこれに関しては文句なし。「誰彼にあげるから」と僕に何枚も焼き増しを注文してくれたのでありました。それにしても生まれて半年、その間のベストショットが食事風景であるなんて、なんと愛子さんらしいのでしょう。奥さんが聞いて来た話では「離乳食なんてそんなに喜んで食べてくれるものじゃなかったわよ」と言うことが往々にしてある乳児の食育。食べ物を美味しく食べられる感性と、その精神を宿らせる子どもの肉体の健康と、母親の想いと学びと準備とを、神様が整えてくださったそのことが愛子にこのように素敵な体験と成長をもたらせてくれたのだと思うのです。でも愛子さんも何時・何につまづくかは分かりません。しかし一度つまづいてしまったとしてもそれを上回る素敵な食体験がもたらされたなら、きっとまた「おいしい!」って顔で笑ってくれるようにもなるでしょう。今、『好き嫌い』を沢山抱えて苦労しているお母さん達もどの子にも神様がその時が与えてくださることを信じながら、ゆっくりじっくり子ども達とお付き合いして欲しいと思うのです。
 『美味しそうに食事する大人の姿を見せること』、それが子どもの食育において大きなプラスになると言うことを聞いて来た奥さんは、毎食用意された食事を愛子の前で一生懸命全部食べて見せています。彼女の方が好き嫌いは一杯あるはずなのですが、子どものためとなるとがんばれる母親の想いの強さ。それはきっと全てのお母さんに言えることなのでしょうが、自分の意思では成し遂げられないことであっても『我が子の為』となると出来てしまう母の想い。その事によって僕らの社会の子育てとはきっと成り立っているのでしょう。それほどに子どものお世話はおおごとなのです。自分が子どもを持つ前は、『人類の有史以来、人間はこのようにしながら子どもを生み育てて来たのだから、僕らにも普通にそれが出来るはず』とそんな風に思っていたのでしたが、きっと僕一人では早々にギブアップしていたことでしょう。いつもの事を当たり前のように粛々とこなし、子どもの成長に伴い自分もそれにフィットさせてゆけるお母さんの献身的なお世話がなかったなら、絶対成り立たないものなのだとそんな風に実感した男親の僕でした。それが分かっていながら度々喧嘩してしまう僕の至らなさ。でもそんなにしながら子どもと付き合い奥さんと付き合いしてゆく中で、僕も段々と本当の『お父さん』になってゆくのでしょう。

 愛子との関わりを軸に、この6ヶ月間の子育て奮闘記を記して参りましたが、家庭の事情によりとりあえずここで一度筆をおこうと思います。しんどいこともありましたが、その中で我が子について・自分について・家族について・そして神様との関わりについてもう一度考え見つめ直す機会を与えられたこと、これが何より感謝でありました。話し言葉にするとすぐに破綻を来たす僕のつたない言葉達も、文章にして推敲を重ねることで段々と考えが固まり持論をつむぎ出せるようになりました。そんなアナクロな思考回路によって『今の想い』をこうしてここに残すことが出来たのです。そんな駄文にお付き合いくださったみなさんに心より感謝します。そして皆さんご自身の子育てを神様に与えていただいた物語として見つめることが出来たなら、それが手応えとなってこれからの自分と子育てを支えて行ってくれるはず。僕もまだまだですが、これからもお互いに子育てがんばって行きましょう。


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