園庭の石段からみた情景〜園だより3月号より〜 2016.3.11
<確かなことは聖書の中に>
 三月に入り『啓蟄』を迎えました。二十四節季の一つで『冬籠りをしていた虫達が這い出てくる頃』と言われる啓蟄。ちょうどその頃から気温もぐぐっと上がりまして、季節が急にふたつくらい先にぽーんと跳び越えて来たかのよう。この冬ひとシーズン手放せなかったダウンのジャンバーも、「これで僕もひとやすみ」とちょっと淋しそうなイデタチで部屋のハンガー掛けにたたずんでいたのでありました。しかし四日もするとそんなセンチメンタルが吹き飛んでゆくような寒い冬に逆戻り。三寒四温とはよく言ったものです。一日一日の暑い寒いに一喜一憂してしまえばそんな『オオワラワ』にもなってしまうのですが、でもでもその乱高下の中にあってちゃんと春に向かって地道に小さな右肩上がりを見せている『季節の歩み』を感じることが出来たなら、僕達はやがてもうすぐやって来る春を信じてこの毎日を力強く歩んでゆけもすると思うのです。そう、子育てもそれと同じこと。いつもよりも調子良く行ったことに気分を良くして『我が子の成長』を喜んだ次の日に、これまた思い通りにゆかずに落ち込んで「この子は、そして自分はこんなんでいいのだろうか?」と思い悩むような、そんな繰り返しの毎日を僕らは一生懸命生きています。でも神様がいつか必ず与えてくださる『我が子の成長』、その希望を信じ小さな『キザシ』に大きな喜びを感じながら歩んでゆくことが出来たなら、不安に満ちた僕らの足取りでもしっかりとその足跡をこの季節に刻んでゆけるのではないでしょうか。そんな季節の移ろいの中にそんな想いを感じながら過ごしている今日この頃です。

 先日の預かり保育の時のことです。ある子が廃材で『レジスター』を作ったことをきっかけに大々的にお店屋さんごっこが始まりました。食べ物を台の上に並べる子、広告の裏紙でお金を作る子、自由製作で商品を作り始めた子など、それぞれがその遊びの中に自分の役割を見つけ出しながら遊んでいました。そんな子ども達の姿をあっちにこっちに見つめながら預かりの部屋に戻って来てびっくり仰天、思わず声をあげてしまった僕。ある男の子が束にした折り紙をハサミで懸命に切ろうとしていたのです。それも固くて途中で歯が通らなくなってしまったのでしょう。切り込んだその反対側にもハサミの歯跡。それが手にした分だけでは飽き足らず、 机にはそんな折り紙の残骸の束が一杯残されていたのでありました。「ここはまず自分が冷静にならないと」と自分自身に言い聞かせ、「折り紙、こんな使い方したらダメだよね」と言葉を選び投げかける僕。当惑した表情の男の子に「何がしたかったの?」と尋ねたならば「・・・」。この状況の問題がどこにあるのかをこの子に・そして周りの子ども達にも伝えるために、短時間の間に頭をフル回転させて考えた僕。彼のこの行動の発端はきっと僕にもあるのでしょう。日頃から折り紙を『切り紙』にして、蝶々やカブトムシなどを子ども達に作っては喜ばせているのが僕のお得意芸。『折り紙は折って遊ぶもの』と言う大前提を逸脱しているのは僕なのです。しかしそこにはその切り紙に顔や模様を描かせたり、彼らの想い描いたデザインをそこに表現させるための『教材』であると言う自負があるからこそで、それゆえ広告紙ではなく折り紙を用いていると言うロジックを持っているつもりの僕でした。しかしその考えや想いを子ども達が誤って受け止めてしまったその結果、このようなことになったのです。してしまった事は仕方がない。ここからこの場をどう建設的に『学びの場』へと昇華してゆくか、それが僕に与えられた課題となったのでありました。
 最初に思ったのは「なぜ彼がこのようなことをしたのか、分かってあげたい」と言うことでした。困った顔で僕を見つめ返す男の子の顔と折り紙の残骸達を見比べながら、彼の作りたかったものに想いを馳せます。咎められたあげく残念ながら結局一枚も作成出来なかった彼の無念さに痛み入ります。熱くなっていた僕の想いが冷めてくると段々と周りの状況にも思いが行くようになりまして、たどり着いたのが「これ、お金?」と言う問いかけでした。それに「うん」と答える男の子。お店屋さんごっこをやっていて、格好の良いレジスターまで出来上がっているこの状況の中、「僕はお金を作るんだ!」と彼の中で飛び切りのアイディアがひらめいたのでしょう。小さい子達が切れ端紙を丸く切り抜いて百円だの十円だのの硬貨を作るその姿を見つめながら、「僕はもっとすごいお金を作れるんだぞ」と紙幣をイメージしながら折り紙を横半分に切ろうとしたものと思われます。「そうか・・・」、彼の動機は分かりました。お次はこの状況をどう収拾するかです。
 ここで何が問題となるのかを自分の中で整理します。この時、僕の頭の中に浮かんで来たのはこの二点。『紙幣を作るのに折り紙は必須な物でなく広告の裏紙で用が足りること』、『大量の折り紙を一度にダメにしてしまった事の重大さ』。まず先の問題について彼に説明を始めます。「お金は折り紙でなくても出来るから、これってもったいない使い方なんだよ。広告の紙に『10,000えん』って書いても同じでしょ」。黙って僕の言葉を受け止める男の子。次に量的無駄遣いについての認識を投げかけます。「みんなでこれ、何枚あるか数えてみようか」と言ってそこにいた子ども達と折り紙の残骸を数えます。自分の過失ではないと分かっている女の子達は大げさな程に「いーち、にーい」と大声で数えてくれまして、その一枚一枚のカウントが耳に痛い僕と男の子。僕も最初は十枚位と思っていたのが「さんじゅう、さんじゅういち、さんじゅうに!」。ちょっと愕然としてしまいました。束を鷲づかみにしてハサミを入れた彼なのでありましたが、自分がこんなに沢山折り紙をダメにしたことにこの時初めて気付いた様子。その上一枚も紙幣が出来なかったのですから彼にとっても踏んだり蹴ったりです。「一枚ずつどうぞ」と言いながら子ども達には折り紙を使わせているつもりなのですが、そこに出しっぱなしにして目を離してしまったのは僕の過失。この32枚の折り紙を生かすために着地点をどう探そうかと色々考えあぐねたその結果、思いついたのがこの答え。「捨てちゃうのはもったいないよね。みんなでテープを貼ってこの折り紙を直してくれない?」。それに乗って来てくれた子ども達。切り込みだけで切断されていなかったのが不幸中の幸い。そこにテープを貼ってみんなで修復を試みたのでありました。そんな友達の姿に自分もテープ貼りに加わり始めた男の子。みんなの力とは本当に大いなるものでして、イビツであるものの32枚の折り紙はあっと言う間に使用可能なまでに修復されたのでありました。「みんなにお礼を言わなくっちゃ」の僕の言葉にみんなに向かって「ありがとう」と素直に応えることが出来た男の子。「いいよ」と返す仲間達。彼もこの贖罪とみんなからの許しによって、この時初めてほっとすることが出来たのではないでしょうか。その一枚を取上げて「じゃあ、なに作る?」と投げかける僕に、「しゅりけん!」と答えた子ども達。貼ったテープをよけて手で半分に切った折り紙で手裏剣を作って子ども達にプレゼントをしたならば、みんなもそれに大満足。貼ったテープのせいでちょっとイビツではあるのですが、この大団円の証の嬉しい贈り物となったのでありました。そんなこんなのやっとの想いで着地点を見つけ出した今回の『折り紙騒動』。しかし子ども達に『物の道理』を教えることはなんと難しいことでしょう。自分の中には確かなものなど何もないと教えられた出来事でした。

 『啓蟄』の言葉通り園庭にも小さな虫達がその姿を現し始め、砂場や日当たりの良い『サラ砂産出地』では地蜘蛛やゴミムシの仲間達が砂の中から不意に顔を出しまして、無心に遊んでいる子ども達を「わーきゃー!」驚かせてくれています。でも何の悪さをする訳でもない虫達です。見つけた子には「そっとしといてあげて、虫は何もしないから」と声をかけます。異形(イギョウ)のものに感じる恐怖と嫌悪感は分かりますが、『命の大切さを教えるのも僕らの務め』と生き物に接する時にはそんなメッセージを込めながら言葉掛けをしています。ところが先日、困ったお客さんに出くわしてしまいました。この暖かさに誘われ活動し始め、起き掛けにその辺のホウ酸団子でも食べてしまったのでしょう。それは園庭の隅っこにひっくり返っているゴキブリでありました。死んだ生き物を子ども達と見つけた時には「お墓を作ってあげよう」と声を掛けるのですが、相手は嫌われ者のゴキブリ君。台所を走り回っている姿を見つけたなら大騒ぎで追い掛け回す相手なのですが、子ども達の目の前で「この場合どうしたものか?」と一瞬考え込んでしまいました。僕らの生活圏の中で見つけた時には『バイキンを媒介する生き物として駆除する』と言う正義が成り立つのですが、こうして屋外でひっくり返っているその姿を子ども達と一緒に見つけてしまったのです。『こんな状況下において子ども達の目の前でどのように行動するべきか』、それは難しい問題です。大人の姿に影響されて子ども達は自分の価値観と言うものを構築してゆくのだから。『一つの命の死を共に悼んであげる、それが例えゴキブリであっても』。その想いを子ども達にも分かって欲しくて、みんなでそのゴキブリのお墓を作ることにしました。そう決めたはずなのに「この話を聞いて、お母さん達どう思うかな?」とそんなことも気になります。我が子がゴキブリを慈しむその姿を快く思う親はいないでしょう。鉄スコップを持って来てそのゴキブリをすくい上げた時、子ども達がまだかすかに動いているそのゴキブリの足に気付きました。「まだ生きてるよ」と言う子どもの声に、「そうだね、逃がしてあげよう」とそのゴキブリを花壇の隅っこに降ろした僕。こうして僕の現実逃避によりまして今回の判断とその結果は先送りされることとなったのでありました。
 『坊主憎けりゃ袈裟まで憎し』、それが人間の心情です。『自分の想い』を妨げる相手に対して人は『敵対感情』を抱き、その相手を攻撃しようとする衝動に駆られます。それが諍いの源であり、戦争もそのようにして起こるもの。かと言って聖書の教え『よきサマリヤ人』の話のように、利害関係にある異邦人に対して自らの不利益を受け止めながら積極的に慈悲の手を伸ばすと言うことも、なかなかもって僕らに出来ることではありません。今回の僕の行為を聖書に照らし合わせて考えてみたならば『死にかけている人を見ながら、見て見ぬ振りをした律法学者』と同じなのではないかと思ったりもしてしまいました。そう、僕らには何も出来ないのです。「あれがゴキブリだったから出来ない?」「異邦人なら出来た?出来ない!」「同朋でも知らない人なら?出来ない!」。つまり自分に益をもたらす相手・不利益をもたらすことがないと分かっている相手に対してのみ、助けの手を差し伸べるそんな『偽善』しか出来ない心の弱い僕なのです。『自分に対して何をするか分からないもの』、そんなものに対して自分を投げ出して慈しむことなど到底出来る者ではないのです。でもその時にこの聖書の箇所を思い出し、自分の弱さについて見つめ向き合うことが出来たなら、「次の時には、次こそは」と自分の想いをちょっとずつ強く持つことが出来るようになってゆけるのではないかとそんな風にも思うのです。それは一朝一夕に出来ることではありません。その時々に大きな大きな後悔とまた何も出来なかった自分の無力感に苛まれながら、その経験を『心の肥やし』に僕らは自分の想いをきっと高めてゆくのでしょう。イエス様の弟子達が『十字架に渡される主イエスを裏切り見捨てたと言う経験』を一生涯心の十字架として背負いながら、その時の想いを糧に伝道・殉教の人生を歩んで行った史実のように。
 子ども達に何を語るにしても自分の中には何も持ち合わせない空っぽの僕。そんな僕が依り頼むべきものは聖書の御言葉でありイエス様の愛と慈しみであり、それこそが二千年来、時代がどんなに移ろい変わりゆこうとも変ることのなかった真理なのだと思うのです。こんな風に常に子ども達から・そして聖書から学びを得、答えを模索し続ける教師になれたならと、今日も神様に祈り続けるだけの僕なのです。


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