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<神様からのお年玉> 温かなお正月のおかげさまで『ほんわか気分』で過ごさせていただいた冬休みが明けまして、子ども達が幼稚園に戻って来ました新学期。ほわんほわんしている僕らよりもシャンとちゃんとしている彼らの姿に、「いつの間にこの子達はこんなに成長して来てくれたのだろう?」と久方ぶりの再会を驚きをもって受け止めた新年の僕らでありました。明けてすぐに参観日があったそのせいか、はたまた冬休み中に募った幼稚園への想いがそうさせたのか、いつもならわちゃわちゃになる礼拝やお帰りの時間もピシッとやってくれる子ども達の姿を受けまして、潤子先生などは涙を流して喜んだくらいのものでした。なるほど年末までは僕がばら・たんぽぽのお帰り準備のお手伝いを終えて母屋に戻って来たその頃合いには、誰かしら『泣くか・怒るか・すねくれサボタージュのグランドエスケープ』をしていたももさんが、年を明けてみればお部屋でクラスの時間をみんなで共有している情景が日々の姿となりまして、「あ、およびでないね」とちょっと淋しい想いでその前を通り過ぎる僕なのでありました。でも一年の積み重ねとはそう言うもの。もうじきこの子達はみんな一つ上の学年へと進級してゆきます。そのための準備が自身の様々な体験を通してやっと今、実を結びつつある所までやって来れたのです。これからも『3歩進んで2歩下がる』はきっときっとあるでしょう。しかし総じて見てもこの子達の歩みはプラス方向へと着実にその歩を重ねています。ちょっと昔のあの姿を思い出しながら、今のこの姿を神様に感謝しつつ喜びをもって受けとめながら、この一年の締めくくりである三学期をこの子達と歩んで行きたいと思っている今日この頃です。 そんなぬくぬく気分で迎えた新学期でありましたが、次の週になりますと気候も一変いたしまして、この冬一番の寒気が訪れます。身も凍るような北風に背筋は縮込まり、小雪まじりの吹雪に顔もこわばり「寒い寒い」しか言葉が出て来ません。いつもは「ジャンバー着て行ってよ!」の声かけにも「寒くないし!」とレジスタンスを見せる子ども達が、この時ばかりは「さむい!さむい!」と自ら上着を着込んでいたので相当寒かったのでありましょう。それでも「おそと行かない!」とはならないのがこの子達のさすが&手ごわいところで、「おそとまだ?」と毎日詰め寄られては「じゃあ行こうか!」と重たい腰を上げさせられる僕なのでありました。 前日の雨が上がった冷たい朝を迎えたある日、僕らはまた朝一番でお外に飛び出してゆきました。こう言う日には園庭にくっきり『引っかき線』が描けるもの。僕はおもむろにサッカーゴールを斜めに持ち上げ、2歩足にしたまんまゴールを引きずり2本線を園庭にうねうねぐるっと描きました。ながらに平行になるようにバランスを整えながら出発地点へと戻って来たならば、2本の線に囲まれたクローズドサーキットの出来上がり。それを見つけて大喜びしたのが三輪車ドライバーの子ども達。くねくねスラロームやカクカクシケイン・そしてヘアピンカーブまで、その道なりにハンドルを切りながら嬉しそうにドライブしておりました。夏のカチカチに乾いたグランドではなかなかくっきり描けないこの線も、雨上がりや朝露でぬれたこの季節には良い感じに描けるので、直線のスピードラインも設けつつ難しいカーブの難所を盛り込んだ『日土サーキット』をデザインして、子ども達に「どうだ!」と挑戦状を叩きつけたのでありました。律儀にその道なりにコース取りを試みる子、「そんなもの知ったことか」と線を無視して走り回る子と、それぞれの個性が垣間見えてなかなか面白いサーキット遊びが繰り広げられておりました。その姿を見つめながら自分の描いたコースを満足げに見つめる僕なのでありました。 ある日、ひとりの男の子が僕のところへやって来まして「またどうろつくって」と言うのです。普段はあまり彼の方から僕の元へやって来ることはありませんで、僕があっちにふらふらこっちにふらふらしながら子ども達の遊びを覗きにゆくその中で、声掛けをしたりその子の『自分世界遊び』の中に入れてもらいに行ったりするそう言う関係の僕らだったのでちょっとびっくりしてしまいました。そして「またどうろつくって」の意味が分からず「何のことだろう?」と彼の言葉に想いを巡らせていたのですが、そんな「・・・?」の僕に対して彼が再びはっきりと「道路作って」と言うのです。その時は手ぶらで来ていた彼の姿にやはり意味が分からなかったのですが、そう言い残して三輪車を取りに行った彼の姿を見て、あの『サッカーゴールの道路』だったことがやっと僕にも分かったのです。その日は朝からお天気の一日でサーキットを作るつもりもなかったのですが、この子にとってあのコースがそんなにも嬉しかったのだと分かり僕の方がうれしくなってしまって、また大げさにくねくねラインを多用した『道路』を描いてあげたのでありました。その『道路』に三輪車を走らせうれしそうに遊ぶ男の子。それからことある毎に僕に「どうろつくって」と言いに来てくれるようになったその子なのでありました。 子どもと関わる仕事に携わって久しい僕ですが、いつも子ども達の『これ!うれしい!』を掘り当てることが出来る訳ではありません。だから彼らの『これ!』に巡り合えた時、この偶然なる発見を神様に感謝してしまいます。それも子ども達自らが発信してくれる『あれ!楽しかった!』は本当に大きな心の糧となるものです。口数の少ない子であればあるほどにその喜び・そして熱望の大きさを表しているそのメッセージは、神様からの何よりのご褒美なのです。そのご褒美をいただく喜びのために、僕らは子ども達と精神誠意向き合いながら保育を行なっているのかも知れません。それが神様に与えられた僕らの生業(なりわい)であるのだから。年明け早々、神様からのお年玉をいただいてご機嫌気分の僕なのでありました。 |