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<秋の終りのハーモニー> 今年は冬の寒さの訪れが早い早いと思っていたのでありましたが、月の半ばで寄り戻し。小春日和の日が続きまして、例年と足並みを揃えるために足踏みをしているかのようなそんな日々を過ごして参りました。しかしその秋から冬へと移りゆく『土俵ぎわ』を『徳俵』で踏みとどまっていた月後半が一発の寒波でとうとう秋の終結宣言。寒がりの僕ばかりではなく皆が声を合わせて「寒いー!」とこぼす冬へとなだれ込みそうなそんな気配です。毎朝の門前の掃き掃除、今ではまばらなほどの落ち葉が淋しそうにうずくまる程度でありますが、秋の盛りには掃いても掃いても終わらないないほどの落ち葉を毎日掃き清めて園への参道を整えていたものです。その落ち葉、熊手を使って掃いていたのですが、熊手は元来『地の地面』を掃くように出来ているもの。舗装された門前のアスファルトとの相性では「きーきー!」と金切り声を上げまして、ちょっと辟易してしまったものでした。しかし毎日この熊手とお付き合いしていると、この子の性格や特性なども分かって来るから不思議なものです。よくよくその動きを見ていると、竹製の掻き手一本一本が『板バネ特性』を示してしなりながら実に上手に落ち葉を絡め取ってくれています。そんな発見にも依りまして『熊手使い』の錬度を高めて行った僕。適切な力具合になりますと、あのアスファルトとの金切り音も「しゃーっ」と言う軽やかな心地良い音に変わって来るから不思議なものです。相手をよく見て自分の肩の力を抜きながら、向き合うことの大切さを教えてくれたこの秋の熊手君とのお付き合いでありました。 『金切り声の不協和音』と言えば想いの満たされない子ども達の発するSOSにもそのような響きを感じることがあるものです。毎日どこかで誰かが心の叫びを『きーきー!』上げては、そのフラストレーションを発信しているのです。でもそれが何故不協和音になるのかと言ったなら、同じ方向性を目指しながらも微妙に生じる想いのずれがぶつかり合うからなのかもしれません。音楽でも隣り合った半音・一音は不協和音でぶつかるもの。完全調和はみんなが同音斉唱となった時にもたらされるもの(ユニゾンと言うのですが)なのでありますが、ひとつの音になれたならその不協和音は消えて重ね合わさった音の音圧のゆえに圧倒的な『迫力』となって聞く者の心を揺さぶります。そう、それはまさに十月の聖句にもあったように『思いをひとつにして硬く結び合いなさい』を体現するものとなるのです。運動会においてそれを表現するすべと心地良さを体得した子ども達、今でも機嫌の良い時には皆でそろって「鳥って最高!」と雄叫びをあげながら『完全斉唱』のパフォーマンスを見せてくれています。そんなもも組の子ども達、今度はクリスマスの合奏のための練習を始めました。合奏はユニゾンではありません。一人一人が違った役割を担い、それを持ち寄り合わせあい、ひとつの音楽を形作ってゆくのです。そこには『個性』が不可欠です。ひとつひとつ異なった『個』が合わさりあいながら表現される『全』のなんと素晴しいことでしょう。それがハーモニー。今、この子達はそのクラスの『ハーモニー』とは何たるかを学んでいるところなのです。 自分に関するいろんなことが自分で出来るようになってきた子ども達。それが嬉しくって、『出来る自分』が嬉しくって、さらにがんばろうとそんな姿を見せてくれています。自分が出来たら「出来ないお友達にも声かけや手助けをしてあげたい」と思うのはきっと人情なのでしょう。でもその中には多少の虚栄心と優越感も含まれて、言い方にトゲがあったりイヤミがあったりしてしまうもの。クラスのみんなが物事をより良く運んでゆけるようにと願う『方向性』は確かにあると思うのですが。しかしそれが感受性の高い子の耳に入ると、たちまち『不協和音の不快音』に聞こえてしまうのです。『この子は自分のことをダメって言っている』『今、自分もそれをやろうとしていたところだったのにイヤミったらしく言われてしまった』と言う想いが自分の心を逆なでし、なんとも許しがたい想いに苛まれてしまうのです。それでクラスを飛び出す子、その場で金切り声を上げて泣き叫ぶ子と、文字通り『不協和音』を発しながら自分の心を閉ざしてしまう子が後を絶たない毎日です。 そんな時にはどうすれば良いか、僕の答えは『半音・一音違いのその音をもっとずらしてやればよい』。お友達や先生の言葉を受けて「みんなはこう言っていたんでしょう。だっから○○君の得意なこう言う風に変えてやってやれば、きっともっと良くなるんじゃない?」。B型お得意の独創性と多様性です。半音・一音のずれを修正してユニゾンに合わせるのではしゃくに障るし面白くない。じゃあもっとずらしてやったら良いんじゃない?三度・五度までずらしたら『ドミソ』の和音になるじゃない。そしたらもっと素敵なハーモニーになるじゃない、と。その子のやりたかったことの延長線上に解を求めつつ、みんなの想いと言うコードにそっと沿わせながら、ドの上にミやソの音を乗っけるような解法をその子に提案するのです。自分の想いとみんなの想いのベクトルの合力方向に解を見つけることの出来たその子は、もうお得意顔でクラスの中に戻って来ます。そのパフォーマンスがまた優れているものだからみんなも「すごーい!」と言って彼らを受け入れてくれまして、ここに『異なるがゆえに豊かに響くハーモニー』が生まれて来るのでありました。 熊手の掻き手が上手にたわんで余分な力を逃すように、そんな『ショックアブソーバー』の役割を園の中で担いたいと僕は常々思っています。それは神様が僕に与えて下さった僕のお仕事。子ども以上に人に言われてすることを苦手とする僕だから、この子達の想いは人一倍分かるのです。そんな僕を神様が生かして下さっているように、この子達にもそれぞれの『個』を輝かせながら『全』を形作って行って欲しいと願う僕なのです。それが僕らに神様が与えて下さった賜物であるのだから。 |