園庭の石段からみた情景〜園だより6月号より〜 2016.6.5
<神様の御心を僕らの心に伝え教えてくれるもの>
 今年の『夏の入り』のこの季節、いつもとなんかちょっと違うような気がしている今日この頃。毎年、見事な乱舞繚乱を見せてくれた日土のほたるも、今年はちょびちょびの淋しい様相。かと思いきや、園庭の雨水桶では雨が降らずとも連日カニカニ君が捕獲され僕らのカニカニランドを賑わせてくれています。また幼稚園のある松岡地区を流れる水路の『いでご』では、雨が降った後でも水が溜まらず干上がったままの状態で、いつもならここでウジャウジャ捕れるイモリ君もここ数週間姿を見せてくれません。毎年同じように季節は巡りゆき四季の営みを見せてくれる日土の自然を『当たり前』のように感じてしまう僕らですが、決して同じ営みが同じ様に再現されている訳ではないのです。
 前年からの雨の多い少ないに始まって、護岸工事や川底の『砂さらい』で変わってしまった喜木川の生態系が、そこに棲む生き物達の暮らしを今年は変えてしまったのかも知れません。ホタルシーズンに入る前から「今年はホタル少ないかもなぁ」と予言していた地元の散髪屋さんがありまして、「どうして分かるんですか?」と尋ねたら「川に貝が見えんから」。ホタルの幼虫が餌とするカワニナが今年は見えないと言うのです。防川で床屋さんを営みながら、日土の自然と人の移り変わりをじっと見つめて来たその人の目には、そのことが例年と違った心象としてきっと感じられたのでしょう。言われてみれば、いつもの年には川沿いの県道やそこにかかる橋の上から川面をじっと見つめてみれば、水の中に沈む大きな岩にびっしり貝がくっついて黒々していた情景があったことを僕もふっと思い出しました。その予言は見事に的中いたしまして、ホタルまつりの当日もなんとも寂しい風情だったようです。「自然!自然!」と言いながら保育を行なっているそのくせに、その保全に関しては何も出来ない無力な僕ら。だからこそ神様に与えられた『自然の恵み』に感謝しつつ、『必要以上のものを求めないようにする』ことによって自然に負担をかけずに生きてゆくことそれこそが、僕らに課せられた使命なのだと思うのです。『便利』を使えばそれだけ地球が疲弊する。でも『利便性』なしには今の僕らの生活は成り立たない。であるならば、次の世代の子ども達に『この地球の自然』と言う大いなる財産を残してあげるそのために、『本当に必要なもの』と『我慢し知恵を出して向き合えば成り立つもの』とを選び取ることが、僕らに出来る僅かばかりの『この地球と子ども達への奉仕』なのではないか、と思い至るきっかけとなった今年の日土の自然の異変なのでありました。

 この日土の自然を心の糧に、毎日登園して来てくれる幼稚園の子ども達。毎年六月のひよこクラブ『楽しいことみつけた』では『日土の山の仲間達をご紹介』と銘打って、ひよこちゃん達に自然の生き物達をご披露しています。その日に向けて山の仲間達を集めお世話しながら過ごしているこの季節。そんな僕の想いを汲んでか、みんなが色んなものを手に手に幼稚園に登園して来てくれます。幼稚園までの道すがら、かたつむりを見つけては「でんでんむし、いたよ!」と嬉しそうに持って来てくれる男の子。やって来たその足で早速にデンデンランドの飼育ケースにかたつむりを放り込みまして、満足そうに見つめます。お次はお部屋に上がって朝の片づけをするのかと思いきや、そこから身を翻し例の雨水桶を覗き込みに飛んで行きます。彼の毎朝の日課となったカニカニ探し。マンホールの格子の隙間にこすりつくほど顔を近づけまして、桶の中を覗いています。そして中にカニを見つけたならば両手で『大きな丸サイン』を作ってこちらににっこり笑いかけるのです。それを受けて僕達も「じゃあ早くシール貼って片づけをして、カニを獲りに行かなくっちゃ!」と声高に呼びかけたなら、やっとその気になって部屋に入って来る男の子なのでありました。そんな彼のルーティーンを知ってる僕らとその子のお母さんは「今日もカニが入っていますように」と祈る想いで彼が掲げる『丸サイン』を毎日待ち望んでいるのでありました。

 今年から日土教会の松井牧師に礼拝とは別の第一水曜日にお越しいただいて、月に一度の教師研修会の時を持っている僕ら。今月は『生命と命』と言うエッセイをテキストに、みんなで命や『命との関わり』について学びの時を持ちました。その中で生き物を飼うことの意義について話し合われたのですが、『お世話の中で獲って来たミミズを餌としてあげること』について、「残酷なような気もするのですが、大事なことでもあるんですよね」と言う話も交わされて、ディスカッションが深められてゆきました。僕らは神様から与えられたものを『生きる糧』としていただいていることに感謝しながら生きてゆくべき者であると言うこと、そしてその事は『戯れに生き物の命を取ること』とちゃんと区別して教えなければならないと言うことなどがその場で語り合われました。そしてそこから私達の命を支えている食べ物達の『命の連鎖』について彼らに説き伝え、「だから好き嫌いせずに食卓に上がったものは感謝していただきましょうと言う諭しにつなげられたらいいね」との想いを共有する時ともなりました。こうして命について子ども達に教えると言うことは、その裏に必ずある『別の生き物の死』について避けては通ることは出来ないこと、そしてそのことこそが彼らにとっての重要な学びのテキストになるのだと言うこと、しかしその扱いはやはり難しいものであると言うことを確認し合った今月の教師研修会なのでありました。
 そうは言っても『そんなこともあるものだ』と言う程度に受け止めていた僕の甘さがあったのかも知れません。早速翌日、早々にその試練に見舞われるとは思ってもおりませんでした。彼らが集めて来たカニカニ君達の水槽でその事件は起きました。大きなオスのサワガニが中くらいのカニを口に運んでモグモグさせていたのです。そう、共食いでした。『ひとところに沢山のカニを入れておくと共食いをするので注意が必要』と言うことを僕も知っていたので、隠れるための間仕切りとして平たい石ころも入れた45cm幅の水槽に、大きいものから中くらいのもの4匹を入れて飼っておりました。それより小さいものをもうひとつの水槽に、そして体長1cm以下の赤ちゃんガニをさらにもうひとつの水槽に入れまして『クラス分け』しながら飼育をしていたのです。一応そのような配慮の下に飼っていたカニカニ君達でしたので、よもやそんなことになろうとは思ってもいなかったのです。餌も市販のペレット状の餌を与えてそれを食べている様子もちゃんと確認しておりました。今から思えば餌を入れた途端にそれを手に取りかぶりつく、このカニの食欲の強さを感受性を高めて受け止めていたなら未然に防ぐことが出来たのかもしれません。獲って来たてのサワガニは環境の変化からなかなか餌に手を出さないものと言うのが僕の経験における見解なのですが、今年のカニカニ君達は僕らが見てるのにもお構いなしでえらい勢いで餌を口に運んでおりました。共食いを起こしたのは一番大きな立派なオスのサワガニ君。その前日に捕まえ獲って来たばかりの新入り君でそれ以前の空腹状態については分かっていなかったと言うのが落とし穴だったのかもしれません。さて、この状況、どうしたものかと一瞬考えあぐねてしまいました。

 いつまでも食べられている『中ガニ君』が気の毒なのでありましたが、周りにいた子ども達を呼び寄せまして「カニがけんかしちゃった」と道徳の講義を始めた僕。「デカガニ君が中ガニ君をいじめて食べちゃったよ」と話し始める僕に子ども達も神妙な顔。「大きい子・強い子が小さい子・弱い子をいじめていい?みんなも喧嘩してひどいことをしたら弱い子・小さい子が死んじゃうこともあるんだよ。喧嘩していい?」と言う僕の投げかけに「いけん!」と応える子ども達。「でも喧嘩している時はみんなも訳が分からなくなってパンチしたりひどいことしたり、しちゃうかも知れないんだよ。だから喧嘩はいけないよね」と話す僕の言葉にただただうなづく子ども達なのでありました。『お片づけ』の時間がもうすぐだったのでデカガニ君の口元から中ガニ君を引き離し別のケースに入れまして、「後でお墓を作ってあげよう」と言ってその場を収めた僕。なんかこれで良かったのか悪かったのか、そんな想いでその場を後に後にしたものでした。
 神様の備えてくださるものとはどうしてこうも見事につながってゆくのでしょう。その日のお帰りの時間、些細な諍いからクラスを飛び出し玄関に座り込んでいる男の子がありました。クラスでもめて喧嘩して、出て来たその子が座っていたのがちょうどあのカニカニ君達の水槽の下。自分の気持ちをなんとも収めようがないその子を見つけた僕は「あの中ガニ君のお墓を作りに行こう」と誘い声をかけました。誰の声にも耳を傾けなかったその子が不意に「うん」とうなづき腰を上げてくれたので、二人して中ガニ君の入れられたケースを持って園庭の紫陽花のところまで行きました。土を掘り起こしカニの遺骸を埋めた後、一緒にお祈りをしました。「カニカニ君達が喧嘩をして中ガニ君が死んでしまいました。もうカニカニ君達が喧嘩をしてこんなことにならないように神様どうぞ守ってください。そして死んでしまった中ガニ君が天国で元気に暮らすことが出来るようにしてあげてください」とお祈りしたのです。そのお祈りに静かにじっと耳を傾けてくれた男の子。彼に向って「喧嘩はつまらんよな。もうやめような」と声をかけると「うん」とうなづいてくれました。お祈りを一緒にしたことで彼の心の中もふっと落ち着いてくれたのでしょう。そこから機嫌を取り戻してクラスに戻って行った男の子なのでありました。

 本当は僕の配慮の足りなさに起因した『弱肉強食の原理』で捕食されてしまった中ガニ君。決して『喧嘩』と呼べる諍いではなかったのかも知れません。しかしその自然の生き物達の営みが、子ども達の行動や心情を客観的に自らの心に映し出すスクリーンとして働き、彼らの心に色んなものごとを投げかけてくれるのだと僕はそう思うのです。その事象をどう捉えるか?『自然に生きるもの達は力あるものの原則で生きている』と教えることも出来るし、一方で『力があってもその力は決してそんな風に使っちゃだめだよね』と子ども達の心に投げかけることも出来るのです。『資本主義の競争原理』に基づく現代人の価値観は前者に近いものなのかもしれません。中世西洋や日本の戦国時代のように直接『血と生命』をかけて争うことはないとは言うものの、力あるものが自分本位のルールを作り弱者の犠牲の上に成り立っている現代の資本主義。その中で生きてゆくために僕らは『なりふり構わず人に負けるな、強くなれ!』と子ども達に教えなければならないのでしょうか。
 教会幼稚園におけるキリスト教保育の中において僕らがこの子達に伝えることが出来るのは、『僕らはみんな小さく弱くつたない者なんだよ。そんな僕らを神様は愛しみ守ってくださっているのです。だから僕らもそんな神様に倣う者となれるように、お友達に優しく喧嘩をせずに仲良く生きる人となってください』と言うことだけ。実力主義に待っているのは平家物語の冒頭にもある『盛者必衰のことわり』。調子のいい時にはどこまでもうまく行って『全て意のまま・我がままのまま』にも出来るでしょう。しかしその驕りを諌め弱い者を救い慰めるかのごとく、神様は突如その繁栄に終焉を迎えさせ『いっときの覇者』を滅亡の道へと歩まされます。そんな心貧しい人間の私達ですが、みんなで想い合い弱い者のためにこそ自らの力を使おうすることが出来たなら、穏やかな富と精神的均衡がこの世の中に満ち満ちて本当に豊かな世界を実現してゆけると思うのです。それが神様の御心なのだから。


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