園庭の石段からみた情景〜園だより7月号より〜 2016.7.18
<おじちゃんのゴーヤが僕に教えてくれたこと>
 ここ数年来記憶になかったような多くの雨が降りしきったこの梅雨でありましたが、日土の里では他所で報道されたような大災害には至らずに、こうして無事に一学期の終りを迎えようとしています。大雨警報や土砂災害警戒情報など、行政から出された情報を元に『私達はどう判断し、どのように幼稚園の舵取りをしたらよいのか』と言うことをシミュレートする、実際にはあたふたあたふたの大わらわでしたが、良き体験の場を与えられたと今ではそう思っています。目まぐるしく変化する状況と実情に合わない情報をにらみながら皆で相談しつつ判断を重ねて行ったのですが、僕らのつたない考えや想いは何の力も持たないと言うことが本当によく分かりました。そう、「僕らの判断・決断したその結果が神様の御心にかなうものでありますように」と、「どうぞ何事もありませんように」と、ただただ信じ祈りながらこの災いの時が過ぎ越してゆくことを待ち望むしか出来なかった僕ら。でもそんな僕らを神様は守り導いて下さいました。またこうして平穏な日常が戻って来た今、あの時のことを振り返りながら神様に感謝の想いを捧げている夏の始まりです。

 一方であの一杯に降った大雨と、その後の梅雨明けかと思われるような夏の陽射しによりまして、日土の山には嬉しい恵みももたらされています。昨年、自宅のリビングの日除けにと、ウッドデッキの濡れ縁の下にプランターを置いてそこでゴーヤの苗を育て始めた僕。しかしプランター栽培による栄養不足か、はたまたお昼以降の西日しか当たらない日照条件が災いしたのか、出来たゴーヤはみんなウラナリの小さな小さなものばかりでありました。それを受けて今年は東の一角にあるうちの小さな畑、そこは昔『畑のおじちゃん』が色んな野菜を育てていた畑でありまして「あんた、とんなはい」と立派なゴーヤも採らせてくれた思い出の畑なのですが、そこにゴーヤの苗を3株植えて育てています。おじちゃんの組んでいた錆びた鉄パイプの支柱を思い出し倣いながら真似ながら、「こんな感じだったかな」と僕も古鉄パイプを組みつつ更に蔓の足がかりになる様にと栽培ネットも張りました。そこにゴーヤを這わせてみたならば、今年のゴーヤ達は『ジャックと豆の木』の蔓のようにもじゃもじゃうにゃうにゃ、どこまでも何重にも伸びて厚い緑のカーテンを作り出しています。そしてついに先日、今年の初物のゴーヤが収穫されました。長さ20cm最大径4cmほどの大きさに育った僕のゴーヤ君。フジで売れば200円くらいしそうな立派なものをその日の夕食のパスタに入れてみんなで美味しくいただきました。「初物を食べると十年長生きする」と言ってはうちに持って来てくれた畑のおじちゃん。「自分で食べれば良いものを」と思いつつ感謝していただいたことを嬉し懐かしく思い出しました。人の命は誰しも限りあるものですが、その人の想いや体現して見せてくれた素敵なことは、僕らの心の灯火となりいつまでも燃え続けてくれるのです。押しつけがましいことは決してせず、さりげない優しさと美味しい野菜を僕らに届けてくれた畑のおじちゃん。おじちゃんがご自身の夢を育てていた畑で僕がこうしてゴーヤを育て始めたのも、おじちゃんの夢と想いをちょっとでも引き継ぎたいと願う『夢供養』なのかも知れません。キリスト教に新盆などありませんが、この夏はおじちゃんを想いながらゴーヤを味わいたいと思っています。
 でも今年と去年のゴーヤを見比べて思うのは、「やはり神様からあふれんばかりに恵みを与えられて育ったものは、本当に大きくなるのだな」と言うこと。プランターを買い、土もお金を出して栽培用の物を用意して挑んだ去年のゴーヤ作り。でも僕がゴーヤに与えてあげられたのはそれだけで、ゴーヤにとって本当に必要だった広い大地とあふれんばかりの日の光はそこにありませんでした。今から思えば『この限りある土と半分しか当たらない日の光の中で育ってゆきなさい』と言う過酷なミッションをゴーヤに課してしまった僕だったのです。毎日水をやって週末には液肥もやって、一生懸命手をかけてやっているつもりだったのに「どうして大きくならないんだろう」といぶかしく思ったものでありました。でもこの子達は自らの成長に合わせて必要なだけの水を求め、必要な日の光を求め、それによってその実を大きく成長させてゆくのです。『あれだけのものを与えたのだから、成果としてこれだけのものを実らせなさい』と言うのは育てているつもりになっている僕らのエゴ・思い違いなのかも知れないと気付かされた足かけ二年に渡る僕のゴーヤ栽培なのでありました。聖書の御言葉『わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。』の実体験を与えられた『頭でっかち』の僕でした。

 先日行われたクラス別懇談会。今年初めて園長として各クラスの懇談に参加して、皆さんのお話をじかに聞かせていただきました。皆さんの喜びの声に僕も共に喜び、皆さんの抱えている課題に対してどのようにアプローチしてゆけば良いのだろうかと共に考える豊かな時を過ごすことが出来、心より感謝でありました。相変わらずああ言う場では気の利いた発言も出来ず申し訳なく思ったのですが、今一度振り返りながら僕の想いをここにしたためてみたいと思います。我が子の成長についてお母さん達が色んなエピソードを紹介してくださったのですが、その中で『自分で何かを作り出し、表現しようとするようになったこと』について嬉しいお話を幾つも聞かせてもらいました。家の中でおもちゃのお片付けが全然出来ず、全部お父さんに隠されてしまったと言う男の子。遊ぶ物がなくってへこんでしまうかと思いきや、新聞紙などをくるくる丸め棒を作って涼し顔で遊んでいるそうな。「物に執着しないのか買ってもらったオモチャがなくなっても全然平気みたいなんです。今まで買い与え過ぎていたのかも。」と笑って話しておられました。そう言えばかつてこの子の「買って買って!」の現場に遭遇したことのある僕。『百均』のお店でオモチャを一つ買ったのに「これも欲しいと!」ぴょんこぴょんこしている姿に出くわして、「やば!みられちゃった!」って顔をしていたのを思い出しました。でもその買ってもらった物に執着しないと言うことは、彼はその物自体よりもその時の『欲しい!』と言う欲求が満たされること、『自らの想い』を相手が受け止め受け入れてくれることの方に大いなる喜びを感じるのでしょう。昼食の後、いつも僕の工作部屋にやって来ては「なんか作って!」「これ作りたい!」と言って来るこの男の子。お面や変身ベルトを作るのが何より好きな男の子なのですが、順番待ちなどで「ちょっと待って」と言うとプイといじけてどこかに行ってしまいます。しばらくするとまたまた僕のもとにやって来て「作って作って!」。「じゃあこれ見ながら先に作っててよ」と紙と図鑑を渡すと「できーん」。「大丈夫、後から直してあげるから」と言うと「うーん」って感じで半信半疑で作り始めるのです。やりながら途中思うように描けないと「こんなんなった」と僕に差し出します。「大丈夫、大丈夫。ここをこうやってこうしたら、ほら、いー感じー」と手直ししてあげると「おー!」とその目を輝かせ、自ら色を塗りハサミで切ってお面を完成させるのです。広告紙と輪ゴムで作ったハチマキにそのお面をぺたっと貼り付けたなら、ほら自分で作った『仮面ライダー・仮面?』の出来上がり。それがうれしくって被って鏡の所に走りゆき、ご機嫌顔で戻ってくる男の子なのでありました。そうして自分の手でオモチャを作れることを体験し知ってしまったこの男の子。『欲しいものを手に入れる』と言う自己実現の喜びに加え、『自分の手によって何かを生み出すことの喜び』までも知ってしまいました。『オモチャがなくても大丈夫』と言うのはここから生じた彼の成長だったのかも知れません。それは大変喜ばしいことなのですが、そのおかげでますますお片付けが出来なくなるとそれはそれで困ったことに…。でもそれもまた次の課題として受け止めればきっといいのでしょう。自分に自信がなくってメソメソしていたばら組の頃のことを思い出してみたならば、これは彼にとって本当に大きな成長であったと思うのです。片付けの出来ないお姉ちゃんと一緒でとってもアーティスティックな感性の持ち主のこの男の子。自らの才能を開花させつつある彼の姿をみんなで一緒に喜びながら楽しく遊び過ごしてもらえたなら、時間の一杯あるこの『夏休み』は素敵な思い出と新たなる成長をこのご家族にもたらせてくれることでしょう。

 一方、夏休みの課題として「子ども達とどのように過ごせばいいのだろう?」と今から頭を悩ませていたお母さん達もありました。「勉強しなさい」と言えば反発し、「お手伝いなさい」と言えばふてくされ、と成長と共に芽吹いて来た彼女達の『自我』が親子のコミュニケーションを邪魔立てし、なかなかに思うようにならないと言うお話でした。でもそれはそう言うものかも知れません。「これだけ土も肥料も用意したのに、何であなたは私の想い通りのゴーヤに成長してくれないの?」と思っていた去年の僕ときっと同じ。「幼稚園ではお利口だって聞くんですけど…」とおっしゃるお母さん達でありました。幼稚園の保育の中で重要視されるものとして『導入』と言うものがあります。それは『あることを子ども達にさせるために、どのようにモチベーションを高め持ってゆくか』と言うお膳立てのこと。特にクラス活動の時にはその成否で結果も大きく左右されます。クラスで一つのことをしようとすると、したい子もあればしたくない子もある訳で、それを『やろう!』って気になれる様に投げかけをしてゆくのです。お勉強だったなら、『これが出来るようになったなら、こんな素敵なことが出来るんだよ』ってことをまずは伝えて欲しいのです。文字ならお手紙ごっこや絵手紙で想いを書きしたためる遊びの中で「もらった人、よろこぶよー」「もう一年生みたい、すごーい!」ってあおってモチベーションを高めたり、『夏休み帳』に絵と一緒に感想文を書こうと投げかけて「二学期になったら発表会があるんだって。『こんな夏休みでした』って発表したら、みんなに『すごーい!』って言われるねー」なんて振りを入れたらきっと目の色も違って来るでしょう。夏休みにもらって帰る『妖怪ウォッチ』の50音表もどうぞ上手にご利用ください。また『スマホ依存症候群』に足を踏み入れかけていると言う子ども達も、ネットサーフィンではなく『学習』に使ってみればいかがかと。それこそDS並みに文字をゲーム感覚でお勉強するソフトもあるでしょうから、そんな導入もあっていいかも知れません。また昔ながらの遊び、『描いたり・切ったり・張り付けたり』と、そんなアナクロ遊びに回帰して欲しいと言う願いをお持ちのお母さん達には、描きたい仮面ライダーや恐竜の写真をスマホで調べ検索し、親子一緒にお面やベルトの手作り製作を楽しむなんて、そんな遊びはいかがでしょうか。なんてまだスマホなるものを触ったこともない僕が言うことなのであてにならないかも知れませんが、どんな機械も人のアイディア・使い方次第で毒にも薬にもなるものなのです。

 子ども達の学びのために環境を整えてゆくのは大人の務め。しかしその中の何に子ども達が心惹かれ興味を示すか、どのような過程をもってそれに挑戦してゆけるようになるのかは、子ども達の想いと神様の御心次第。でも必ずどこかに子ども達の心を引きつける『ツボ』なるものがあるはずで、それを楽しみながら親子一緒に捜してゆくことが出来たなら、親子共々イライラの少ない夏休みになってくれるのでは?そう、これはお母さん達の自由研究。そう思いつつ子ども達の生態について研究してゆけたなら、お母さん達の人生においても「有意な夏休みだった」と思える時がきっと来ると思うのです。僕自身はまだまだその領域にも入っていない不出来な新米父なのですが、我が子と一緒にいられるこの時に感謝をしながら夏休みを過ごしたいと願っています。では皆さん、素敵な夏休みをお過ごしください。


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