園庭の石段からみた情景〜園だより10月号より〜 2017.9.20
<キリスト教保育、その心は『同行三人』>
 夏休みが終わりまして、おかげさまで今年は涼しく過ごしやすい秋の入りを過ごしております。例年、残暑の厳しさばかりが取り沙汰されるこの時節ですが、今年は季節の移り変わりの足跡を子ども達と見つけては共に喜び合っています。先日、夏前に稲苗を植えた『お座敷田んぼ』で稲の刈り入れが行われ、すみれ組の子ども達がたわわに実った稲穂を高くその手に掲げながら収穫の喜びを体中で表しておりました。ひげのおじちゃんがその場で『もみ殻』を取り除き一人に採れたての玄米を手渡したならば、「僕も!」「私も!」と誰彼我先にと餌に手を伸ばす『猿山の人だかり』に。しかし「欲しい欲しい!」ばかりと思いきや、「まめみたいな味」「粉っぽい!」とそれぞれに味わった生米のテイスティングを自分達の言葉にして述べ語ってくれたのでありました。お米の評価としては聞きなれない彼らの不思議な言葉使いを感心しながら聞いていたのですが、人の手垢のついた『常套句』にはないこの子達の感受性と表現を嬉しく感じさせてもらったものでした。
 またその稲刈りの途中、ひげのおじちゃんが稲の根元に只今脱皮真っ最中のトノサマバッタを見つけました。最初慣れぬ異形の生物の生々しい姿に「うぇ!」っとびっくりしていた子ども達。しかし成長の過程の姿であることを話してあげたなら「がんばれ!」と声を掛け応援してくれたのでありました。僕も初めて見た実物の脱皮の姿、涼やかな秋の雨上がりの園庭だからこそバッタ君もこの場所を選んでお着替えをしていたのでしょう。全ては自然と季節の巡り合わせ、子ども達にこんな出会いと発見と体験を与えて下さった神様に感謝のひとときでありました。

 一学期の終り頃、三年に渡って飼育していたハヤの水槽が突然水質悪化を起こし、飼っていた何匹かが死んで残りも弱って来てしまいました。そこで一度この『ハヤ水槽』を解散し生き残った数匹を有志の面々と一緒に川に逃がしに行くことにいたしました。自分の釣った魚に『ピキ』と名付けかわいがっていた男の子、「ピキ!元気でね!」と声を掛けて別れを告げておりました。あれからふたつき、預かり保育の部屋には洗い干しされた水槽と砂利石が淋しく佇んでおりました。夏の一番暑い時期に再度ハヤの飼育を始める手ごわさと(ハヤは暑さに弱いので)、「お盆の頃は魚釣りをしないように」と昔じいちゃんに言って聞かされた言葉を思い出し(クリスチャンの祖父が『輪廻転生』を信じていたとも思えませんが、この日土の里に住み『迎え盆』『送り盆』を大切にしている人達に対する心遣いだったのかなと今となっては思うのです)、しばしの間魚釣りを自粛していた僕らでありました。
 二学期に入ったある日のこと、『預かり保育に子どもが一人』と言う日がありました。その一人とはハヤに『ピキ』と名付けたあの男の子。前回も『預かり一人』の時に僕と魚釣りに行ったのですが、その時のことをずっと覚えていたのでしょう。「今日、預かり一人だから魚釣りに行こう!」と僕を見るなり言って来まして、僕らは再び川に釣りをしに行くことになったのです。リール竿と手提げ水槽を持ちながら、僕らふたり、「勝手に飛び出して行きません」と固く約束を交わしながら向かった橋の上の釣りポイント。神様に「いつも共にいて僕らを守っていてください」とお祈りをしての『同行二人』ならぬ『同行三人』で釣りを始めたのでありました。橋の両側通りは県道と小学生の通学路である川っぷち、橋の上から釣糸を垂れる僕らに色んな人が手を振り声をかけしてくれます。子ども達の学校への送迎で通りかかったお母さん、集団下校でつらつら歩いて帰って来た卒園生達、水槽の中を覗き込んで「釣れましたか!」と釣果を共に喜んでくれた近所のおじさんなどなど。色んな人から声を掛けられるたびに嬉しそうに言葉を返す僕ら。そう、そうこうしながら僕らは三匹のハヤを釣りあげて、通りかかった人達にちょっと誇らしげに釣果を報告していたのでありました。その最初の一匹が掛かった時、彼は「生まれ変わったピキが帰って来たんだ!」と言って喜びました。彼の中で弱って放された『ピキ』のその後のストーリーがどう織り成されていたのか定かではありませんが、先に死んだハヤを埋葬しお祈りをして見送った記憶と雑じり合いながら、『ハヤが釣れたことの喜び』を何倍にもふくらませてこの言葉に生み出すに至ったのでありましょう。キリスト教の『復活』とは少々異なる『輪廻転生』の解釈ではありますが、その姿を見つめながら「彼の中に生命に対する確かなる想いが育って来てくれているんだな」と嬉しく思ったものでありました。

 僕らのその日の釣りはあっけない形で終わりを迎えます。事もあろうか、川の中に泳ぐ体調60cmほどの錦鯉を掛けてしまったのです。長い年月を生き抜いて来た賢しい鯉があんな仕掛けに食いつくとは思いもせず、「これは困った、どうしたものか」と思っているうちに案の定、ハヤ釣りのためにあつらえた仕掛けはハリスが切れて『はい、おしまい』。僕らの釣りはそこで終了となったのでありました。しかしそれも彼の自慢の武勇伝となりまして、「でっかい鯉を釣ったんで!逃げられたけど」とみんなに語って聞かせていた男の子でありました。そう、生まれ変わった『ピキ』との再会も、でっかい鯉との格闘も、そしてこの小さな冒険の一部始終を守ってくださり僕らが事無く帰って来れたそのことも、神様がこの子の想いを満たし成長させるために導き与えて下さった御心だったのではないかと、そんな風に思うのです。一人一人の子どもに向き合う際、そこには必ず『神様』が共に居てくださって『僕と子ども達』を見守って下さると信じて行う保育と愛の形、それがキリスト教保育。それを弘法大師由来の言葉で表現して良いのか分かりませんが、『同行三人』と言う『保育と愛の形の定義』に気付きを与えられた秋の一日でありました。


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