園庭の石段からみた情景〜園だより12月号より〜 2017.11.30
<神様がくださった この秋の実り達>
 今年の秋は本当に実りの多い秋でした。幼稚園のくるみの木は今年も一杯の実を茂らせて、子ども達に秋の恵みをプレゼントしてくれました。それをみんなでバケツに入れてぐわしぐわしシューズブラシでかき混ぜたなら、ピカピカ胡桃の出来上がり。そうしてバケツ何杯分ものくるみを手に入れた子ども達でありました。そこにもも組玄関のスノコを持って来て、コロコロ遊びを始めた美香先生。毎年くるみで色んな遊びを楽しんで来た子ども達、一番ポピュラーだったのは砂場に持ち込んでのケーキ作りごっこだったでしょうか。そうして砂場に埋もれたまま冬を過ごし、翌春に芽を出したくるみもありました。「ビー玉ころし」と呼んではばからない子ども達の大好きな『ビー玉転がし』ではレールのカーブや勾配を計算しながら繰り返しビー玉を転がしつつコースを設計する僕なのですが、凸凹のくるみがお行儀よく転がってくれるとは思ってみたこともありませんでした。それがスノコの溝に這わせて転がすと、ちゃんと真っ直ぐ降りてゆくではありませんか。これは驚きの出来事でした。そんな僕のびっくりを知ってか知らでか、子ども達のコロコロ遊びは次々にいろんな要素を取り入れて発展してゆきます。スノコの麓に受け皿を置いて「ここに入ったらゴール大成功!」とミッションが設定されたり、また砂場おもちゃのトンネルを置いて「ここに通過させてゴールに入れる」、そしてさらには「誰のくるみが一番早くゴールするか」と平行に何本も走るスノコの溝をパラレルコースに仕立て上げたスプリントレースを催したりと、先生と子ども達の思い付き&アイディアで遊びがどんどん膨らんでゆきました。くるみのランダムな転がりに加えて、そこに用いられる道具達のほんの小さな段差やギャップが、結果の再現性を完璧に崩してくれまして、理屈も理論もよく分からないようなそんな世界でコロコロ遊びを楽しんでいた子ども達でありました。
 でも子どもの遊びとは本来そう言うものなのかも知れません。僕らは色々な作業をする時に『うまくゆく』と言う予定調和を目論見ながら物事に取り組みます。それは『作業』『仕事』ですからうまく行ってくれなければ困るのですが、そうは言いながら大人になると心の中に比重を占めるようになる『失敗したくない』と言う想いによるところの方が大きいのかも知れません。自分の見立て・計画の結果の失敗は『自己否定の念』に苛まれる負のパワーを大きく生じます。でもそれは『自分は失敗するはずない』と言う自分の過信・過大評価から生まれて来る想いでもあり、無垢に生きる時代の子ども達にはそれがきっとないのです。『何が成功か・失敗か』から始まって『こうしたらうまくゆく』と言う確信もこだわりも持たないこの子達。昔「らっきょうが転がっても笑う女の子」なんて言う言葉が流行った時代がありましたが、自らの予想を反して不意なる結果を与えてくれるその物事を、真っ直ぐ受け入れられる心がきっとそこには宿っているのでしょう。ひたすらにくるみを転がして笑いながら遊んでいた美香先生と子ども達でありました。そのうち『うまくゆかないこと』に苛立ちを感じ、こんな遊びには目も向けなくなるお年頃になってゆくのかも知れませんが、ただただひたすらくるみを転がし続けその挙動をじっと見つめ続ける子があったならば、もしかしてその子はノーベル賞を取るような大科学者や発明家になるかも知れません。この何の規則性もないような動きの中に美しい法則を直感的に感じ取りそれを解明するためにひたすら打ち込むことの出来る者こそが、そんな大人になってゆくことが出来るのでしょう。時間は人並み以上にかかるでしょうが、その子の一生懸命さをきっと神様は祝福してくださることでしょう。

 さて、そうして一通り転がし遊ばれたくるみ君。今後はキーホルダーに変身します。くるみ加工用にトライバー大のハンドドリルと卓上ミニバイスを用意しましてくるみの頭に穴を開けます。さすがに『鬼ぐるみ』と言うだけありまして固い固いくるみの殻。固いくせに貫通したその後はずっと空洞でねじが切れなくなってしまい、取り付けようとする『ヒートン』と言う金具が固定出来なくなってしまいます。しかし何十と言うくるみに穴を開けているそのうちに、斜めに刃先を入れてゆけばいいことに気が付きました。斜めにねじ穴を切りそれに沿ってヒートンをねじ込んでゆくと、なんとか取り付けられることが分って来ました。それにカニカン付きのストラップとブリキの小さな鈴をつけまして、くるみストラップの出来上がり。それにアンパンマンやドラえもんなんかの絵をホワイトマーカーで描き付けたところ、子ども達は大喜び。がざがざのくるみの肌に足を取られ、イビツに線が走って面白い顔になっちゃったドキンちゃんもありましたが、お誕生会でみんなにプレゼントしたところ嬉しそうに持って帰って行ってくれたのでありました。どんぐり版の木の実ストラップも作ってみましたが、やはりそちらの方が滑らかな地肌のおかげできれいなラインが引けまして、僕の下手な手書き似顔絵のバリエーションがますます増えて行ったのでありました。このくるみ&どんぐりのストラップ達、しばらくの間子ども達の名札やカバンにぶら下げられて、『お山の幼稚園』のシンボルとしてピカッときらめいていたものです。あまりに毎日つけて来るので、ホワイトマーカーが摩擦で削られ絵が消えてしまった子もありましたが、それでも毎日ぶらんぶらん。「きえちゃった!」と言いながらもぶらんぶらん。素地のマットな風合いがこれまた素敵なアクセサリーとなっています。
 それにしても意匠・イラストデサインと言うものは偉大です。推敲され選び抜かれた数少ない線によって表現されたその形状は誰が見ても「アンパンマン!」と分かるデザインを持ち、描き手のスキルの低さや下地の凹凸によってオリジナルからかなり逸脱した絵になっちゃったとして子ども達は「アンマンパン!」って分かってくれるからほんとに嬉しくなっちゃいます。固有名詞を持たない汎用性の幅広いサンタクロースも描いてみたのですが、その時には志村けんの『へんなおじさん』みたいになってしまって眞美先生と大笑いしてしまいました。しかしそれを喜んで持って帰ったすみれの女の子もあり、子どものツボとはどこにあるのか本当によく分かりません。でも世間にありふれているオフセット印刷の同じ顔をしているキャラクター商品よりも、少々面白い出来栄えになっても『自分のために作ってくれた私だけのおもちゃ』と言うのが嬉しくて、こちらが恐縮してしまうほど喜んでくれるのだと思うのです。そこにはきっと『時と次元を共有するが故に生まれる互いの想いの受け渡し』と言う魔法がかけられるのかも知れません。普段おうちでは『ちょっとも待てない・我慢出来ない』ような子ども達がその場にたたずみ息を飲み込みじっと僕の手先を見つめています。そして出来上がった瞬間に僕と一緒にほっと息をつき、「ありがとう!」と言って嬉しそうに持ってゆくのです。彼らが持ってゆくその先は自分のリュック。それでその場で遊ぶ訳ではありませんで、「自分だけの宝物を早く安全地帯に仕舞い込みたい」とそんな心持ちなのでありましょう。でも次に見た時にはしっかりカバンのファスナーなんかにつけてもらっていて、大事にしてもらっていることが伝わって来ます。こうした手作りオモチャの文化は昭和の時代の匂いがしますが、だからこそ『足りない物ばかり』だったけれど今なおその昔が懐かしまれ、大人達が「いい時代だった」と言ってはばからない素敵な思い出となっているのでしょう。さて、これに子ども達が大いに喜んでくれたこともありまして、あっちこっちでこの『木の実ストラップ』をプレゼントして回った秋となりました。ひよこクラブのお土産から始まりまして遊びに来てくれた日土保育所の子ども達へのプレゼント、そして日曜学校の収穫感謝礼拝でも配られたこのストラップ。似顔絵イラストの有り無しはあるものの累計すると百二・三十個は作ったのではなかったでしょうか。なかなか穴が開かず苦労して数個作ったその横から、愛娘が「これ、いる!」と全部持ってゆきまして泣きそうになったこともありましたが、そんな修行のおかげで熟練工となることが出来ました。これもまた僕にとってのスキルアップ・嬉しい秋の実りとなった出来事でありました。

 ある日、もも組の下駄箱の上に小枝のブランコにちょこんと座ったどんぐりのトトロ達のオブジェが飾られました。美香先生の作品です。器用に何でも上手に作ってくれる美香先生にいつも感心させられます。しかも完成度は僕より相当高い。子ども達もそんなものを見せられたら「自分もやってみたい!」ってなるでしょう。美香先生はいつも教本を持って来て「こんな風に作ってゆくの」ってテキストを見せてくれるから子ども達にも製作の過程のイメージが伝わりやすく、彼らは次々に「あ、これ作りたい」「今度はこれ!」と自由製作に乗って来ます。そんな中、どんぐりタイヤを4本履かせたかっこいいオープンスポーツカーを作り出した男の子がありました。しかもヘッドライトは『どんぐり帽子』で形作られピカ!って格好よく光ってます。これには感心させられまして「すごいじゃん!」と声を掛けたなら「えへへ!」と満足げなその男の子。「わからん!」「できん!」だったこの子達がいつの間にか自分の『これ作りたい!』の想いにいざなわれ、そのイメージを具現化し表現出来るようになりました。『こうしたら出来る』が製作指導の一般的な風景でありますが、「どうしたらこれ出来る?」と思わせること・そしてその手法には自由度が無限に広がっていてひとつひとつ自分の手で確かめる体験が出来ること、それが自由製作の持つ偉大なる教育課程だと思うのです。想いが先走って「あらあら」と思えるようなものが出来上がるのもしばしばですが、それも習作。製作の中で『自分はどんなものが好きなんだろう』と言う自分探しが行われ、『それを発見・具現化してゆくスキル』と『それをやり抜こうとする想い』を自ら育ててゆくのにこんなに適した遊びはありません。それぞれに好き嫌い・得意苦手はありますが『自分の再発見』そして『新たな自分開発』、これには大人も子どももありません。子どもの『その気』に乗っかって、どうぞ皆さんも色々チャレンジしてみてください。

 そんな『秋の恵み』に触発されて自然発生的に生まれた素敵な作品達をみんなの記憶と記念に残しておきたくて、今年の収穫感謝礼拝のカードにはいつもの籠盛り収穫物を取り囲むようにそのオブジェ達を添えました。『秋の実り・野菜や果物達の収穫とそしてこの子達の成長を森の仲間達も喜んでいる』と言う素敵なカードになりました。美香先生に影響されてか、他の先生達の教室でも木の実達のオブジェが並べられ、クリスマスの製作には松ぼっくりのクリスマスツリーなども造られています。素敵な見本と子ども達の大いに喜んでくれるそのさまから、自然物を保育の中に取り入れて『自然に囲まれた幼稚園らしい秋・そしてクリスマス』を過ごしているこの冬の日土幼稚園。誰かが「今年はこうしましょう!」と決めたことでは決してなく、誰かが体現して見せてくれた『素敵な物』に「いいね!」と感じそこから聞こえてくるメロディーに別の音をそっと添わせ、それを聞いた人がまた違う音色を重ねながら日土幼稚園としてのアンサンブルをきれいに織りなしてくれています。そこに今の『日土幼稚園らしさ』があるのだと思うのです。お互いに互いの想いをリスペクトして、子ども達の想いをそのアンサンブルに上手に加え乗っけてあげながら、誰が主役・誰が主旋律などと張り合うことなく自然にふわっとまとまった、きれいなハーモニーを奏でてくれているように思うのです。これこそが神様が日土幼稚園に与えて下さったこの秋一番の実り。この実りに感謝しつつこの想いを愛おしく抱きしめながら、これからもみんなで心を合わせてイエス様をお迎えする準備を整えてゆく時『アドベント』の道のりを共に歩いてゆきたいと願っています。


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