園庭の石段からみた情景〜園だより冬休みより〜 2017.12.13
<僕らの想いをみんなに伝えてくれるもの>
 この冬一番の寒波が訪れて、日土の里でも凍えるような毎日が続いています。毎朝、その日の天気予報を覗いて見るのですが、早くも『最高気温3℃』などと言う年明け一月のような予報が冷たく掲示されていて、『今日も寒いねぇ」と重ね着を増やしながら朝の準備を整えている僕。しかも今年はこの季節になっても雨が多く、しみいるような寒さのアドベントを過ごしています。お天気ならば・陽射しが園庭に差し込んで来たならば、気温が低くともお外で熱く遊ぶことも出来るのですが、いかんせん氷雨まじりのお天気模様ではこの冬将軍にあらがうことすら出来ません。『着ダルマ雪だるま』になりながらこの冬の寒さになんとか耐えている今日この頃。「これが大寒の頃になったならどこまで寒くなるんだろう?」といらぬ先々のことを考えたなら、ますますもって心も身体も寒々として来るのでありました。
 そんな中、アドベント第4週の合同礼拝で『三人の博士』のお話を子ども達にしたのですが、「博士達はとっても大切な宝物をイエス様にお献げしました。でもそれは私達も同じなのです。私達がイエス様にお献げする一番大切な物、それは何?」と尋ねたなら「???」の子ども達。それにすかさず「それは心です」と答えた僕。その時の僕の頭の中では映画『ルパン三世カリオストロの城』のエンディング、銭形警部がクラリス姫に贈ったあの名ゼリフ「奴はとんでもないものを盗んで行きました。(それは)あなたの心です」がフラッシュバック&ヘビーローテーションしていました。いつもは三枚目の銭形警部が彼史上一番凛々しい顔でスクリーンに映し出されたであろうあの瞬間の一世一代の立ち姿を思い浮かべながら、子ども達の考えている時の間に息と心を整えて、ここぞとばかりに「心です」と言い放ったあの瞬間、それまで寒々としていた心と身体が熱くなってゆくのを不思議に感じたものでした。それに「おーそうか!」とそんな顔でうなづき返してくれる子ども達。「私達はイエス様のお誕生をみんなでお祝いするそのために、心と身体を整えて『大事な大事な宝物』として私達の心をお献げしましょう。ではお祈りします」と締めくくり話しを終えたのでありました。園長になって一年と八カ月、今までで一番素敵に『着地』出来た合同礼拝でのお話に、お祈りをしながらその間ちょっと感無量。漫画『ど根性ガエル』の「教師生活25年、こんなに嬉しいことはなーい!オーイオイオイ!」の十八番セリフを述べながら涙ながらに感激して見せる町田先生ではありませんが、ちょっと自己陶酔の世界にひたってしまった園長なのでありました。

 さてこの寒さの中、ページェントの練習も熱を帯びて来ましたが、今年は色々演出の変わったところがありました。『羊飼いに天使が現れる幕』では今年は三人の天使達、羊飼いに神様の御言葉を告げるその際に両手を上げることになりました。事の始まりはこう言う次第。例年、右手を差し上げながら御言葉を語る三人の天使なのですが、最初の頃の練習で右手が分からずあたふたしてしまったことがありました。「それならば両手を上げたらいいじゃない」と先生達。なるほど合理的ではありますが、それを最初に見た時には「なんじゃこりゃ?」と思うような立ち姿でありました。両手を耳に着くまで高く上げ、その先で腕の角度が変わっているその姿は、まるで『捕まったチンパンジー』のように見えたものでした。基本的に保守的思考回路を持つこの僕は、この聖劇の演出を付け台本を書いたおばあちゃん先生(清水佐和子)や前園長の潤子先生が退いた後の自分の代でイワレもなくこの聖劇を変えてしまうことにとても抵抗がありました。今まで守り継いで来た聖劇を僕の手で変えてしまうことに淋しさと戸惑いがあったのです。毎年ちょっとずつ変わって来たはずの日土幼稚園の聖劇、そのおかげで熟成を重ね改良されて『より良き物』として現在にまで引き継がれて来ました。おばあちゃん先生が稽古の場にいた時には別に何も感じなかったのですが、今となっては『生前贈与の形見』(おかげさまでまだ元気にしておりますが)として残され僕らに託された聖劇を、自分がいじり変えてしまうことに大いなる抵抗を感じるようになってしまったのです。
 しかし先生達の提案もよくよく分かるのです。子ども達のいらぬ負荷を減らし、三人がきれいにそろった所作を奏でる美しい場面にしたいとのそう言う想い、それは僕にとっても決してイワレのないことではありません。「でもあの絵はないな」と言う想いから、「やるなら美しい両手を上げましょう」と言うパスを先生・子ども達に向かって投げ返した僕。『両手はちょっと拡げめのXの字で、更にちょっと前方に差し出す感じ』と言うイメージをみんなに伝えたのでありました。教会の礼拝の最後に行なわれる『祝祷』では檀上の牧師先生から会堂にいる私達に向かって手が差し伸べられ祝祷の言葉が伝えられるのですが、神様の御言葉を取り告ぐ天使もこんな感じで手を差し伸べたのではないかと思ったのです。ただその時、僕はいつも目をつむってその言葉を聞いているので松井先生の所作がどのようなものだったか・両手だったか片手だったか詳細までは覚えていませんでした。その話を教師研修会の時にしたところ「片手です!」と間髪入れず真理先生。「なんであんた知ってんのよ!」と突っ込まれておりましたが、松井先生から「見ていていいんですよ」と言っていただき、みんなの笑いに包まれつつその場が丸く収まったなんてこともありました。そこで僕が「その天使の手、どんな感じが良いんですかねぇ?」と尋ねると、「ウルトラマンでなくウルトラセブンくらいの上げ方、こんな感じ」と松井先生。その時初めてウルトラマン達の飛行姿勢がそれぞれに違うことを知った僕らでありました。このように牧師先生の監修をもめでたくいただきまして、僕らは今年の三人さんに演出をつけて行ったのでありました。その立ち振る舞いに大いに合点がいった天使達。両手を差し上げる時に僕の方に凛とした目線を送りながら「こうでしょ」とやってくれています。その所作はこれまでになく知性と美しさを兼ね備えた天使のそれに見えて来まして、それだけで嬉しくなってしまいます。「これならばおばあちゃん先生も喜んでくれるかな」と思いつつ、通し稽古に励んでいる僕らです。

 もうひとつ今年は役決めの過程の中で、去年との比較や同学年の中での比較と言ったものに大きな縛りを感じた年となりました。私達は一貫して「聖劇は神様にお献げするもの。どの役が良くてどの役が良くないかとか、セリフのある役が偉くて・無い役が偉くないなんてことなど決してありません。どの役も私達の心を『聖劇』と言う形にして神様にお献げするための大切な役なのです」と長年子ども達・そしてお母さん達に語りかけて参りました。子ども達も最初は「どうして?」と言う想いを持つこともあったのですが、それをみんなで受け止め受け入れ合いながら、そのことをきっかけにまたみんなで団結を深め聖劇を熟成させながら、その年どしのクリスマスへの道のりを歩んで来たのでありました。子ども達にとってその学び・想いの受け渡しとそれを互いに受け入れ合うことはとても大切な体験となり、その後そのことを糧にそれぞれに大きな成長を見せながら日土幼稚園を巣立って行ってくれました。しかし子ども達の口から語られる断片的な言葉のみを情報元とするお母さん達からしてみたら、「どうして?」が納得に至ることがなかなか難しい時代になって来たようです。それは私達の不徳の致すところ、お母さん達の信頼と教育における信任をちゃんと得られていないが故のことでもあると反省しています。しかし教師達は子ども達一人一人のことを慮ってその子その子のその時々の成長にふさわしい三年間の教育課程を構成しようと一生懸命彼らと関わり想いを投げかけてくれています。そしてその結果、今回は譲ってあげることになった子に対してはその子以上に自らの心を痛め傷つけて、「今度の春の音楽発表会ではその分…」「来年の聖劇では…」と子ども達の想いに深く深く寄り添ってくれているのです。その先生達の子どもに向き合う真摯な姿勢には本当に頭が下がる想いです。
 「この子はこの役をやりたがっているのよねぇ」とまずそれぞれの想いを確認するところから今年も聖劇へのアプローチが始まりました。各学年の人数構成・男女数と毎年大きく変動するイレギュラー要素に頭を悩ませながら、「この役はこんなにもやりたがっているこの子にやらせてあげたい」「ここは今やっと伸びて来たこの子に任せて、その自らの成長を実感出来るそんな課題にしてあげたい」と25人の子ども達一人一人のことを思って配役を教師みんなで決めて行きました。しかし今回、保護者の方々の感じ方・受け止め方を鑑みたその結果から『ばらの子達はみんな歌だけ』と言う縛りを付けることになりました。『セリフ』と言うものを一つの切り口とし比較したならば、確かに見た目にはこれで平等です。でもこれまでの日土幼稚園の聖劇をずっと見守って来てくださった方からしたならば、その部分はとても不自然に感じられるのではないでしょうか。「これで本当にいいのだろうか?神様への心からのお献げ物となすことが出来たのだろうか?」と僕自身も答えを出せずにこの子達の聖劇を見つめています。しかしこれは今の僕らのいだく「これでいいのだろうか?」と言う想いを皆さんにも分かち感じ合っていただくための問題提起のテキストとなったなら、それも御心なのだと思うのです。この時代において何を大切にするべきなのか、私達の心が問われているのだと思うのです。僕の想いはノスタルジーによる単なるセンチメンタルに過ぎないのか?お母さん達の想いも受け止めた上で僕らの想いも理解し受け止めてもらいたい、そのためにはどうしたらよいのか。『今回の聖劇を見て皆さんがどう感じたか』、それをまた分かち合いつつイワレある新たな形を模索してゆくことこそが神様の御心なのではないかと思うのです。このことをみんなで受け止め分かち合い想いのキャッチボールを一つ一つ重ねてゆくこと、それこそが時間はかかるかも知れないけれど神様の望まれる『みんなが幸せを分かち合い譲り合うことの出来る愛の国』をこの世に作り上げてゆくことにつながってゆくのではないかと、そう思った次第でありました。

 聖劇はセリフだけで完結する朗読劇ではありません。羊達が『羊』であることを忘れて立ち上がり、『羊の歌』を歌い上げるあのシーンが僕は大好きです。そしてその幕の終りには羊飼いに連れられて、ハイハイもしたことのないような今時の子ども達がそれぞれ自分のイメージする羊になりきって舞台を這い回り、『羊』を演じているのです。ある子は従順に羊飼いの動きをトレースしながら、ある子は振り返り振り返りたまにぼーっと立ち止まりつつ気ままな羊を本能のままに演じることで、あの場面に深みを与えてくれています。羊とはそう言う生き物なのです。聖書物語の『迷子の小羊』が示す通り、羊は道に迷いながらも自らの歩む道を自らの想いに従いながら一生懸命歩んでいます。それをセリフを用いず演じることが出来るのは、小羊のように無垢な心を持った幼子だからこそ。これを年長児が演じたならば、僕らのイメージする演出に従って忠実に動き過ぎるそれゆえに『ロボット羊を連れて歩く羊飼い』の絵になってしまうかも知れないと、そんな風にも思うのです。
 いずれにしても自分の想いをまず伝えるのは『言葉』なのですが、『言葉』とは便利な一方で真に不完全なコミュニケーションツールです。いかようにも捉えることが出来るから。だからその補填のために人は手振り身振りを使って自ら演じ、高らかに歌を歌って想いを奏で、みんなでイメージを共有出来る『絵』を用いて人に自分の想いを伝えようとするのです。だからこそそれを受け取る方の人々は感動や共感と言う不思議な力に導かれて、好意的にその想いを受け入れてくださるのではないかと思うのです。冒頭の僕の『銭形警部』しかり・松井先生の『セブン』しかり・そして『僕らの聖劇』しかり。僕らはそうやって互いに想いを伝え合う者なのです。


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