園庭の石段からみた情景〜園だより春休みより〜 2018.3.15
<砂場は僕らのラボラトリー>
 つい最近まで幅を利かせていたあんなにも寒かった冬が通り過ぎれば、「乗り遅れたら大変!」と言わんばかりに春が駆け足でやって来まして、急に一気に春めいて来た今日この頃。「あっ、やっと咲き出した」と思って眺めていた寒桜達がもう盛りを過ぎる頃となりまして、あわててカメラを引っ張り出しては写真に納めているところです。そんな季節のうつろいの中に身を浸しておりますと、そのさまはまるで子ども達の成長の姿を見ているよう。『まだ出来ない』『またこんなことをして!』と彼らの日常の姿をついつい減点法で評価してしまう私達。しかしある日ふと訪れた春の温かさに誘われて顔を出した芽や咲き出した花にはなかなか気づいてあげられず、一番味わい深いその成長の過程やその盛りを見過ごしてしまいがちなもの。そして「いつのまにこんなことが出来るようになったんだろう」と過去完了形で振り返り、一人取り残されてしまった気になるのもしばしばなのではないでしょうか。子どものがんばった瞬間のボルテージとそれをライブで喜び応援出来たと言う親の想いのシンクロこそが、二人三脚で育ちゆく親子の成長の手応えと記憶になってゆくのです。忙しい日常に追われ花のほころびを見過ごしてしまうのも仕方のないことでもあるのですが、ふと気づいた時に想いをそちらに差し向けようとするそれだけできっと子ども達の満足感や私達の親心も少しずつ満たされてゆくのではないかと思うのです。そのことの繰り返しが親子の絆を強めて行くと共に、子ども達の独立独歩の助走となってゆくことでしょう。春の花が咲いた後に、若い幹が枝を伸ばし葉を一杯に茂らせて、更に自らを大きく成長させてゆく季節に入ってゆくように。

 暖かな春の陽射しにいざなわれ、子ども達は毎日朝から元気にお外で遊ぶようになりました。何にも縛られることのない日々と時間が何よりの贅沢と感じられる根っからの自由人の僕にとっては、陽だまりの中でゆったりゆっくりと子ども達と過ごすことの出来るついここ最近が、本当に嬉しく感じられるものであります。子ども達の所作の一つ一つに一年間の成長を感じられるこの時期と、今年度の仕事や行事になんとか目処がつき「おかげさまで今年もなんとかなりました」と言う感謝の想いが見事にシンクロいたしまして、何を見ても「○○君、お兄ちゃんらしくなったね」「△△ちゃん、なんか頼もしくなったんじゃない?」って感慨に満たされ僕の幸せ度を高めてくれています。先日、雨上がりの砂場のシートを久しぶりにめくってみた時のこと、「いつから遊んでいないんだろう」と思うほど砂がカチカチに固まっておりました。子ども達のプラスコップと腕力ではなかなかに歯が立たず、甘え上手&人使いの荒いたんぽぽ君が「せんせい、てつだって!」と言って来ます。「これはこのところサボってた僕らのせいだよねと」と言う自責の念から開墾鍬と大型シャベルを持ち出しまして、砂場の開墾を始めた僕なのでありました。鍬の一振り一振りに砂場が柔らかく耕され、シャベルのひとすくいひとすくいで見る見るうちに大きな山が積まれてゆきます。それに感嘆の声を上げながら集まって来た子ども達。早速みんな、山を作り運河を作りして遊び出しました。雨上がりのブルーシートに溜まりたわわに湛えられた雨水達がシートをのける際に砂場にちょっと大げさな水たまりを作ったのが『呼び水』となりまして、久々に始まりました子ども達の砂場水遊び。鍬やスコップで切り開かれた水路に船を浮かべまして満足そうに遊んでいます。しかし高低差設計も水路としての『灌がい工事』もされていない運河ですからすぐに水が干上がって、船は砂の上に打ち上げられてしまいました。「これには大量の水導入が必要である!」と水場のタライに井戸水を張り、8リッター入りの大きなバケツに水を汲んで砂場にそれを持ち込んだ僕。「かめはめはー!」の掛け声と共に勢いよく水路に水を流し込めば、砂場のすみっこに向かって川の流れが生まれました。それに大喜びの子ども達、一躍僕は彼らの英雄となったのでありました。子ども達の「もっと!もっと!」の声にバケツで何杯も水を運ぶ僕。おだてられていいように使われているもの分からずに、でも久方ぶりに僕も砂場遊びを一緒に楽しませてもらいました。その水がくだった後の溜まり水を下流に押し流すようにスコップで水を掻き始めた子ども達。それまでばらばらに遊んでいた子ども達の間にひとつの『ミッション』が発生し、言葉が飛び交うようになりました。「○○君、ここお願い!」「うんわかった!」と想いを伝え受け渡し合っている子ども達。彼に言葉をかけた△△ちゃんは園では言葉数も少なく自分の想いを言語コミュニケーションによってなかなか伝えられないそんな女の子でありました。それが「ここでは私が一番の年長者。ここは私ががんばらなくっちゃ!」と言う想いと「もうすぐ私はすみれさん!」と言う自負が彼女を奮い立たせたのでしょう。またそんな彼女の想いに応えてくれたひとつ年下の○○君、屈託のない明るさと優しさでみんなを癒してくれるどちらかと言えばほわわんとしていた彼が、最近何か目覚めて『つーと言えばかー』と響いて行動出来るそんな男の子になって来ました。「おねがい!」「よしきた!」の春らしい初々しいコミュニケーションを見せてくれたおふたりさんのやり取りを見つめながら、「この子達、なんかいつもと違うんじゃない?」とそんな想いでしばしのあいだ眺めさせてもらった嬉しい砂場ラボの情景でありました。

 また別の場面でのお話。お山にトンネルを掘っていた子があったのですが、「こっちから掘っているんだけれど向こうまでなかなか辿り着かない」と言うのです。「ただただ大人が手伝って貫通させてもそれでは面白くないなぁ」と一考していた僕の目に飛び込んで来たのは、ひげのおじちゃんが草木の水やりに使っている大きなジョウロ。「これ、いいんじゃない?」と言うことでそのジョウロ一杯に水を満たしまして、その掘削現場に運んで来た僕。例の穴を目がけて「せいの!」とジョウロを傾けたなら、細い口先から勢いよくほとばしり出す『ウォータービーム』。その穴を深く広げてゆきます。そして反対側に回りましてそちらからも『ウォータービーム』を発射したなら、見事にその穴は貫通しトンネルが出来上がったのでありました。名付けて『水圧掘削』。その山肌が十分に固められていなかったのと、穴が開いたのがうれしくって僕が調子に乗ってその後も水を掛け続けたことがアダとなり、トンネル上部の砂が陥落して掘削実験としては大失敗となってしまいました。しかしこの『ジョウロで砂が掘れる』と言う体験に大いに感銘を受けた××ちゃん。「わたし、これやりたい!」と自分のスレンダーボディーと同じくらい大きなジョウロを抱えながら水場に走って行きました。ジョウロに水を汲み砂場に戻って来た女の子。自分の手元から勢いよく発射された水流が山や水路の砂を削ってゆくのに大喜び。何度も何度もタライの元に走っては、一杯に水の湛えられたジョウロを抱え足しげく砂場に通った彼女でありました。それまではヒューマンパワーで地道に砂を掘り進めて来た砂場遊びの常道に、初めて科学の力が導入され実用化した『水圧掘削』。電気もガソリンも使う訳ではなく、ただただ物理の法則の応用によってエネルギー源を得たこの子達にとっては初めての産業革命だったのかも知れません。ジョウロに入れられた水が先に行くに従って徐々につぼまってゆくロウトを通過してゆくことにより、流体力学における『連続の式』で求められる公式『Q=AV』(【流量=断面積×速度】連続的に口がつぼまりその断面積が減少してゆく場合、そこから出てくる水の速度は減少する断面積に反比例して上がってゆくと言う理論)に基づいて流速を上げ、それにより『速度水頭』を得た流体は自身が持つエネルギーを増加させると言う理屈です。物理学で説明したならばそう言った面倒くさいことになるのですが、兎にも角にも『ジョウロの水は砂を掘れる』と言う文明の利器を知ってしまった子ども達。それからはひっきりなしに代わりばんこに大きなジョウロを抱えて水を運んで来ては、砂場を掘り進めて行ったのでありました。さっきは「せんせい、みずもってきて!」なんて言っていた子ども達さえもが自分でちっちゃなジョウロを抱えて水汲みに励んでいるではありませんか。「こんな面白いこと、自分でやらずにどうするの!」ってそんなやる気モードのツボにスイッチが入ってしまったのでしょう。残念ながら彼らの抱えて来るちっちゃな百均のジョウロ達は根元から口先まで太さの変わらない形状なので先程の連続の式による加速効果は得られないのですが、そんなことお構いなしのこの子達。水で砂が掘れてゆくことがうれしくってジョウロでジャージャーやってます。これにも子ども達を驚かせるための裏ワザがまだひとつ残っておりまして、『位置水頭』を高めることにより水のエネルギーを増加することが出来るのです。これは『エネルギー保存の法則』により位置エネルギーは運動エネルギーに変換することが出来、水を落とす高さを高くした分だけ運動エネルギーが増加すると言う理論。この理論で言えば落下させる高さを二倍にすれば、それによって得られる運動エネルギーも二倍になると言う理屈なのですが、今度子ども達の目の前でやって見せたなら彼らはどんな顔をするでしょう。抵抗や損失と言ったこの数式に出て来ない理論崩しの要因が僕らの砂場には一杯含まれておりますから、二倍の高さから落とせば二倍深く掘れると言うことはないにしても、彼らがそこに有意差を感じることが出来るくらいには効果アップが得られるのではないかと思っています。これもまたラボ実験。この物理則がいかに砂場と言う環境下で再現され、それが子ども達の心にどれだけの感動を持ったインプットを与え、そしてそこからどれほどの科学や物理学への興味が育ってゆくか。物理学と心理学・そして教育学のコラボレーションの泉となる僕らの砂場遊びは彼らからいかなるアウトプットを引き出してくれるでありましょうか。このような砂場遊びがこの子達の自発的学習啓発に対する好奇心と探究心をあおって『その気』を生み出してくれたなら、ここからまた天才物理学者や発明家が誕生するのではないかと思うのです。そんな想いにひとりニヤニヤ笑いながら、彼らが全てを理解することはないであろう理論則をこの子達にうだうだとつぶやいてみせる僕なのでありました。「そんな子ども達の『その気』と『未来』を育てているんだ」と言う自己満足に吹かれる一方、ジョウロを抱え何度も砂場と水場を往復し終えて自分のズボン・スカートを眺めてみればビジャビジャのどろどろで「わー!」とコントのように驚いてみせる彼女達のかわゆさと(気付くの遅!)、お着替え・お洗濯でまたお手を煩わせてしまう先生やお母さん達への申し訳なさが何ともこそばゆい僕らの『砂場物理学演習』なのでありました。みなさん、お手数をおかけしましてどうもすみません。

 おかげさまで今年度もこうして無事に終わろうとしています。先生と子ども達との関わりや僕自身と子ども達の遊びの中で、今年も色んな愉快なやりとりが行われて参りました。今年はその中で「教師のやる気とその気がなにより大きな教育環境となるんだね」と言うことをよくよく感じさせてもらった一年でもありました。イレギュラーやアクシデントによる『いつも通りに行かないこと』から始まったものも多くありましたが、それを教材へと昇華するために本を読んで勉強したり自らあれこれ考えてみたり(時々かわゆいドジッ子ちょんぼを見せてくれたりもしていましたが)、そんなこんなをやりながら子ども達の『楽しい!嬉しい!』と『学びと成長のきっかけ』をいつも一生懸命探してくれていた先生達の姿がありました。この豊かな自然に包まれた日土の里で見つけた多種多様の『自らの学びやがんばりの元となるその気の種達』。それを子どもごと一緒に抱きしめふくよかな想いの中に温めながら、神様の御心に依り頼みつつこの子達の成長を祈り願う保育の形。それが日土幼稚園の『キリスト教保育』なのではないかと気付きを与えられた春の日です。


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