園庭の石段からみた情景〜園だより4月号より〜 2017.3.24
<帰郷2017春>
 みんなみんなが惜しむことなくその頬に涙を伝わせて、惜別の時を分かち合った卒園式から一夜明けた金曜日の朝。僕らはこの学び舎を巣立って行った子ども達との思い出を噛みしめながら、「でもまだ、もう一日あるからね」と修了式の一日に臨む自らの想いに喝を入れようとしたものです。しかし一度燃え尽き抜け出して行った魂達は、そんな言葉で帰って来てくれるはずもありません。たった9名ではありましたが、だからこそ日々近しい距離と密度で関わって来た子ども達の存在感の大きさをしみじみと感じさせられた、まばゆい春の陽射しに包まれた朝でした。「あの子達もこの光を浴びながら、今まさに明日への希望に満たされているところなんだろうな」とみんなの笑顔を思い浮かべながら、そんな風に今年度最後の一日へと足を踏み出した僕らなのでありました。そんな少々呆けた僕のおしりをたたいてくれたのは、やっぱり幼稚園の子ども達。この子達も昨日の『別れの儀式』に感じ入り、自分の心の中に漂っている捉えどころのない淋しさを引きずっていたのでしょうか。はたまた進級を控えた『今の自分』との別れの儀式だったのでありましょうか。「おんぶー!」と言って僕の背中にくっついて来ては、あどけない幼さの残る愛らしい笑顔で元気を充電しておりました。これはなんとも不思議なもの。『エネルギー保存の法則』に反するのですが、『元気』を彼・彼女達に供給したはずの僕の方が自分の中にそれ以上に大きなエネルギーが満ち満ちて来るのを感じ、『元気と勇気』をもらった気がしたものです。「この子達がいるからこそ、自分がここに生かされているんだ」と神様の御心を改めて感じさせられた修了式の朝でありました。

 修了式が終わった後、お母さん達が『潤子先生を送る会』を企画してくださり、また嬉しいひとときを過ごさせてもらったのですが、降園して来る子ども達を園庭で待ちわびていたお母さん達の人だかりの中に、学生服の一行が突然訪れ入って来ました。「全員合格しました!」の声の主に目をやれば、幼稚園の卒園生ではありませんか。中学三年生になったこの子達が「高校合格の報告に行こう」と誘い合い、懐かしの学び舎に帰って来てくれたのでありました。「ここに来て『全員!』って言うってことは、この子達はみんな卒園生?」とそこで初めてその顔一人一人に対して『顔認識プログラム』が僕の中で走り始めます。「なんか卒園生じゃない子もいるみたいだけれど」と言う想いが『全員卒園生』と言う認識に辿り着くのを邪魔していたのですが、僕の記憶の中に今も息づいている卒園時の幼顔と今の目の前のこの子達の凛々し顔が段々とその偏差を埋めてゆき、「きみ、○○君!?」と一人ずつ『照会』が完了して行ったのでありました。そう、男の子は幼稚園の頃の幼顔に『加齢』と言うベクトルを加算してやったなら、それなりに合点の行く『出来栄え』に辿り着くのですが(中には歳相応の風貌を飛び越えて『おじさん化』していた子もありましたが)、分からないのは女の子。昔ほよよんとしていた子・ぽっちゃりしていた子達がすっとしゅっときれいになっていて、本当に誰か分からない子もあり困惑したものです。そこで僕が取り出したのは『怪獣図鑑』ならぬ『ひづちようちえん そつえんせいにおくるうた』。これは毎年僕が卒園生にプレゼントしている子ども達の写真集です。たんぽぽ・ばらの頃からすみれに至るまでのポートレートを散りばめた写真と散文詩。『この子はどんな子だったか』と言う僕の中のその子その子の思い出がしたためられた写真集で、今でも僕の大事な宝物として毎年ファイルに新版が重ね綴じられています。その『図鑑』をもいちどよくよく見つめてみたならば、「輪郭の線は大きく変わっているけど、あの愛らしい目元と優しいまなざしはこの時のままだよね。君は〇〇ちゃん!」とやっと『僕の卒園生』をそこに取り戻すことが出来まして、嬉しい想いで一杯にさせてもらったものでした。

 そんな僕らと一通り挨拶を交わした後、突然「遊んでいいですか?」と言い出した男の子達。「いいよ」の声を聞くか聞かぬかのそのうちに、園庭へと駆け出してゆきました。大きくなった図体を押し込むようにブランコに乗り込みわっさわっさ揺られる子、制服のズボンを白々にしながらあの大すべり台を滑り降りて来る子達。サッカーボールを取り出し誰からともなく円陣を組み、いつの間にか上手になったボールさばきでパスを受け渡し合っている子達などなど。それぞれ思い思いに幼稚園にいた時と何ら変わらぬ想いをもって、嬉しそうに遊んでいたのでありました。そのサッカーの輪に加えてもらい、彼らの想いをボールと共に受け止めさせてもらった僕。パスを受ける相手の受け取りやすいボールを蹴る思いやりや、パスが回ってこない子が出ないようにボールを散らす心遣いなど、このパス回しの中にもそんな心の成長を感じます。それでいて予定調和だけに留まらない意外性のあるパスやフェイクも見せながら、「ぼくら、大きくなったでしょ。」と言う『言葉に出来ない自分の想い』を投げかけて来てくれたのでありました。そう、男同士の分かり方・感じ方ってそう言うもの。言葉にして語ってしまえばなんだかチンケに感じられてしまう想い達を、こうして無言で投げかけ受け止め合う男同士の礼儀作法。「息子とのキャッチボールってきっとこんな感じかな」と、いつの間にか親になりながらも諦めかけていた夢の一つをこの子達に叶えてもらった気がした僕なのでありました。
 ある時には不仲の噂を耳にもしたこの子達でありましたが、それはそれで『さもありなん』・「そう言うこともあるでしょう」と思ったものです。幼稚園では「仲良くしなさい!」って言われて調和を求められて来たこの子達。でもあれから9年の年月が流れました。いつまでも仲良しごっこの幼稚園ではいられるはずもありません。それぞれに友達との関わり合いとその研鑽の中から自我を確立して来たであろうこの子達。友達との関係に軋轢を生じることが分っていても譲れないものを抱えながらに生きる、そんな歳になって来たのです。思春期とはきっとそう言うもの。その葛藤から逃げ、避けて通ってはいけません。人間関係のジレンマに悩み・考え・考え抜き、そこで自分を見つめ直すことによって初めて、『これが自分』と言うものを自身の中に確立してゆくのです。『自分が自分であるための指針』・「僕が僕であるためにこれだけはゆずれないもの」を定義すると共に、内外に対してそれを表明し(言葉でなくとも自身の生きざまの中にそれを表現出来たらいいと思うのです)、そこから譲る譲られるのやり取りを重ねつつ友達関係を再構築してゆくことが必要となって来るでしょう。でもそうして築き結ばれた友達との友情、これは『一生もの』です。僕が今でも親しく交友を重ねている友人の顔ぶれを見てみたならば、ほとんどが高校の生物部・大学の写真部と言った部活関係の友達です。部活と言うものは『やりたいもの』に特化した活動を行う集団であり、そこに集う仲間達の趣味嗜好性は総じて近しくなるもののよう。こだわりを持って取り組む活動の中であるがゆえに、その時々においてお互いの想いをぶつけ合ったこともありましたが、今となっては良い思い出話。『何を争ったか』と言うことさえよくよく覚えていないのですが、今でも酒を酌み交わしながら昔話に花を咲かせるそんな素敵な仲間達です。自分の事になぞらえてこの子達のことを想いつつも「大丈夫!」と結論を先に持って来てしまった僕だったのですが、もっともこうして一緒に幼稚園に帰って来てくれたことが「そんな心配、いらないっすよ!」って言ってくれているようでもあり、「僕もいらぬことに気を回すほどの歳になっちゃったなぁ」と笑ってしまいます。でもこの幼稚園に入って来たからこそ知り合って、共に育って来たからこそ人生最初の友達になれもして、仲たがいしてもこの幼稚園に帰って来ることでまた想いを通わせ重ね合わせることが出来るのだとしたならば、日土幼稚園は彼らの生涯における『マイルストーン』であり続けてくれると思うのです。自分達のこれまでの人生の歩みを見つめ直し、これから探し求めてゆこうとする『未知なる自分』を尋ね求める道しるべとしてのマイルストーン。人生の中においてこれから彼らが幾度もぶつかるであろう壁、その前に立ち止まってしまったそんな時には、またここを訪ねて来て欲しいと思うのです。もっともこんな僕のことですから、その場で気の利いた言葉を投げかけてあげることはきっと出来ないでしょう。でもそんなものが例え無くてもここに帰って来たならば、それだけで何か自分なりの『解』を掴んで帰って行ってくれるはず。ただただここに立ちずさみ心と耳を澄ましてみれば、鳥のさえずり鳴く声の中に、ほのかに香る季節の花のかぐわしさにまじりながら、神様の御言葉がきっと心の中に聞こえて来ることでしょう。この子達はそれを感じることの出来る感性を、この学び舎で育んで来てくれたのだから。

 それからも裏山をみんなで散策したり、スマホで仲間の写真を撮ったりと、幼稚園でのひとときを心から楽しんで行ってくれた子ども達。「そんなことなら度々幼稚園に遊びに来たら良かったのに」とも思ったのですが、『故郷に錦を飾る』の想いもきっとあってのことなのでしょう。こんな時だからこそ胸を張ってちょっと誇らしげにみんなで帰って来てくれたのかも知れません。一人の男の子が「幼稚園に行こう!」と誘ってくれたその言葉に一人また一人と卒園生達が想いを重ね集い合い、思春期の中3と言うお年頃にありながら女の子達もご一緒にこんなにも沢山の仲間達と一緒に帰って来てくれたこと、本当に嬉しかったです。そんな子ども達に潤子先生が「麦茶とチョコをどうぞ」と差し入れを持って来てくれました。「幼稚園児じゃないんだから麦茶なんて」と笑った僕だったのですが、その麦茶とチョコに大喜びだった子ども達。唖然とその姿を見つめる僕。特にワンプッシュでざざーと流れ出て来るディスペンサーに入れられたマーブルチョコで大いに盛り上がっていたこの子達。「なんら幼稚園と変わんないじゃん!」と思わず大笑いしてしまいました。ちょっと大人びた言葉を使うようにもなり、久方ぶりに会った僕らに対して背伸びもしてみせたいであろうこの子達。でも今の自分を飾り取り繕うことなく、こんな姿を惜しげもなく見せてくれたそのことが僕らにはとっても嬉しいことでありました。『人は生まれた瞬間に吸い込んだ最初の一呼吸の空気の何ccかが、ずっとその肺の中に留まり死ぬまでそこに残っている』と言う話を聞いたことがあります。つまり人間は生まれた場所・故郷の空気を死ぬまで自分の中にいだきながら生きていくと言うのです。それと同じようにこの子達の心の中には幼き日にこの幼稚園の野山を駆けながら吸い込んだ日土の空気と、ここで過ごした懐かしい思い出・そしてその時の想いがこれからもいつまでも残って行ってくれるでしょう。だからこそこの幼稚園の園舎・園庭に佇めばいつでもあの時の自分に帰ってゆけるのかも知れません。そう、そこで戯れ合うこの子達の姿はまるで幼稚園児そのものでありました。

 いつまでも名残惜しそうにしていた卒園生達でしたが、たっぷりとこの故郷で遊んだその後で、想いを決したように幼稚園の門をくぐってそれぞれの日常へと帰って行きました。幼稚園の頃には頭をかがめて通ることなど決してなかった幼稚園のくぐり戸を、身体が僕と変わらぬほどに大きくなった今、窮屈そうにその身をかがめながらくぐろうとするその姿に、「ここは今のこの子達には狭すぎる。この子達はもっともっと大きな世界に飛び出して、更に自らを大きく大きく成長させてゆく時の真只中なんだね。さあがんばれ、高校生!」と想いを込めて見送ったものです。そう、でも懐かしくここを思い出した時には、そして今の自分に迷った時には、いつでもここに帰っておいで。ここは君達の心が育った『心の故郷』なのだから。君達のまたの『帰郷』をいついつまでも待っているから。みんな卒業おめでとう。


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