園庭の石段からみた情景〜園だより7月号より〜 2017.7.2
<杜の仲間達が僕らに教えてくれること>
 今年はいつの間にやらなされた『梅雨入り宣言』に「ふーん、そうですかぁー」と思っていたのですが案の定雨の降らない空梅雨で、子ども達も毎日夏の陽射しに照らされながら早くも真っ黒になった六月水無月の入りでありました。そんな中、今年もひよこクラブのために松岡の『イデゴ』に繰り出しイモリを捕りに行ったのですが、ご同伴をお誘いした眞美先生とばら組さんが『イデゴおさんぽ』をいたく気に入ってくれまして、その日以降も毎日のようにお散歩に行っては水路の脇にしゃがみ込みイモリやおたまじゃくしをじーっとずーっと眺めて過ごしていたそうな。そう、今年はそのイデゴでイモリの他におたまじゃくしも見つけることが出来まして、喜び勇んで幼稚園に持ち帰りみんなで育てているところ。毎朝の水替え・鰹節のエサやりと、子ども達と一緒にせっせとお世話をしております。そんな僕らの姿にお母さん達も一緒になって、飼育ケースを覗き込んでは「餌を食べよる!」「足が生えた!」と嬉しそうに見守ってくださるから、僕もなんか嬉しくなっちゃいます。「こんな異形(いぎょう)の生き物達をも愛着のまなざしをもって見つめてくださる『虫愛ずる姫・風の谷のナウシカ』のようなお母さん達が支え応援して下さるからこそ、この自然しか自慢するもののない小さな小さな幼稚園が今もここにあり続け、『命との向き合い方』について子ども達に実体験をもって伝えることが出来るんだよな」と、まぶしいみんなの笑顔をみつめつつ改めて感じている今日この頃です。

 生き物との関わり合いは子ども達にとって大きな学びとなるようです。言葉で言うと定型句のようですが、目の前のこの子達が日に日に変わってゆくその姿と想いを受け止めていると、そのことを実感として嬉しいほどに感じます。『マイペースな自由人』が多く見られる日土幼稚園、大人が「あれこれしなさい」と言ってみても『耳スルー』でひょうひょうとしている男の子が、ある日『いきものがかり』に目覚めました。遊んでいても気移り・気変わり・心変わりをすぐにしてなかなか集中が続かなかったその彼が、毎日飼育ケースの中を覗き込んではデンデンムシの水浴びやケースのお掃除をやってくれたり、ダンゴ虫の餌の枯葉に『霧吹きシュッシュ!』とやってくれています。その姿に「この子、こんなことが出来るんだぁ!」と感心してしまった僕でありました。デンデンムシのケース掃除は結構大変なものでして、体の粘液が這った後につき従ってずーっとくっついてしまったり、デンデンのうんちもそんな粘着剤にコーティングされてちょっと洗っても落ちてくれません。しばらく水に浸けたりたわしでゴシゴシこすったり、ひと苦労もふた苦労もいたしながらそれでも文句も言わずお世話をしてくれる男の子でありました。これまで『不可思議な彼のペース』でしか形作ることの出来なかった彼とのコミュニケーションであったのですが、こんな所から共通の話題や想いが育って行って、彼の不思議なロジックを解読するためのテキスト『ロゼッタストーン』となってくれたならと思いながら、一緒にお世話を続けている僕らです。
 しかしそれにつけてもえらいのは美香先生。「生き物にがてなんですぅ」と言いながらも、そんな男の子達に付き合って生き物のお世話をしてくれたり、下駄箱の上に置かれたおたまじゃくし一杯の飼育ケースをおっかなびっくり覗いては自らの想いを子ども達に投げ掛けてくれたりもしています。ある時、やって来たてのおたまじゃくしを見つめて「かわいい!」と声をあげる先生に「えっ?かわいいの?」と聞き返してしまいました。「カエルになったらちょっと…だけど」と言う先生に女心の複雑さと感受性のきらめきを見せてもらったような気がしました。頭でっかちのこの僕は「カエルはカエル。おたまじゃくしも半漁蛙も立派に大人になった蛙君も、なんら変わるところはないんだけど」と例によって相変わらずの朴念仁。みんなの『わーきゃーリアクション』を「へー」と興味深く見つめさせてもらっています。
 でも本当はカエルにとっては命がけの大変態。『おたま』の時にはエラで呼吸をしていた彼らが、陸に上がるために肺呼吸を体得しようとしているのです。『おたま』に手足が生えて来るのは自然の理ですが、水から出るか水の中に留まるかは自己責任の自己選択。本能とは言っても飼育ケースの中ではその勘もきっと鈍るのでしょう。いつもこのタイミングで溺れて死んでしまう『おたまガエル君』があるので、水を浅くし丘も作りながら注意深く見守っています。でも今年も溺死してしまった子達が出てしまいました。身体のつくりはカエルに変わってしまったのに、『おたま』のつもりで水に戻って呼吸が出来ていないことに気付かずに命を落としてしまったのでしょうか。はたまた丘からぴよーんと跳んだ拍子に水の中に落っこちてしまったのでありましょうか。彼らにとってはなんにせよ、命がけの一発勝負。僕らみたいに『教育』や『知恵の伝承』と言うアドバンテージがない彼らは、自らの本能だけが頼りです。そんな彼らに、自分達が生まれ本来生きるべき自然の世界を少しでも見せてあげたくて、まだしっぽの消えきらぬ『カエルの赤ちゃん』を幼稚園のお庭の水槽に浮かぶスイレンのはっぱの上に放してあげています。『卒業式』と呼んでいるこの儀式にすみれさん達も興味津々。やがて自らも経験するであろう旅立ちの時を、カエルの姿を借りて想像しているのかも知れません。幼稚園の杜に消えてゆく彼らを「元気でね!立派なカエルになってね!」と見送る子ども達の心に、大きな宝物を残して自然に帰ってゆくカエル達。僕らでは到底与えてあげられない大きな希望と感動を与えてくれたカエル君に感謝の念をいだきつつ、この日土の自然の中で生き残り命をつないで行ってくれますようにと神様にお祈りしている毎日です。

 そんな生き物達との関わりの中、今年もみんなの一番人気者となったのはやはりイモリ君でありました。今年は4匹から始まった飼育ケースの『イモリランド』、眞美先生が子ども達を連れてお散歩に行く度に仲間が増えてゆきました。「僕もイモリ捕まえる!」と言う男の子に「○○君、捕まえられるの?」としたり顔で煽る眞美先生。すると平気な顔して手ずからイモリを握り捕まえてみせる男の子。普段はおっとりぼーっとしているその子の予想に反する行動にびっくりしていた眞美先生の顔を見つめながら、「日土っ子を甘く見たらだめですよ」と笑ってしまった僕でした。普段はほわほわしている子ども達も本物の命の輝きに触れた瞬間、『わんぱく小僧モード』にスイッチが入るよう。最初は「イモリ、いやぁーん」なんて言っていた女の子達も、掌にのっけてイモリの這い回るままにさせていれば怒ったり暴れたりしないことを僕が『実演プレゼン』して見せたなら、「わたしも!わたしも!」と『手乗りイモリチャレンジ』に手を上げるではありませんか。自分の掌・手の甲を這い回るイモリを愛しげに見つめるその姿から、キツネリスと戯れる『ナウシカ』の姿を思い出しました。「ここにも異形の命を分け隔てなく受け入れ愛する心が育っているんだな」と嬉しく彼女達の笑顔を見つめていた僕でした。今月のひよこクラブではそんなにしながらお世話して来たイモリ君達がちびっこ達にお披露目されて、ここでもまた人気の的となりました。飼育ケースにぺったりぴったり張り付いて、お客さんに向けてその真っ赤なお腹をデモンストレーションしていたアカハライモリ。それにこれまた声を上げながら喜んでくれたひよこちゃんとお母さんが沢山沢山ありました。自分の手を伸ばして捕まえるところまでは行かないものの興味は津々のようでありまして、ケース越しにじっとずーっとイモリ君を見つめていた子ども達もありました。この子達の『いきものがかり』デビューとなったこの回のひよこクラブ。ここから日土幼稚園の『虫愛ずる姫ねえさま』達のように、この小さな・でもかけがえのない大切な命を愛おしむことの出来る素敵な心が育って行って欲しいと願っています。
 そんなこんなの今年の『イモリ狂騒曲』、とっておきの最終楽章が待っていました。ある朝、ももの男の子が缶カンを持って来て「中にイモリがいる!」と涼しい顔で言うのです。「ふーん」と思いながら中を開けてみれば『いる』ではとっても表現しきれない『詰め込まれている』と言わんばかりのおびただしい数のイモリが『いる』ではありませんか。「うーん、たしかにいる。もしかして幼稚園の子どもより多いんじゃないのぉー?」と言いつつその数を数えて見たならば、見事にいましたその数24匹。大きな飼育ケース二つに分譲しまして彼らを入れてはみたものの、芋洗いの『湘南海岸海水浴場』のような情景は変わりません。「きっとこれがいい機会だよね」とひよこクラブでのお勤めを終えた日土生まれの7匹と合わせてその日の午後に逃しに行くことにいたしました。その日は子ども達の『うじゃうじゃイモリ詣』が一大ブームとなりまして、みんながイモリ君を見に見に詣でに来たのでありました。その度に、「△△君、沢山のイモリを見せてくれてありがとう!」って言ってくれるものだから、ちょっと嬉し顔の男の子。彼にとっても自尊感情が満たされた至福の時となったのでしょう。どうせ捕ってしまったものならば、「こんなに捕ってどうするの!」と頭ごなしに言うよりも「こんなにたくさんすごい!でもね、さあこれどうしよう?」と『二段階右折』で気づきに導いてあげる方が彼らもすっと受け入れられるもの。大人にとってはなかなかに難しい対応かもしれませんが、「何々しなさい!」「何々しちゃダメでしょ!」と言う『矯正』に対して拒否・拒絶したいと直感的に感じるのが人間の本能、『納得のいかない得体の知れないもの』を受け入れない『自己防衛本能』と言うものです。そこから学びと経験を積み重ねながら「こう言う場合はこの人の言うことを聞いた方がいい」と『計算』出来るようになってゆくのです。そんな『打算と言う処世術』を身につけると共に、「なら、こうしたらいいんじゃない?」と言う『気付き』や『ひらめき』が与えられたその時に、僕らは本当にそのことを自分の事として受け入れ、それを『自分の個性』と言う関数を通した『アウトプット』へと導くことが出来るようになるのです。『やらされ』ではつまらない、『自らの想い』をもって臨むことこそこの子達に大きな力を与えてくれるのです。それが自己実現を伴なった学びと成長の姿。その男の子はみんなから与えられた賞賛の言葉に満足しつつ「狭くてかわいそうだからね、みんなで逃しに行こうよね!」と言う言葉を自ら僕に返してくれたのでありました。きっと「帰して来なさい!」「いや!」の押し問答を経た上で幼稚園にやって来たと思われるその男の子とイモリ達。想いが十分に満たされたならこの子達はこんなに柔和に大人の提案を受け入れてくれるのだと言うことを、僕らに表わし示してくれた男の子でありました。

 そう、『自分の想いを受け入れてもらった』と言う喜びが『相手の想いをも受け入れる』、そんな心持ちにきっとさせてくれるのでしょう。今年のキリスト教保育連盟が掲げる年間主題は『愛されて育つ』。僕らはいろんな事情を抱えており、いろんな都合で日々の行動を決めています。その計画から外れることを今時の大人は嫌い、『完全なる予定調和』を求めてしまっているように思うのです。そう言う僕も保守的で、『いつも通り歩いていたい人』なのでその想いはよくよく分かるのですが、「外れてしまったものはしょうがない。その外れたとこからどうやって素敵に歩いてゆこうか」と言う強い自己肯定主観のおかげさまで人より悩み少なくこの人生を生きられているのだと思うのです。それは『すべては神様の御心。天の神様の言う通り』と言うキリスト教の理念に依り頼んで生きているからかも知れません。この子達にもまずは相手を受け入れ、その関わりの中に神様の御心と自らの自己実現を見出してゆくそんな生き方を見つけてもらえたなら、この園はまた一歩『幸せの園(その)』に近づけると思うのです。『神の国』とはきっとそう言うものだと思うから。


戻る