園庭の石段からみた情景〜園だより3月号より〜 2019.2.10
<そこに愛はあるのかい?>
 2月に入って菜種梅雨のような春の雨の降る日が多くなった今年の冬。それでも日土を流れる喜木川は相変わらず干上がったままで、それによって露わになった川底には実益と珍しさを求めて訪れた人々の痕跡があちらこちらに残されていたものでありました。人は自分が踏みしめたその場所に足跡を残したくなるものなのでしょうか。あちらこちらに平たい石を積み上げた墓標?が築かれていたのでありますが、それらによって何かで読んだ「ひとつ積んでは母の為…」と歌いながら石を積むと言われる『賽の河原』の情景をまたまた思い想い起こさせられたものでありました。また別の場所では小さな足跡と大きな足跡が点々と並んでつけられて、「ここで犬の散歩をしたんだね」とその光景を何のひねりもなく想像し得たものでありました。でも『なぜそこを』と言う動機については色々な仮説が成り立ちます。普段車が行き交う道を散歩させている飼い主が安全に思う存分愛犬を散歩させられると思ったか、はたまたアスファルトで舗装された固い道路ではなく足裏の肉球に砂や土・岩の感触を実感出来る喜びを感じさせてあげたいと思ったか。何もない川底を見つめながら久方ぶりにこの喜木川の風景をリスペクト出来た時となりました。
 そんな中、一晩しとしとと雨が降り続いた日が一日ありました。雨量はそんなたいしたこともなく、これくらいの雨が降っても何も変わらなかった喜木川を見続けて来たせいで「今回も何ら変わることもないだろう」と思っていたそのあくる朝、満々と水を湛えて流れるこの川の情景を目にしたのです。毎朝添乗している幼稚園の送迎バスで川沿いにずっと下って行ってもその水は絶えることはありません。日土橋を越えても喜木の八幡神社のあたりまで行っても途絶えることなく流れ続けているのです。その情景を見て「川が生き返った」と喜びに満たされた僕なのでありました。川の水は足し算引き算では計算出来ません。あれ以降雨が降らなかった日でも川に水は流れ続けています。おそらく昨年の異常気象と自然災害の数々が水源の山々を流れる地下水脈に不順を起こし、川への水の供給のリズムとバランスを狂わせてしまったのでありましょう。それによって雨が降っても降ってもその分しか川に水が流れ込まず、下流では川が枯れると言う現象を引き起こしたのだと思われます。それが今月に入っての少しずつの雨達が、水気をじわじわ地下に向かって浸み込ませ、それが水源地の地下水脈に達したことがまさしく『呼び水』となって再び喜木川に豊かなる水量をもたらせたのではないかと推察したものでありました。
 その再び流れ出した川面を見つめて思い至ったことがもうひとつ。川底で犬を散歩させていた飼い主の方の中には「再び水が流れ出せばここは『水洗トイレ』となるであろうから、今のここなら手ぶらで散歩出来る」なんて考えた人もあったんじゃないかとそんな仮説。同じ川を見つめながらその様相によって考察も変わるのですから、人間のインスピレーションとはなんと素晴らしいものでありましょう。でも今回のこれらの一連のことを想いながら、「これって僕ら自身も同じなんだよね」と思ったものでありました。
 長年・もしくは毎日と言うスパンで同じことを当たり前のように繰り返して生活して来たそのことが、何かの拍子に出来なくなってしまうことが僕ら・そして子ども達にはよくよくあるものです。『供給されるから出せるアウトプット』ではなく、自分の中から湧き出て来るルーティーン。それがある時何かの拍子やショックで突然出来なくなることがよくよくもってあるものです。長いお休み明けに子ども達の園生活のリズムが崩れたり、何かに嫌になって突然全然やる気がなくなってしまったり。自分の中にある水源が、いつものアウトプットへとつながっていたその水脈が突然乱れ不順をきたしてしまったその結果、そこには一滴の水も流れなくなってしまうのです。いわゆるスランプ。実力がなくなってしまった訳では決してないのです。色んな出来事に感じ入り色んな物事を吸収して自分の中に蓄えて来た水源が、ある日突然枯れてしまうことなどないのです。でもそれを「自分はもう終わった」「自分は枯れた」と思い込んでしまう僕ら。そうして僕らはスランプに陥ってしまうのです。そんな時、どうすればいいのか。やっぱりその答えはこの日土の自然が教えてくれているように思うのです。あせってあわててドバっと雨を降らせようとしてもダメ。その雨は地表を滑り流れ落ちるだけですぐに乾いてしまいます。そうではなくて、これまでと同じように地道にしとしと雨を降らせ、ちょっと休んでまたしとしと降らせることを繰り返しながら、自分の中にこの雨がゆっくり浸み込んでゆく時を待つのです。アウトプットの出せないその時こそ「これは神様が与えて下さった『ロングバケーション』なんだと」思いながら。そしてゆっくりと色んなものを自分の中に取り込んで、自分の心の中にゆったり沁み渡らせて行ったなら、おのずとそれらが呼び水となって『自分を発信したいと言う想い』を蘇らせることが出来るはず。その発信も最初は何の役に立つものでなくともいいのです。その発信を続けることにより、今度はそれが誰かの心に沁み渡り誰かの呼び水となってゆくのです。それが神様に用いられると言うこと。なんの役にも立たない『欠けた器』と思い込んでいた自分が誰かの支えになれたと言う自己肯定感は、自分自身を救う心の糧となると共に誰かの心の糧となって、僕らの心の水脈を広く太く互いに支え合うものとなしてゆくでありましょう。再び流れ出した喜木川に想いを馳せているうちに、今ロングバケーションを与えられた友人のことに想いがつながりこんな展開となってしまいましたが、これも僕の心の水脈から溢れ出した想いです。神につながる者として、そしてそのことの大切さを説き明かすことを生業として来た者として、いつかここに帰って来て「やっぱり僕は神様に救われました」と証ししてくれることを祈り待ち望んでいる僕らです。

 さて、『僕らの園庭』へと話を戻して参りましょう。先日のパン給食の時のことです。昼食を終え、子ども達を外遊びに誘いに行こうと尋ねたすみれ・ももの部屋。そこでは先に食べ終わった大半の子ども達がラキューやコマ回しをして遊んでいました。そして部屋の片隅にはまだ食事が終わらず、給食のカツサンドと格闘している子ども達が数名。食事開始から時間はだいぶ経過して食べている子達ももうのんびりモード。とりわけ急ぐ様子もありません。子ども達を外遊びに連れてゆきたい僕が現れると美香先生も気を使ってくれて食事中の子達を促します。「長い針が11になったらお外に行くよ」。その声を聞いて他の子達に「お片付けしてお外に行く準備!」と僕が言うと「まってました!」とそれぞれそそくさ遊んでいたおもちゃを片付け出した子ども達なのでありました。その時、一人のすみれの男の子が僕ににじり寄って来たのです。そして面と向かって「しん先生には優しさはないのか!」と大真面目な顔で言葉を放ったのでありました。「まだ食べ終わっていない子がいるのに、待っていてあげないの?」と僕に詰め寄るのです。そんな彼の姿を感慨深く見つめてしまった僕。「この子がこんなことを感じ言えるようになったんだ」と。

 入園前は自分の感情と向き合うことがすごく下手だったこの男の子。「もう、うちの子は!」とこぼすお母さんから伝わって来る前評判も相当なもので、「園生活、大丈夫?」と誰もがそう思ったものでした。しかし入園してみたら一番の優等生となった彼にみんなびっくり。先生そしてクラスメイト達との共同生活のその中で『やればちゃんと出来る自分』に気付き、それを正当に評価してもらえる喜びに感じ入り、そんな自分を自分らしく表現する生きざまをこの幼稚園に入って体現出来るようになって行ったのです。一方で頭の回転が速く反骨心も多分に持ち合わせていた彼は、大人から見え隠れする矛盾や不正義・理不尽と言ったものにもとても敏感で、他の子があまり感じ入らないことに対して高い感受性を示して異議申し立てをすることも多分にありました。ついこの間もお外遊びのお片けとその後の集合を促そうと、小さいクラスの子ども達に「早くしないとイノシシが来るよ!」と言った先生の言葉に「なんでそんなことを言うの?本当にイノシシなんて来るの?」と噛みついて来た男の子。大人が用いるいわゆる『方便』と言うものに対して不義を問いただした彼の愚直なまでの真っ直ぐさと、そんな彼に答弁を試みる園内一の論客である先生とのやり取りを、「やってるやってる」と思いながら遠目に眺めていた僕なのでありました。「彼は全くもって正しいのだけれど、それを相手に対するリスペクトの想いなしに挑んでゆくと、対人関係の面ではなかなかに難しいよね」とそんな風にも感じたものでありました。ディスカッションやディベートの場が構えられる学校や研修会などでは、ワザとにこう言う問題提起を発題することによってみんなの考えを深めてゆく学びの手法が用いられることもあるのですが、そのようなことなどないであろう家庭と言う環境下に於いて行われる身近な相手とのやり取りでは、このような正論や正義の提示のつもりであろう彼の言葉や想いの投げかけは単なる反抗やフェイク・悪ふざけとしか捉えられずに、大人達にとっては『生意気で面倒くさいことを言って来る子どもの戯言』としてまた理不尽に叱られる種となってしまうことでしょう。「その辺が高い知力や理解力・観察力に正義感をも兼ね備えた実力を持っているはずの彼が、なかなかに評価されない遠因となっているのかもなぁ」と思いながら見つめていた情景でありました。

 その時は『他人事』として一歩離れたところから彼の姿を見つめていた僕だったのでありますが、さあその矛先が自分に向けられた訳であります。前述のように幼い頃からの彼を見つめて来た僕、多少の予感と「いつかは」と言う想いが満たされつつあったのかも知れません。「ここは『子どもだまし』でうっちゃっる訳にはいかないぞ」と一つ息をついてからじっくりと彼と向き合うつもりで話し始めました。
 合同礼拝では聖書の御言葉を引きながら、いつも他人への優しさを説いている園長の僕。その言葉をじっと聞きながら自分の中に感じるものを募らせて来たのでしょう、この男の子。日頃そんな風に偉そうなことをお説教しているこの僕が、残されて悲しい想いになってしまったであろうクラスメイトのことを考えずに遊びに行こうとしていると、彼にはそのように感じられたのでしょう。そこで僕に突き付けられた『そこに愛はあるのかい?』発言だったのだと思うのです。そんな色々な伏線がそこまでにあり、僕の心にも色んな想いが沁み渡って来ていたので、今回はこの子がちゃんと納得出来るまでディスカッションしようと思った僕。それはそれぞれの立場を明示した上で言い分を主張し合う『パネルディスカッション』の試みであると共に、僕が自分自身の心との対話を願ってのディベートでもありました。
 「〇〇君、優しいじゃん。そうだよね、いつも『互いに愛し合いましょう』って言って『みんなに優しくしてあげようね』って言っているもんね。そうなんだよ。そうなんだよね。でもさあ。じゃあ、みんながあの子が終わるまでお外遊びに行けなくってもいい?待っている子達は可愛そうじゃない?」と僕が投げ掛ければ「でも、みんな待ってあげたらいいと思う」と男の子。聖書が示す『愛』の問答としては彼の回答の方が正しいもの。「そうだよね、『迷子の羊』の話だよね。迷子の1匹を捜しに行くのに、イエス様は99匹を残して行くって話したもんね。そう、だからいつも美香先生は遅くなった子達のことを待っていてあげたいと思っているし、でも待たせている他の子達の想いも大切にしてあげたいって思って、とっても切ない想いをしているんだと思うよ。どっちも大事にしてあげたいんだよ。だから僕らも譲り合わなくっちゃいけないと思わない?」「・・・」。僕の中に複数のパネラーとしての別人格が段々と増えて来て話が多角的になり、一つの価値観だけでは良し悪しを判断することが出来なくなって来た僕らの対話。「ひとりの子をずっと見つめていながら、他の子達のことも一人一人みんなその想いの内に抱きしめていたいって先生達は思っているんだよ。そしてそのことをしっかり感じられる時にこそ、みんなは先生を信じて待っていられるんだと思う。でも全ての人に対してそんなことが出来る人ってイエス様だけなんだよ、きっと。だからイエス様はすごいんだよ。でも僕らには難しい。そう難しいんだよ。あの子もこの子も全ての子達の想いが一杯に満たされるようにしてあげることって先生達にはきっと出来ないんだよ。イエス様だから信じて待っていられた羊達も、その羊飼いが僕らだったら段々と『まだかなぁ?』『もう帰って来ないんじゃない?』って思い出して、僕らが戻る前に『よし、今がチャンス!羊飼い先生がいないから遊びに行っちゃおう!』ってみんなが飛び出して行っちゃって、みんな迷子になっちゃうんじゃないかなぁ」「・・・」。

 実際に旧約聖書の時代には、十の戒めを記した『十戒』を刻んだ石版を神様からいただくためにシナイ山に登った指導者モーセのことを山のふもとで待っていたイスラエルの民は、なかなか戻って来ないモーセに疑心をいだき「モーセは死んだんだ。モーセの信じる神なんて何も守ってくれないじゃないか。俺達は金の雄牛の像を作ってこれからはそれを神とあがめよう」と言って自分達が身に着けていた金を集め溶かして雄牛の像を作ってしまいました。それほどに人間は目に見えないものを信じて待つことを苦手とする生き物なのです。自分で作った『種も仕掛けもあるもの』を神とすることの矛盾に気付かない人間、いや若しくはそれが故意だとするならば自分自身が神となることを無意識のうちに望んでいるのが人間なのかも知れません。自分を神とし、へりくだること・赦し合うこと・受け入れ合うことを旨としない人間がこの世界を我が物として支配することを主張し合えば、諍い・争いが絶えず起こり『平和な世の中』など訪れるはずもありません。神の怒りを買ったモーセとイスラエルの民はその報いを受けることとなったと聖書にはそう記されています。そんな記憶も呼び起こされて「僕は今、この子に何が語れるのだろうか」と思いつつ、「次の言葉を僕に与えて下さい」と神様に心の中で祈ったのでありました。
 「そう、だから譲り合うの。ゆっくり食べている子達には『もうお外行くよ、もうちょっとがんばって!』って励ましてあげないといけないし、待っている子達には『もうすぐ行くよ。お片付けしてお外に行けるよう準備しながらもう少しだけ待ってあげて』ってお願いをしなくっちゃいけないよね。そして結果としてあの子達が間に合わなくても、僕がみんなを外に遊びに連れて行っているその間、美香先生は残ってあの子達のことを待っていてあげているじゃない。それが僕らに出来る譲り合い・励まし合い・そしてそれぞれに出来ることを分かち合ってするってことだと思うんだよ」。そんな僕の話をじっと聞いていた男の子でありました。
 「でもさぁ。君があの子を待っていてあげたいって言う気持ちはすごく素敵だと思うんだ。じゃあ君は、そして君達はあの子に何をしてあげられるんだろう?」とその子ばかりではなく周りに居合わせ僕らの話を聞いていた子ども達にまで尋ねかけたその時の僕。誰彼先に「『がんばれ!』って言ってあげる」と口々に答えた子ども達。そしてその足でまだ食べている子達の所へ行って「がんばれ!」と声をかけてくれたのでありました。

 一人の男の子の僕に対する問題提起が『僕らのディスカッション』と言う小さな世界を飛び越えて『みんなの問題』として昇華され、みんなの熟慮と行動につながった瞬間でありました。子ども達に「遊びに行くよ!」と言った時は勿論、この子との話を始めた時にさえ、この話がこんな所に辿り着くとは思ってもいなかった僕。『彼の感性』と言う触媒の中で化学変化を起こしたこのことが、こんなにも色んなことをこの子達と共に考え語るテキストへと昇華させ、みんなの心の中に『自分達はどうすべきなのだろう』と言う考えとアクションをもたらせてくれたこと、これは僕の思惑の範ちゅうを大きく越えた出来事でありました。でもこれが神様が与えて下さった御心なのだと思うのです。自分を神としたならば、自分が思い考えた以上のことは起こり得ないはず。そうなった場合、それらのことは一つ一つ否定してゆかなければなりません。それは『神である自分の御心から逸脱するもの』なのですから。それだけでも人間、生きるのがしんどくなってしまうでしょう。そうではなく、自分を神様に従う者としてへりくだらせ、『それは神様の御心』とまずは受け入れ肯定することが出来たなら、そこから新たな想いや考え・行動が生じ、『新たな水脈』を捜して自分の中に沁み渡ってゆく学びや省みが行われる元種となってゆくことでしょう。またそれからもこの時間帯のこう言う状況が訪れると、この男の子の所へ行って「なあ、この前の話の続きしよう!」とディベートを持ちかける僕。そんな僕の想いをまんざらでもない顔で受け止めてくれる彼。「でもやっぱり待っていてあげたらいいと思うよ」と言ってくれるこの子の真っ直ぐな心を嬉しく思いながら、またこの話で盛り上がる僕らなのでありました。
 表題に記した「そこに愛はあるのかい?」はその昔『ひとつ屋根の下』と言うテレビドラマで江口洋介が演じる主人公が毎回良い所で言い放った決めゼリフ。当時は特に感じ入るところがあった訳でもなかったのですが、今回この男の子の言葉を受けて「そう言うことなんだよな」と懐かしく思い出したものでありました。いつも子どもの心に寄り添いながら、自分を省み悩みつつも往くべき道を選び取ってゆく保育、それが僕らのキリスト教保育の真理なのです。そう、「そこにあなたの愛は、イエス様が示し教えてくださった愛はあるのかい?」と自分自身に問いかけながら。


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