園庭の石段からみた情景〜春休み書き下ろし〜 2019.3.24
<もうひとつの帰郷2019春>
 今年度も全ての教育課程を終え、日土幼稚園の保育日程が終了しました。色んなことがあった平成30年度でありましたが、その時々においては喜びとしんどさとを感じていた事柄をこうして今もいちど振り返ったなら、「でも、あの時のあれがなかったら、僕らは今ここにこうして立ってはいないよね」とつくづくそう思うのです。みんな決して『100%想い通り』ではなかったはず。でもだからこそ意見を交し合い、お互いのことを想い合い、みんなが赦し合いつつ受け入れられる『落とし所』を模索しながら歩んで来たこの一年間でありました。そしてその想いの受け渡しと多少負荷を当初の『つもり』よりも過分に背負って物事に立ち向かったそのおかげで、互いの信頼関係の構築と自身のスキルアップにつながった時を与えられたのだと、そんな風に思うのです。
 子ども達がしばしの休息と充電の為、園庭から姿を消した春休み。パワーとモチベーションの源を失った僕らは今惰性で年度末の業務処理に当たっていると言うそんな感じなのですが、そんな中で自分自身を客観視出来る時を与えられた僕が振り返って思うのは、「みんながんばったよね」と言うこと。子ども達然り・お母さん達然り・そして先生達然り。消費者優位で何でもお金とクレームで物事が自分の想い通りに動かせるそんな世知辛い世の中にあって、この日土幼稚園だけは教育の聖域・サンクチュアリーを守ることが出来たと信じています。子ども達に物事を教え諭す立場にある僕達が、世の中の数の原理や『長いものに巻かれる』と言った風潮を拒みながら、「みんなが嬉しくなれる答えをみんなで探して行こう」と投げかけているのがキリスト教保育。そこには個人個人の我慢や譲り合いが当然生じて来るのですが、『自分の想い通り100%』を幾分か削ってでも、みんなと分かち合える喜びや幸せの大きさを子ども達・そしてお母さん方にお伝えしながら、ここまでご理解ご協力を賜りながらやって来れたこの一年間だったと思うのです。終わってみれば、子ども達はその優しさや思いやりの心を互いに投げかけ合いながら、登降園や園生活の中で手を差し伸べ合ったり励ましの声をかけ合ったりしてくれる、そんな素敵な情景をあちらこちらで一杯一杯見せてくれるようになりました。またお母さん達も助けが必要な方があれば積極的に声をかけたり、我が子と共に一緒に手を引いて歩いてくれたりと、今の時代にこんな優しさに満ち溢れたコミュニティーがあるのだろうかと思わんばかりの情景に、本当に嬉しくなってしまう僕なのでありました。でもそれがイエス様の説かれた神の国なのです。最初の一歩を踏み出す時には我慢や譲歩の想いから生じるジレンマに苛まれることがあったかもしれません。でもそれが相手の笑顔や感謝の想い・そしてなにより子ども達の喜ぶ姿を目の当たりにすることによって、それが自分自身の喜びにも昇華されとても豊かな想いに満たされて行ったのではなかったでしょうか。イエス様は「神の国では皆が天使のようになる」とおっしゃっています。きっとそう言うことなんだろうと思うのです。そして皆がそうなれたコミュニティーにおいては『お互いさま』が合言葉となります。いつも我慢ばかりの子やいつも譲ってばかりの子の献身によってそれが成り立つのではなく、譲ってくれる人には誠意をもって「じゃあ次は私がしてあげるからね」と想いを馳せつつ愛を返してあげること、そんな関わり合いがこのコミュニケーションを素敵な交わりへと昇華させてくれるのだと思うのです。そのためにもみんなのちょっとずつの『がんばり』と言う努力が必要。それをみんなで体現しながら歩んで来たこの一年がこうして素敵に終わることが出来たからこそ、「みんながんばったね」と声をかけたくなる僕なのでありました。

 そんな休みボケの燃え尽き症候群で過ごす中、つい先日幼稚園にやって来てくれた卒園生のことなどを思い出しながらつらつら文章を書いている僕。18日の月曜日、この春中学校を卒園した幼稚園の卒園生6名が、懐かしき学び舎の門をくぐりやって来てくれました。2年前にも中学を卒業した卒園生達がやって来てくれたことがあったのですが、それは幼稚園の卒園式も終えてこれまた本当に真っ白に燃え尽きたその真只中。ほわわーんとした想いの中に不意に訪れた彼らを迎えたものだったのですが、今回は翌日に卒園式を控えた前日であったので、なんか妙な心持ちになってしまったのをよくよく覚えています。最初はその前の金曜日、中学校の卒業式が終わったその日に来てくれることになっていたこの子達。みんなの都合が合わずに来ることが出来なくなったと知らせを受けて、なんかちょっと肩すかし。「そうだよね。この歳になってみんながみんな『幼稚園に行きたい!』なんて思わないよなぁ」と思いつつその知らせを受けた僕。「これまでここに来てくれた子達はみんな『幼稚園懐かしい!』って言ってくれたけれど、そうじゃない子もあるかもね」と思いつつ、彼らの週明けの再訪を待っていた僕なのでありました。
 祖母の前夜式で150名の人々を前に歌ったあの時も、壇上に立って人前で話をするそんな時も、最近はなぜかあまり緊張しなくなった僕。「もう年のせいで緊張なぞしなくなったのだな」と思っていたところが、この子達を待っているその時間は鼓動が早くなりドキドキとして、「なにこれ?」とそんな自分自身をおかしく感じたものでありました。この子達にしてみればただの『懐かしの幼稚園』でありましょうが、自分の送り出した子ども達からの評価が下るのがこの帰郷。再会を喜んでくれるかどうかもあるのですが、帰って来た子が健やかに真っ直ぐ育ってくれていなかったなら「幼稚園の保育がいけなかったのかな?」とそんな想いにも苛まれそうで、かなりドキドキの外部評価のような気がするのです。そんな僕の元へやって来た彼らは、僕らがここを送り出した時そのままの屈託のない子ども達でありました。
 まずは母屋の食堂へと通された子ども達。早速、懐かしのおばあちゃん先生の遺影に手を合わせ頭を下げておりました。それぞれが席に着き、「おかえりなさい」と久しぶりのこの子達の顔をまじまじと見つめてみたならば、「いつの間にこんなに大きくなったんだろう」と言う驚きが心の中に湧きあがって来ます。時より街中で見かけるこの子達ですが、こんな近距離で見つめ合うのは本当に久しぶりのこと。「それぞれに良い時を過ごして来たんだなと」その笑顔を見つめながらそう思ったものでありました。まずは潤子先生が引っ張り出して来た卒園アルバムと懐かしの写真集をめくりながら「かわってない!」と盛り上がるこの子達。そう、無邪気に笑い語り合うこの子達は何も変わっていないと感じられたこの時を神様に感謝したものでありました。でもこの子達、なんか違う気がするのです。「なんだろう?」と思いながらしばらく様子を眺めていると、ふと気がついたのは「この子達、こんなにおしゃべりだったっけ?」と言うこと。ばら組の頃から生まれ持った明るさで屈託のない言葉や問いかけをいつも僕に投げかけて来てくれていた男の子達、彼らは『そのままに真っ直ぐ大きくなった少年』と言う印象を僕に感じさせてくれて思わず笑ってしまいます。一方の女の子達は当時『もじもじ・テレテレ』のカワイ子ちゃんだったのが、いよいよ女子高生となる春を迎える歳相応なのか、よくよくしゃべる良く笑う。「これまた素敵に大きくなってくれたんだな」と思ったものでした。いずれもこの日土幼稚園を巣立ってから9年間の人生をそれぞれしっかりと歩みつつ、今素敵になって帰って来てくれたことを神様に感謝したものでありました。

 彼らの思い出話が始まります。真っ先にこの子達の口を突いて出て来たのが「○○先生、恐かった!」。その言葉に僕もドキッとさせられます。「そう言えばこの子達、よくよく泣かされていたもんな」と彼らの涙顔を思い出しました。門前の小僧で幼稚園を手伝い始めて、行った先々の研修で『キリスト教保育』と言う言葉を聞くものの、「じゃあそれってどんなもの?」と言うことを具現化するすべをまだ自分のものとすることが出来ていなかった当時の僕。しかしこの子達の姿を見つめながら、この子達の想いに寄り添いながら、「キリスト保育ってなんだろう?」と真剣に自分自身に問いかけたそのことが、今の日土幼稚園の保育指針を育ててゆくきっかけになったのだと思うのです。この子達の心に傷を残してしまったのは本当に申し訳なかったのですが、あれから10年の歳月をかけて日土幼稚園は変わりました。今では毎月牧師先生も交えて『キリスト教保育』についての学び合いの時を先生達と持ち、『キリスト教保育とは何ぞや』と言う研修を行なった後で自分達の保育や子ども達の近況について振り返り話し合う時を持つようになりました。それによって「子ども達やお母さん達の想いに寄り添う保育の具現化をみんなでして行こう」と先生達との間にもコンセンサスが得られるようにもなりました。一番大事なのがこのコンセンサス。いくら園長が声高に「キリスト教保育!」と叫んでみても、先生達がそれを自らの想いの中に受け入れて自らの保育の中に体現してくれなかったなら『絵に描いた餅』にしかなりません。そう意味では今は本当に良いスタッフに恵まれて保育を行うことが出来ていること、神様に感謝です。まだまだ道半ばではありますが、子ども達の想いに寄り添いお母さん達の声に耳を傾け、その上で園としての所信を発信しつつ『みんなが分かち合える答え』を模索し歩んでいる日土幼稚園。それによってソ連の崩壊後の東欧のように一時的に個々の利・不利を争うもめごとが起こったこともありました。それまでは一方的に『こうしてください』と園の名前で保護者に強要し統治していたタガが外れたのです。その諍いに対しても、互いに受け入れ合い譲り合うことを勧めている聖書の御言葉を引きながら、お母さん達に受け入れ合うことの大切さを説くばかりであった園長は「頼りない」と評されたものでありました。しかしイエス様はそうして人々を導かれたのです。決して権力や実行力を持って人々を従わせようとはなさいませんでした。つまり『子どもを泣かせて言うことを聞かせる保育』や『圧力をもって人々を従わせる園運営』は神様の御心ではないのです。そんな所信を表明しつつ、子ども達の・そしてお母さん達の想いを受け止めることが出来る幼稚園になれたのは、この子達の涙のおかげなのかも知れないと、彼らの話を聞きながらそう思ったものでありました。

 そんな『涙の思い出』から始まった彼らの懐かし話に、この先どんな耳の痛いエピソードが出て来るのかと思いきや、その後は『楽しかった話』のオンパレード。おばあちゃん先生の英語の話・一緒にサッカーをして遊んだ話・さら粉づくりのシャカシャカの話・お泊り保育の話・年中時代僕の担任で一緒に過ごした話などなど、数え上げたなら切りがない程でありました。
 祖母が亡くなるまで『おるで新町』にお世話になって7年、その前もショートステイで大洲や八幡浜の施設に通っていたのですが、もうそんな頃だったのでこの年代の子ども達の保育に関わっていたかと尋ねられると、もう引退していた時分だと思い込んでいた僕。でもちゃんと年長組に対して英語遊びの任を務め上げ、この子達の記憶にこんなにもしっかりと残る仕事をしてくれていたんだと、彼らの話から改めておばあちゃん先生のすごさ・想いの強さを感じさせられたものでありました。「死ぬまで幼稚園をする」と言ってはばからなかった祖母。いつも自分の引き際を捜しながら園長の任を受け継いで来た母や僕などの想いの薄っぺらさから比べたら、なんと壮大な覚悟・そしてそれを体現して来たおばあちゃん先生だったことでしょう。「死ぬまで…」と言うと少々呆れた顔をして聞いていた後継者達をいつも笑いながら見つめていた彼女。時代が少子化に傾いて園児が減った時代にあっても「子どもが一人になっても幼稚園をやる」と言ってはばかりませんでした。でもその想いこそが幼稚園を続けてゆくために最も重要なモチベーションになるのだと言うことを、身に沁みて感じる今日この頃。母が東京で長らく務めた小羊幼稚園は数年前、園児の減少と教会の維持存続の為と言うことで、当時まだ80人は園児が在籍していたのに閉園の道を選びました。常に園児が30人前後しかいない日土幼稚園からしてみれば「何が少ないの?」と唖然とさせられたものでした。多い時には100人を越えていた小羊幼稚園の園児数。経営や財政を考えた結果、そう言う選択を選んだのでしょうが、「『何のための教会幼稚園か』と言う一番大事なことはどこへ行ったのか」と身体を張って訴える人が与えられなかった結果だったとも思うのです。一言で幼稚園と言っても『○○幼稚園』と言う固有名詞を背負う人間がある訳ではありません。その名前の元に集まって来た人々のコンセンサスがその体を成すのか『幼稚園』と言う幻影。普通は10年も経てば牧師も園長も教諭陣も一新されてゆく新陳代謝を繰り返してゆくその中で、『何が○○幼稚園なのか』と言う哲学を構築し引き継いでゆくことは本当に難しいことなのかも知れません。スタッフがみんながみんな、余りにも客観的に物事を考えて道を選んだその結果がこの閉園。それはそうです。「子どもが一人になっても幼稚園をやる」と言う方が風車に立ち向かうドンキホーテなのです。でもそれが神様の御心でもあるのです。神様は「そこに一人でも門をたたく者がいるのであれば、伝道のためにその子を受け入れなさい」と勧め励まし、その中で苦労に伴う学びと成長を私達にきちっと賜りながら、より良き結果を与えて下さる方なのです。その様なことを自身の信仰生活の中から直感的に感じ取り、その想いを自らの保育に体現していたおばあちゃん先生。園の成り立ちから『個人立幼稚園』の性格を濃く表している日土幼稚園で、50年間にも渡ってワンマンでこの園を引っ張って来た彼女だからこそ言えた言葉だったのかもしれないのですが、今一度僕自身の覚悟について問われたような気がしたものでありました。

 『一緒にサッカーをした話』では、ある男の子が「しん先生はゴールを決めると『フッフー!』って言って喜んでいた」と嬉しそうに話しておりました。笑いながら彼の話を聞いていた僕でありましたが、申し訳もなくその記憶がありませんでした。彼らが帰ってから一週間、その記憶を手繰り色々思い出そうと試行錯誤した僕。僕の特性上、人前で流行りを追いかけるのはすごく嫌うそのくせに、子ども達には流行の言葉やギャグを使ってコミュニケーションを試みるそんな所があるエセ・ミーハー。最近では妖怪ウォッチ・ジバニャンの「○○だニャン!」のフレーズを久しく使ってみてみたり、さだまさしが出演したTV『ビフォーアフタ』で30年前に購入した無人島『詩島』をリフォームすると言う企画番組を見た際には初めて聞いた決め台詞の「なんということでしょう」にハマってしまってこの「なんということでしょう」をヘビーローテーションしたこともありました。おそらく僕の思考回路とはそんなものだと思いながら、「何か元ネタがあったはず」と記憶を探しに探した一週間でありました。するとやっぱりありました。たどりついたのが山口智子のAEONのTVコマーシャル。『イーオンのトップバリュー』と言うことで、ちょっといいチョイスに山口智子が鼻歌でイーオンのジングルを歌うと言うものだったのですが、それが「んっんー」。彼が再現してみせた「フッフー」はなんかモーニング娘のそれのようにポップで、だから「そんなこと言ったかな?」とその記憶と結びつかなかったのかも知れませんが、でも当時の彼には年甲斐もなく浮かれて口ずさむその僕の「んっんー」がそのように聞こえていたんだなと思うとおかしくなってしまいました。そしてそれと同時に、あの当時から何の成長もなく変わらない僕の思考回路に大笑いしてしまったものでありました。でもおかげでこの記憶に辿り着いたのですから、無責任に変わりゆく時代と人との中にあって『変わらぬパーソナリティー』とは大切なものであると改めてそう思ったものでもありました。
 『さら粉作りのシャカシャカの話』はある女の子が言い出した『ふるい』の話。当時から砂場遊び用にふるいがいくつか準備されていたのですが、その中には目の細かい物・粗い物があったそうな。今では目の細かい網も『百均』でそろうようなそんな時代になりましたが、当時は、まだ安い物は目が粗かったのです。その目の細かい物でふるうとさら粉は細かい上質なものが出来るのですが、粗い物だと満足行くものが出来なかったのだとか。友達に対してもそうわいわい言うことのなかった控え目な彼女だったので、我慢や譲ったことも数多くあったのでしょう。でもそんな想いが、僕らが何げないことと感じていた以上にこの子達の想いの中に残っていたんだと知らされて、「そうだったんだ」と改めて思った僕でした。そう言う関わり合いの中にこそ学びがあるとは言うものの、僕らが彼女達の想いをきちっと感じ受け止めてあげた上で自分自身の想いを投げかけることが出来て初めて、この子の『我慢』が成長のためのテキストとなる教育課程にも成りうるのです。自分のいたらなさを感じたお話でありました。
 でもそんな彼女が『何かあるとお腹が痛くなって…』と言う話を友達から振られた時に、小声で「しん先生が…」と恥ずかしそうに懐かしそうに答えてくれた言葉が嬉しかったです。よく大人達からも振られいじられる彼女のこのエピソード。「思春期の恥じらいもあるお年頃なのに、そう言う話を振られるのは嫌なんじゃないかな」とあまり僕からは触れて来なかった話題だったのですが、彼女の中にあの時一緒に寄り添って過ごした記憶が温かなものとしてずっと心の奥に残っていてくれたのだと思うと、この子達の事を何も気づいてあげられず何もしてあげることの出来なかった僕だったけれど、でもこの子達の幼稚園時代を一緒に過ごせて良かったと思えるのです。それこそがやっぱり神様の御心。僕自身には何の力もないけれど、そんな僕を用いて働かせ、この子達の中に何かを残してくださったのは神様なのだと、改めて感謝をもって受け止めさせていただいたそんなお話でありました。

 お泊り保育の話ではまた別の女の子が「私××ちゃんと危ない格好で寝ていたの」といたずらっぽい笑顔で笑って話します。どちらの寝相の悪さかは分かりませんが、ぐるっと180度位相が回転してしまった二人の相対位置。目が覚め気がついてみたならば、彼と彼女の顔がこんな数センチの所にあって…と言うそんな話。そんなことを面と向かって言われて当の男の子は恥ずかしげに下を向くしかありません。わかるわかる。このお年頃の女の子達はそうやってウブな男心を試すのです。日頃はそんなきわどい話をしている訳でもないでしょうに、思い出話に乗っかってちょっと大胆になれるのが女子高生と言うものなのでしょう。「そんな粋な女の子達からの投げかけに気の利いた応えが出来る僕であったなら、もっと浮いた話が一杯あった青春だったかもね」とこの子達のやり取りを見つめながらそんなことを思った朴念仁の僕でありました。後でその現場をみんなで探しに行ったのでありますが、その部屋を見つけると「ここ!ここ!ここだった!」と言いつつ「こんなに狭かったっけ?」と十畳ばかりの玄関の間を改めてしげしげ見つめます。大人も含めて一人一畳もない間取りでしたが、ベビー布団をみんなで並べながら眠ったこの部屋は、やっぱりこの子達の思い出のゆりかごであったのでありましょう。過去の記憶と今の空間をつなぎ合わせながら、思い出に浸っていた子ども達なのでありました。
 園長になってから、自園の卒園式ではお祝いの言葉を述べ、小学校の卒業式に行っては校長先生の祝辞を聞かせていただく機会を多く得て来た僕。今年気がついたのは日土幼稚園の卒園式では毎年のように「いつでも帰って来てください」とこの子達の帰郷を促しているのですが、他所ではあまりその言葉を聞かないなと言うこと。それはそうなのかも知れません。公立学校の先生は5年も経てば一新し、卒園生が戻って来ても自分が「おかえりなさい」と言える確証はありません。「いつでも帰って来て」と言うにはそのための土壌がないと言う現状があるから故なのかも知れません。一方日土幼稚園には『まだちょっと先の長い若造』の僕が今を継いでいると言うことに加えて、「自分が幼稚園を続けていれば、誰かここを好きになった人がその後を継いで行ってくれるんじゃないか」と言う根拠のない信頼感があるのです。その人達がここに帰って来た子ども達を喜んで迎えてくれるんじゃないかと言う、なんかそんな安心感。それが身内かそうでないかは分かりませんが一つ言えるのは、その人がおばあちゃん先生のようにここを大好きな者であったなら、この幼稚園が大好きで帰って来てくれた卒園生をきっと喜んでくれるに違いないとそんな風に思うのです。日土幼稚園が大好きでここをこうして守って来てくれた祖母のおかげで、思いもしなかった僕などと言う者が今ここにいて幼稚園を継いでいることのこの不思議。二十年前に誰がそんなことを予想し得たでありましょう。ばあちゃんもそんなことを望んだことなど、きっと一度もなかったでしょう。神様がいつもより良き道を与えて下さることを心から信じていた彼女、きっと「御心のままにしてください」と祈りつつ、この幼稚園を守り続けて来たのではなかったでしょうか。そう、僕らも先達からこの園を預かったに過ぎません。だから決して自分勝手にしてはいけないと思うのです。この日土幼稚園を守って来てくれた人々の想いを大切にしつつ、次の時代を受け継いでくれる信頼に値する後継者が与えられるまで、自分自身も学びを深め成長しながらみんなに喜んでもらえる日土幼稚園を体現してゆきたいと思うのです。そのみんなとは在園児と保護者だけではありません。じいちゃん・ばあちゃんを始めとするこの幼稚園を守って来てくれた先輩達、この日土幼稚園を学び舎として巣立って行った二千人余りの卒園生達、そして今の先生やお母さん達・僕らを見守ってくれている日土教会の皆さんを含めたすべての人々。その『みんな』が喜んでくれる日土幼稚園が体現出来たその時こそ、神様が望まれる日土幼稚園がこの世に建てられるのではないかと、そんな風に思うのです。だから帰郷に際してこの子達の思い出を共に振り返り、この子達の「懐かしい!」に立ち会い喜びを共有出来ることもとっては大事なことなのです。それが神様から託された僕らのお仕事、卒園生に対する一生涯のアフターケアーだと思うから。
 この日、そんな懐かし話に身を浸しながら、「帰ったら新約聖書、開いてみよう」と言ってくれた男の子がありました。自分自身の幼稚園時代、とても心豊かに過ごせた記憶の中に聖書や神様と言うキーワードがきっとこの子の中に息づいてくれていたのでしょう。昔は意味も言葉もよく分からなかったであろう聖書を、懐かしの幼稚園を訪れることによって「今の自分ならどう読めるんだろう。何を感じられるんだろう?」と思ってくれたのでありましょう。この小学校・中学校時代の9年間、きっと『神様』と言う存在を介さずに、人間の努力や『人権』と言う言葉でお互いを想い合おうとして来たであろうこの子達。自分の存在意義や自分が愛されていると言う実感が得られないそんな時には、どうやって他人を受け入れて来れたのだろうとふと思ったものでありました。根が素直で真面目なこの子達、きっと自分達に期待されている『おりこうちゃん像』を一生懸命演じようとして、恐い物にも目をつぶり、自分の我慢を他人にも伝えず自分の中に納めて来たのでありましょう。「幼稚園と保内中学校は楽しかった。小学校と青石中学は戻りたくない」と言っていた女の子がありました。そこでの人間関係の中に色んなことがあったのでしょう。そんな時に、「あなたは神様から愛されている、かけがえのないあなたとして喜ばれている存在なんだよ」と言うメッセージをこの子達にもう一度投げかけることが出来たならば、この子達はもっと愛に満たされた青春を過ごすことが出来たんじゃないかと、そんな風に思ったものです。やはり人は愛される喜び・受け止められている実感なしに、人を受け入れ赦し続けていたならば、心が疲弊してしまうもの。でも神様への想いを今こうしてもう一度思い起こしてくれたこの子達は、これから心の重荷を共に背負ってくださると言うイエス様のことを思い出し、何かあったその時には神様の愛を信頼し頼ってくれるそんな人生を歩み始めてくれるかもしれないと、ちょっと嬉しく思ったものでありました。

 この子達は僕が唯一クラス担任を受け持った教え子達。それがこの子達の年少の終りから年中にかけての15か月間でありました。「□□君の横に座りたいってみんなで取り合いしてたよね」と男の子。小学生時分に高松へと転校して行った幼稚園のクラスメイトのことを懐かしそうに語ります。「私と△△ちゃん、いつも言い合いしてたって…」と自らの幼き日を振り返る女の子。確かにすでにあの歳にしてはっきりした自己主張の出来る女の子だったお二人さんは、何かにつけて言い合っておりました。そんなエゴの強かった彼女達が、今こうして目の前で見てみると久方ぶりの再会のせいもありましょうか、物静かなおしとやかな女の子になっているではありませんか。それでいて上手に言葉を交わしたり笑ったりも出来るコミュニケーション能力の分化に、やはりこの9年間の成長を感じさせられたものであります。「私、◇◇君とほとんどしゃべらなかった」と言う女の子。そう、幼稚園時代は言語コミュニケーションよりも、同じ方向を見つめながら共に感じ共に歌い共に走り共にがんばると言った関わり合いが主体だったのだと思うのです。オーダーやクレームと言う言葉は交わされたかもしれませんが、想いを言葉によって伝え合ったと言う意味での『話した記憶』はあまりないのかもしれません。ましてや6歳の男の子と女の子。でもこの再会が時間を越えてその時の想いを伝え交わそうとする場として用いられたこと、とてもうれしく思うのです。今では中学校の同窓生と言うことで、その他大勢と一緒の中で空間を共有することはあるかも知れませんが、幼稚園の同級生としてこんなに近くに・そしてこんなに限られたメンバーで話を交わすのはそうそうなかったことなのではないかと思うのです。そう言う意味でもいい再会の時でありました。幼心にこんなに残っている不完全燃焼の想いを今、こうして消化しつつ思い出から更なる友情へと昇華することの出来たこの帰郷。本当に良い時を神様によって与えられたと思うのです。
 彼らの思い出から僕のカリキュラムエピソードがこぼれ落ちて来ます。「あの部屋で『フランダースの犬』や『泳げ!たいやき君』のビデオ見たんだよね!」と言った後、「ランランラン、ランランラン、ジングルベル・メリークリスマス」と歌い出す男の子。本当は『 Zingen Zingen Kleine Vlinders』と歌うオランダ語らしいのですが、僕がクリスマス祝会のクラス発表のために『空耳アワーヒアリング』で勝手に作詞した歌詞をその通り覚えていてくれた男の子に、なんだか嬉しくもあり申し訳なくもあり。「でもちょっと怖かった」と女の子。フランダースの犬の物語、最後はネロとパトラッシュが教会の会堂で死んでしまうラストシーンで終わるストーリーなのですが、『死』と言うものにまだ向き合った事もなかったであろう歳のこの子達にとっては恐いイメージが残されてしまったのかも知れません。でもその後、天使達に導かれて天国へと旅立って行くネロとパトラッシュが救いとなるエンディングとなっているのですが、その時にそこを取上げて神様の御心と神の国について話してあげられたなら、また違った想いを彼女達に残してあげられたのかなと思ったものでした。園長となった今でこそ、神様のことを聖書から引きつつ子ども達に話したり、神様の御心について先生やお母さん達に話したりすることも出来るようになった僕。当時は自分の保育と仕事に精一杯で、本当にクリスチャンとしては自分自身が至らない一教師に過ぎない僕でありました。今でもそれはそう変わりはしないのですが、この十年をかけて間違いながらも神様の御心を子ども達に伝えたいと言う想いを持って自分自身と向き合える、教会幼稚園の教師の端くれ程度には成れたのではないかと思っています。でもこれもまたこの子達のおかげなのです。こうしてこの文章を書きながら今頃になって「こうしてあげたら良かったのに」と韜晦している頭の回転の遅さは相変わらず。そんな僕でも神様は子ども達の幼児教育に用いて下さり、嬉しそうに昔を想って「ジングルベル、メリークリスマス!」と歌ってくれる保育をすることが出来たんだなとそんな風に思ったものでした。願わくば今度、この思い出話を一緒にすることがあったらなら、この天国への救いと神様の御心について彼らに語ってみたいと思うのです。また彼らがもう少し大きくなったその頃に。再び彼らの帰郷がかなったその時に。

 その後もしばらく話し込んで、それから園舎園庭・山の上までぐるっと一回りしてまた懐かしい思い出をあちらこちらで拾い集めてゆくこの子達。「ノアの方舟で私、☆☆ちゃんと二人で天使をやった!」と言う女の子。こちらは更に古い記憶、ばらの組の『ひなまつり音楽会』の思い出。今では『春の音楽発表会』と名を改め2月に行われるようになった年度最後の発表会ですが、当時は3月3日の桃の節句に合わせて、3月に行われていたこの発表会。そこでばらのこの子達のクラスを持った僕は、聖書物語の『ノアの方舟』に挑戦しようと思ったのでありました。台本からオペレッタで歌う歌の作詞作曲まで自作でこなし、劇中の挿入歌には昔のフォークソングの替え歌を作って子ども達と歌いました。神様がノアに呼びかけるところのくだりでは岡林信康の『友よ』を「ノアよー」に替えたものをモチーフに歌詞を書き、雨が降り始めた場面では小室等の『雨が空から降れば』、エンディングの洪水が治まり動物達が新しい世界へと旅立って行く場面では五つの赤い風船の『遠い世界に』をちょっとずつ劇にそぐうように歌詞を変えながら歌ったものでありました。「あの物語に天使って出て来たかなぁ?」と思いながら僕もあの劇をもういちど振り返ってみます。「そう言えばこのお二人さん、仕掛け背景の紐を引っ張り、虹を飛び出させる鳩の役をやったんだっけ」と思い出しました。聖劇のイメージと混同しながらも三歳の時の記憶を思い出しつつ嬉しそうに話してくれた彼女の笑顔がとてもまぶしく、またそれを僕らの記憶としてみんなで再び分かち合うために提示してくれたこの子の想いがなんともうれしかったです。
 【追記:後日この劇のDVDをじっくり見てみた僕でありましたが、この女の子、確かに天使をやっておりました。僕の記憶違い。神様の使いと言うことで最初に出て来る役だったのですが、僕はそれをすっかり失念していた訳です。この部分の台本も僕が創作したパートだったからでありましょうか。イズレニシテモ子どもの記憶力とその時の想いの強さを改めて感じさせられたものでありました。「この場面、この子の心にこんなにも強く残っていたんだな」って。『☆☆ちゃん』の男の子、彼は確かに鳩で違う女の子とのペア。半分正解は僕の方でありました。】
 発表会とは子ども達の成長をお母さん達にも分かりやすい形でお伝えする機会であると共に、子ども達自身にとっても自らの成長を自分自身で確かめるためのカリキュラム。到達目標に向かってがんばる過程でどれだけ自らの想いを持って取り組めるかがその成否を問うものとなるのです。それがこんな思い出としてこの子達の中に確かに残ってくれたこと、これは当時の僕への最大級の評価として与えられた、これまた神様からのご褒美だったと思うのです。年少のこんなに小さかった頃の子ども達の心の中に残った『ノアの方舟』の聖書物語。やはり全ては神様の御心だったんだなと、この子達のクラスを途中から受け継いで過ごした15か月間を愛しく思い出したものでありました。

 実際のホールの舞台に立つと「こんなに狭かったっけ?」と口々に言い合うこの子達。「それだけ君達が大きくなったんだよ」と言葉にならない想いを心の中に抱きつつ、彼らの姿を見つめた僕なのでありました。すると不意に先程の女の子が両手をはばたかせ天使を演じ始めました。「なんか、歌があったよね?どんなんだったっけ?」と言う彼女達の言葉を受けてピアノに着くと、讃美歌『荒野の果てに』を弾き出した僕。「グローウォーオオオオーオオオオオーオオオオオーリア」のメロディを奏でてみせれば「これ!これ!これ!」と大喜びをするこの子達。それに続いて「マーリヤーさんー」のくだりを弾き出せば、それに合わせて天使の歌を歌い出す彼女達。忘れていた歌達もそのメロディーが聞こえて来たならば、口ずさむうちにはっきりと思い出して歌い出すのですから、『三つ子の魂百まで』は本当に確かなもののようです。順を追って次に「わーたしーはーマーリヤー」の歌をピアノで奏でたなら、それも歌ってその後に続くセリフまで声を合わせて言ってのける彼女達。更には羊飼いの歌「わーたしーはーちーいーさーいーひつじーかいー」を弾いてみせれば、この頭の音のアクセントに合わせた羊飼いの歩みを、足を踏み鳴らしながら演じてくれた子ども達。この少々ユーモラスなメロディーと羊飼いの演技を楽しそうに再現してくれたものでありました。時は9年間も過ぎ去って、彼女達自身も忘れてしまっていたページェント。それを一瞬のうちに取り戻したこの子達の幼稚園時代の一生懸命さと、この聖劇と数々の劇中歌を僕らに残してくれたおばあちゃん先生の存在と才能の大きさを、改めて感じさせられた僕なのでありました。歌はすごいです。音楽は偉大です。毎年のことなのでこれまた『門前の小僧』でページェントの曲をさっと弾いてみせた僕に「先生すごい!」と喜んでくれる子ども達。今となってはきっと彼女達の方がピアノだってずっと上手になっているはずのに、こんなにつたない僕の伴奏を喜んでくれた子ども達。そう、音楽ってそう言うものなのです。技術や腕もあることに越したことはないのですが、こうして想いを伝え合う時に用いられたなら、その人の技量の何倍も大きな力を持って相手にこの想いを伝えてくれる、不思議で素敵な魔法の音達なのでありましょう。そんなピアノに懐かしい歌声で想いを返してくれたこの子達。僕らの久方ぶりの聖劇は、素敵なセッションとなってこの子達との思い出を現在と言う時にはっきりと甦らせてくれたその上で、新たな思い出をお土産として残して行ってくれたのでありました。
 園舎を出て山まで足を延ばしてゆくと『おいもほり』の記憶がよみがえって来ます。また山の上の僕の自宅までやって来ると「ここでお弁当食べた」とこの子達。当時は新築間もない頃でありまして、居間につながるそのすぐ外にピカピカのウッドデッキがありました。そこでこの子達とお散歩&ランチを楽しんだもの。今では築10年を過ごし、ささくれ痛んでしまったこの濡れ縁も、その頃はこの子達の恰好の憩いの場であったのです。また山を下りる道すがら「筍も採った!」と男の子。この懐かしの幼稚園にたたずんでいるだけで、次から次へと思い出が溢れ出してくるこの子達に、「みんな、日土幼稚園が大好きだったんだな。そして今でも好きでいてくれるんだな」と嬉しく思ったものでありました。

 そんなこんなのこの子達の帰郷。たっぷり5時まで幼稚園での時間を楽しみ過ごした子ども達は、僕らに別れを告げてそれぞれの家に帰ってゆきました。僕らが見送った後も、あちらこちらで一緒に集合写真を撮っていたこの子達。日土幼稚園とここを共に巣立った仲間への愛をたっぷり僕に見せてくれた、嬉しい帰郷となりました。やっぱり中学生は良いものです。希望と屈託のなさが入り混じった想いでこれからの自分を見つめている、そんな素敵な春休みの雰囲気を一杯に感じさせてくれるから。「懐かしい!」と来てくれたこの子達ですが、彼らから多くの学びを得させてもらっているのは、今も昔もこの僕の方であるのは確かです。それほどにこの子達は感受性が強く、でもそれを振りかざしてわめきたてるのでもなく、僕の方が申し訳なくなるほどに謙虚で控えめで可愛くて、色んなことにおいて気付きを僕に与えてくれた教え子達でありました。『気付き』ほど自分の身になるテキストはありません。要求や批判の形で表明される子どもやお母さん達の意志や言葉は、教師と言えど『自己防衛本能』により中々素直に自分の中に受け入れることが出来ぬもの。でもこうして僕らのことを慕いつつ昔の懐かしい思い出話として色んなことを語り聞かせてくれたこの子達の言葉は、色んなことを僕に考えさせてくれる最良の教師のように、自分自身を省みる時を与えてくれたものでした。翌日の今年の幼稚園の卒園式はおかげでまた格別な想いと希望で臨むことが出来た僕。みんなありがとう、また遊びに来てね。そんな『もうひとつの帰郷2019春』の物語でありました。


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