園庭の石段からみた情景〜園だより5月号より〜 2018.4.29
<それいけ!あんぽんちん!>
 早々に舞い散り去った今年の桜。入園式には花びらのじゅうたんも春風によって吹き飛ばされ、その後には今年の春をやり過ごし散り落とされた赤い花殻ばかりが敷き詰められています。「昨日もこれと同じくらい掃き清めたのに」と思うほど積もるこの『季節の置き土産』には辟易させられるもの。そんな想いでうつむきながら熊手を操りその日も掃き掃除をしていたのですが、「なんでこんなにも落ちているのだろう」と思い、ふと目線を頭上の小枝に送ってみれば、そこには碧い実をつけたさくらんぼ。まだ青々として粒も小さな桜の種のさくらんぼですが、その情景を見た時に「実を結んだものだけが、今もなお桜の木につながってその実を大きく育てているんだね」とそんな気付きを与えられたものでした。9月の讃美歌『主イエスは真のぶどうの木』では「主につながって実を結ぶ」と歌っている私達でありますが、日常でぶどうの木を見ることもないので「そんなものなんだね」と思いながらこの讃美歌を歌っておりました。でも『受粉せずに実を結ばなかったさくらんぼはその木の枝につながり続けることも赦されない』と言う自然の理を直視した時、改めて私達に与えられた稀有な命の尊さを強く感じさせられたのです。僕自身、遅くなりはしましたが神様によって与えられた連れ合いと愛娘がいなければ、この足元の花殻のように自分の命と想いを伝えてくれるものを得ることなく土に帰って行ったことでしょう。また幼稚園に想いを帰すれば「小さい小さい幼稚園」と言われ続けて来た私達の日土幼稚園でありますが、実を結べずにこの枝につながることなく寄り添ってあげられなかった子ども達の魂の多さを思ったならば、この幼稚園を選んでやって来て下さった皆さんとそしてその巡り合せを与えて下さった神様に感謝の念をいだかずにはいられないと、そんな想いにも駆られたのでありました。例年、その上を踏みつけてもこんなことを感じたことはなかった足元の桜の花殻ですが、今年はそんな想いと気付きを与えられた春の朝の情景となりました。

 さてさて、今年の季節の巡るリズムは実にもって駆け足で、『早くも夏日を記録した』と言う報道もなされました。4月は良いお天気に恵まれて幼稚園の日に雨が降ったのは2度3度位であったでしょうか。でもそのおかげでお外で遊びたい子ども達、特にまだその心に落ち着きと余裕の持てない新人君達にしてみたら、本当にありがたい4月でありました。それがまさに分かったのが月末のとある雨の降る日。朝からの雨で一日中お部屋で過ごさなければならなかったその日は『蜂の巣をつついた』ような大騒ぎとなりました。普段は少し淋しくなってもお外遊びで楽しいことを見つけては気を持ち直している女の子達、そして自分の想いを妨げる『クラスの時間』や『お約束』の息抜きに自由気ままにお外(特に幼稚園のお山や草原)を駆け回るのが日課となっている男の子達。そんな彼ら彼女らが想いを馳せる場を失ったあの日は本当に大騒ぎの一日となったのでありました。一度泣き出した女の子は泣き止むきっかけを見い出せませんで一日中泣き通し。お外にゆきたい男の子達は先生達の陣取る隙間をいつの間にやらくぐり抜け、雨降るお外に逃亡・大脱走。上履きのまんま山を駆け上り大すべりだいを滑り降りて来るからシューズもズボンもどろどろに。日土幼稚園の保育カリキュラムに於きましてお外での自由遊びがどれほど重要なものであるかをまざまざと教えてくれた一日となったのでありました。
 さて、それを受けての次の日は彼らだけではなく幼稚園の子ども達みんなが嬉しそうにお外に飛び出し自由遊びを楽しんだものでありました。さわやかに晴れ渡った青空を見ていると、空に向かって僕らの想いと遊びを繰り広げたくなるものです。まずは高い空に向かってフライノック。プラバットとプラボールを持ち出しまして空に向かって高く高く打ち上げたなら、子ども達はその行方を嬉しそうに見上げます。高く打ち上げられたボールに視線が見切れて、どこに飛んで行ったか分からなくなる子ども達。そして「どこどこ?」って顔をしているその背後にぼとん!と落ちて来たボールにびっくらこ。はっと振り返り、それを拾い上げましてまた僕のところへ持って来ます。「ふん!ふん!」と差し出すその顔は「もう一度やって」と訴えかけているのが分かるから、「それじゃあ」ともう一度カキーン!と打ち上げ「ほら、ゆけ!わんわんわん!」と促したなら一目散に『わんわん駆け出す』子ども達。しばしの間、そんなボール遊びに興じ戯れた僕とこの子達でありました。
 お次の企画は紙飛行機大会。最近、紙飛行機の先っぽに輪ゴムをくっつけゴムの弾性動力で推進力を得る『輪ゴム飛行機』を開発した僕。それを庭先で折りながら子ども達の目の前で空に向かって飛ばしてみれば、手で飛ばすよりも飛行姿勢を崩さず動力も的確に機体に伝わってくれるのでしょう、見事なまでに高々と悠々と飛んでゆくものだから子ども達は大喜び。みんな僕の周りに集まって来ては「作って!作って!」とせがんで来まして、『輪ゴム飛行機』の大量生産&大売出しとなりました。昔の男の子の遊び『パチンコ』の原理で片手の親指に輪ゴムをひっかけ、反対の手で飛行機を引っ張って動力がチャージ出来たところでその手を放せば、初速を得た飛行機はきれいに飛んでゆきます。そんな遊びや理屈に慣れていない女子の先生達がやったなら、支点の方のゴムがびよよんと外れて、『あらはずかしい、大失敗』。こう言う遊びは自分の体と手先指先を使って体得してゆくもので、『大人でも最初はこんなもの』ってところを僕らに見せてくれた出来事でありました。目の前で起こった『びよよよーん』に大笑いの先生と子ども達。そうそう、遊びってこう言う失敗や面白さの共有こそが何より大切なものなのです。『先生が一部始終を教授して、子どもは教わった通り・言われた通りにすればいい』なんてカリキュラムでは決して得られない共感や親しみ・信頼関係がそこから生まれて来るのです。これもうちの愛すべき先生達の人徳・そして素敵なひととなり。子ども達と一緒に心から笑えるこのことが『幼稚園の先生』と言う仕事の何よりの素養・適性だと思うのです。
 さて、お外に飛び出し遊びたかった男の子が僕のところに広告紙を持って来て「アンパンマン!ん!ん!」とそれを差し出します。僕の作成手筈をずーっとじーっと見ていた彼は、僕のそばにたたずみながら輪ゴムをつける段になると輪ゴムを僕に差し出して、テープで留める段になればセロテープをびーっと引っ張り出しながらお手伝いをしてくれました。去年のひよこクラブではアンパンマンをモチーフによくよく製作やダンスをやったのですが、だから彼にしてみれば僕は『サンサンたいそう』を踊るアンパンマン。僕の顔を見ると嬉しそうに「アンパンマン!アンパンマン!」と呼びかけてくれています。「言葉が遅いんです」とお母さんは心配されていましたが、僕を『アンパンマン!』と親しみを込めて呼んでくれるこの言葉、これは立派な言語コミュニケーション。僕と彼の間では「アンパンマン!ん!」の言葉と不言実行のでもその想いの伝わって来る所作によってこれだけのコミュニケーションが取れるから何も心配していません。『言語至上主義』の現代において、『言語野』が僕ら男よりも発達している女性の方々からしてみれば『言葉』に対する想いは並々ならぬものであるかも知れませんが、このいい歳になっても話し言葉が苦手な僕にしてみれば「だから僕らにはほかの表現手段が一杯与えられているのさ、それで想いを伝え合えたらいいじゃない」とそんな風に思うのです。そのせいでこんなに紙面上に文章が溢れかえってしまうのでありますが、文を書くこと・歌を歌うこと・絵を描くこと・遊びを創造すること、どれもみんな僕の想いを代弁してくれる『神様が与えて下さった賜物』なのです。そしてその表現は単立・独立している訳ではありません。どれかによって自分の想いを素敵に表現することが出来たなら、「次はこれでやってみよう!」とその表現方法はどんどん広がってゆくのです。そしてそれによって自分の出来ることにも幅が出来、色んなことに「挑戦しよう・やってみよう!」と思える心が育って行ってくれるのです。今はなかなかに見つからない我が子の『自分で出来ること』に不安を感じられるお母さん達もおられるでしょうが、こんな小さな・でも嬉しい成長の足跡を一緒に見つけ喜びながら、見守っていて欲しいと思うのです。

 さて、『輪ゴム飛行機プロジェクト』は他にも色んな子達の心を揺さぶってくれました。お母さんを思い出す毎に涙があふれて来る女の子、でも実は根の明るい面白いことが大好きなそんな彼女もこの飛行機を気に入ってくれまして、「作って!作って!」と笑顔でやって来てくれます。元々しっかりサンのお世話好きなこの女の子は一つ作って手渡すと、「もーいっこ作って、〇〇ちゃんにあげるから」と『世話焼き姉さんぶり』を発揮して指先の遅い僕をせっつきます。こんな時の彼女は絶好調。僕にぺしぺしちょっかいを出しに来てはケラケラ笑ってくれています。飛行機が出来て「とばすよー!」と空に向けて飛ばしてみれば、園庭の桜の小枝に引っかかってしまいました。「ががーん!」と大げさにリアクションしてみせる僕にまたまた大笑いの女の子。「あんぽん!」と言ってケラケラ嬉しそうに笑っておりました。それにつられて僕も笑ってしまったのですが、でもきっといつか彼女も気が付いてくれるでしょう。僕を「あんぽん!」って言って笑っている時、その時だけは決して自分は「おかーさーん!」って泣かずに笑っているって言うことを。だから僕はこの子達の目の前で『あんぽんちん』でいられるのです。アンパンマンは自分の顔をみんなに食べさせてあげることでみんなを幸せにしてくれるヒーロー。大昔に描かれた『やなせたかし氏』の創成期の原作ではアンパンマンはただそれだけの人でした。誰と戦う訳でもなく正義を語る訳でもない、僕もそんな『あんぽんちん』でいたいと思うのです。彼女が泣かないように・泣かなくてもいいようにと、そんなことは何も出来ません。ただ笑わせてあげることはこんな僕にも出来るのです。それが例え、いっときの気晴らしであったとしても。ケラケラ笑っているそのうちに、きっと色んなことがちょっとずつ『大丈夫』になってゆくものだから。
 もう一人この飛行機にご執心の男の子がおりまして、この子も真っ先に僕の膝元に集まって来るちびっこくんの一人です。控えめな性分は僕にシンパシーを感じてくれているようでして、押しつけがましくなく・でもある距離感を持って時間と空間を共有出来る僕らはすぐに仲良しになれました。そしてこの飛行機遊び、僕を見つけると『作って!』とおねだりしに来るその想いに応えて一機の飛行機を折上げ空に向かって飛ばしてみれば、その後ろを嬉しそうに追い駆けてゆく男の子。そして僕のところに持って来ては『また飛ばして』と飛行機を差し出す彼でありました。この紙飛行機、量産機であり飛んで行った先でどれが誰のか分からなくなって入れ替わってしまうことも多々あります。そんな時にはちょっとしょんぼりしながら僕の元に帰って来るこの男の子。「なくなっちゃったの?いいよ、また作ってあげる」と言うとまたあの嬉しそうな笑顔を輝かせてくれる彼。こうしてもう何機、飛行機を作ってあげたことでしょう。こんな風に『飛行機三昧』でずっと遊んでいた男の子、ある時ふと見ると輪ゴムを上手に操り、『パチンコ飛ばし』で上手に飛ばしているではありませんか。力が変に入っていない彼の指先から放たれた紙飛行機はきれいに空に向かって飛んでゆきます。先生達より上手に飛ばすことが出来るようになった彼の姿を見つめながら、『こつこつ君』の不言実行の自己学習がこんなにも早く素敵な実りを見せてくれたことを嬉しく思ったものでした。こうしてそれぞれ自分達の想いを紙飛行機に乗せながら、幼稚園と言う自分達の新しい日常をやっと飛び始めたこの子達。嬉しい想いに満たされながら、楽しいことを見つけながら、そして神様の御心にいだかれながら、素敵に大きくなって行って欲しいと願っています。


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