園庭の石段からみた情景〜園だより7月号より〜 2018.6.12
<僕らの『ごりごりジュース』狂想曲>
 今年は早々に梅雨入りしまして、「でもあんまり降らないねぇ」と思っていたら6月に入って梅雨本番、『また今日も雨だった』が続く毎日となりました。私達はちょっとお天気が続くと「暑い暑い!」と文句を言い、ちょっと降り続けば「雨ばっか!」と不平を言う、そんな『口さがない者』であることを改めて感じさせられる日々を過ごしています。しかし、その日々の只中にあっては「心地良く、わずらわしくなく過ごしたい」と願うのが人の想いと言うもの。そう願い祈りつつ、しかし与えられた雨とお天気を感謝を持って見つめてみれば、神様は私達にちゃんと必要なものを与えて下さっていることに気付かされます。家族参観日はお天気に恵まれ、暑くも寒くもない心地の良い日に全員参加で出来ました。じゃがいもほりも長雨に入るその前日にみんなで畑に繰り出してゆけば、大きなおいもから小粒のかわいいおいもちゃんまで一杯一杯採れまして、子ども達に『成長』や『収穫』の喜びを肌で感じさせてくれました。また豊かなる雨水と雨の合間に降り注ぐまばゆい陽射しによって大きく大きく育てられた梅の実が、梅雨末期の豪雨に当たって地面に落ちてしまうその前に、みんなで『梅採り』をすることも出来たのでありました。
 今年は梅の豊作年のようで、幼稚園でも丸々と太ったきれいな実を子ども達と採ることが出来ました。ただいま佐代子さんプロデュースによる梅ジュース作りが各クラスにおいて行われているところ。毎日梅の入った大きな瓶をゆっくり揺らしながらじっくり熟成させてゆく梅ジュース作り、最初はすみれ・もも組だけですることになっていたのですがこれは「ばらさんには無理でしょう」と言う推察によるものでありました。それがばらさん達の「やりたい!」と言う声に背中を押されて年少組でもやってみることになりまして、ちっちゃな子ども達もこの大きな梅瓶をいとおしげに毎日見つめてくれています。「きっと蓋を開けてぐっちゃぐっちゃにしちゃうんじゃない?」なんて思っていたのが失礼な程に、お行儀よくクラスの梅ジュースを見守ってくれているばらさん達。時より想いが満ち満ちて瓶を抱えそっとゆするその横顔は、ただの気まぐれではなくちゃんと『お世話しているんだから』と言う自負さえ感じる真剣顔。その後ろから「ゆするのは先生がするから!」と言葉が飛んで来るので『お約束』はどういう話になっているのか分かりませんが、でも『自分の想いが発信出来ない』『自分のことが何も出来ない』と言われていた4月頃のこの子達の姿からは想像出来ないほどの凛々しさを感じさせてくれる情景であります。私達は『出来ない』を尺度に物事を評価するクセがついてしまっているようですが、『出来たこと』を喜びと感謝を持って取り上げ物事を見つめて生きてゆくことが出来たなら、幸せが何杯にも増えてゆくように思うのです。今、この梅ジュースは子ども達と一緒にゆっくりじっくり育ってくれているところ。また今度のお誕生会の頃にはきっとみんなでその出来上がりを喜び味わうことが出来るでしょう。

 その『梅採り&梅ジュース作り』から派生しまして、子ども達の遊びの中でまた『ジューズ作りブーム』が訪れました。春には今年の新作『菜の花ジュース』で盛り上がった子ども達。これまではヨウシュヤマゴボウやソメイヨシノのさくらんぼなど、ワインレッド系のジュースが主流だったこの子達のジュース遊び。それが擂り鉢と擂り粉木の導入で葉っぱなどでも『青汁ジュース』に出来ると分った僕らは、何かめぼしい素材を見つける度に『新作ジュース開発』に情熱を燃やしたものでありました。最初は底に『擂り鉢の目』が刻まれている赤ちゃん用のスープカップ一つと、大風によって折れ転がっていた手ごろな大きさの桜の枝一本が僕らの持ち合わせた『擂り道具』でした。それを「かーしーてー」「あとでね」「もういい?」「もうちょっと」と多少のもめごとサイドストーリーをも展開しながら、みんなで使いまわして遊んでおりました。それはそれで『人間関係の良き学びの場』となっていたのですが、一人一個とは望まないもののもう少しこの子達の想いを満たしてあげたいと思い、「こんな道具、なんかないかな?」と『百均』に行く度に調理道具コーナーを探して回ったものでした。まだ擂り粉木の方はめぼしいものが何種類かあったのですが、擂り鉢の方はなかなか「これ!」と言うものが見つかりません。そこで似たようなもので『おろし器』のついた小皿を見つけたので数個買い求めたのですが、この子達の直感にぴぴっと来たものがあったのでしょう。この子達の目がワクワクと輝きに満ちてゆくのを嬉しく感じた僕でした。
 そのおろし器でもそれなりに『葉っぱジュース』は作れたのですが、やはり『餅は餅屋』。おろし器が力を発揮したのはやはり『おろし』、子ども達が拾って来た梅の実をこのおろし器にぐりぐりぐりぐり擦り付けながら見事に梅ジュースを作って見せてくれた時のことでした。擂り粉木とセットで使う頭しかなかった僕にとっては、この子達の発想のしなやかさに大変衝撃を受けたものでありました。「なるほど、これはよく擂れるよなぁ」と彼らが自ら発案した『梅ジュース製法』に思わず感服してしまいました。更にそれを見ていた女の子、今度は砂場遊びのふるい(これも以前『百均』で買い求めた本物の粉が篩えるふるい。普段はさら粉づくりに子ども達が使っている道具です)を持ち出して、梅を押し付けぐりぐりやり始めたではありませんか。「あれでも出来るならこれでも出来るよ!」と言う応用力にこれまた驚かされてしまいました。このようにこの子達の梅ジュース作りはどんどんと嬉しいほどに発展して行ったのでありました。しかしこれらもみんな『正式な道具と生成指導』が与えられず、数量的にも道具の方が足りていないと言う環境がもたらせたこの子達の『ブレイクスルー』であったのだと思うのです。『必要は発明の母』とはよく言ったもの。自分達の「これがしたい!」の想いにいざなわれ、子ども達は様々なことを頭で考え・自分の手足を使ってチャレンジし、その成功・失敗体験を通して自分の心の中に定着させてゆくのです。今時のバーチャルコンピュータゲームは頭と手元のコントローラーだけで完結する閉回路。ゲームの作り手の用意した仮想条件下から一歩も外に出ることの出来ない閉じた世界での遊びなのです。しかしもともと解を持たない僕らの自然遊びは答えの数もそこに行き着くまでの道筋も無限大。その遊びの中で色んなことに気付き、色んなことを自ら学んでゆくのです。その過程が自分の思いもしなかったストーリーをはらんだ魅惑的な物であればあるほど、強く強く心の中にそのイメージを定着させてゆくのでしょう。そうして得られた「こいつは使える!」「こんな風にやってみればなんとか出来るもんなんだ!」と言う体験がきっと、この子達の人生の有事におけるブレイクスルーに力強く寄与してくれるはずだとそう信じながら、今日も自然遊びに勤しむ僕らなのでありました。

 そんなジュース作りブームで盛り上がる僕と子ども達でありましたが、ある日ある時、僕はちっちゃな『擂り鉢&擂り粉木セット』をとうとうある『百均』で見つけました。トンカツ屋さんでよく出て来る、自分でごまを擂って『擂りたてごま』の香りを味あわせてくれるあのミニ擂り鉢セットです。子どもの遊びに使う物ですからそれぐらいのものがお手頃と思っていたのですが、探しに捜しまわっていたそのせいか、見つけた時は嬉しくって子ども達の喜んだ顔がすぐに脳裏に浮かんで来ました。ただし瀬戸物ですので、砂場や丸井戸のコンクリートに落とせば割れてしまいます。でもこれも『学びの一環』と、子ども達のジュース遊びに提供したのでありました。それを目にした時の子ども達、「私の欲しかったのはまさにこれだったのよ!」と言う顔で限定3個の擂り鉢に手を伸ばします。ここでもまた定員あぶれがおきまして、「後で貸してね」「いいよ」の交渉も早々に行われておりました。しかしやはりこれまた『餅は餅屋』。擂り鉢に葉っぱを入れて擂り粉木でごりごりと擂って行ったなら、これまでになく抹茶のように濃い緑色の青汁が生成されてゆくではありませんか。その出来栄えに順番待ちの子ども達のテンションも上がります。終わった子に擂り鉢を譲ってもらい、早く自分のジュース作りを始めたい女の子。擂り鉢に残った絞り粕を早く退かせたくって、逆さにして丸井戸の上でコンコンコンコンやり始めました。早速もって訪れました『お勉強タイム』。「さっき、これはコンコン・ガッチャンってやったら割れちゃうから気をつけてねってお願いしたでしょ。これも同じだよ、優しくあつかって」と諭すとちょっと不服そうな女の子。せっかち&自信家の彼女は「そんなの分かってるわよ」って顔で僕を見上げたのですが、もう一度「気をつけて使ってね」と静かな言葉遣いでお願いすると「うん!」と納得してくれたのでありました。こう言う場で子どもの咄嗟の挙動に驚いて思わず声を荒げてしまうことが大人にはよくよくあることですが、その投げかける言葉のニュアンスの違いで子どもの方も『受け入れられる』『受け入れられない』の分岐点に立たされることもあるのです。『意地になる』『かたくなになる』『引っ込みがつかなくなる』と言葉にしてしまえば僕ら大人でも同じようなことをしていることに気付かされるのですが、素直になれる機会と逃げ道を残しながらそこに彼女達の想いが流されてゆくように言葉掛けをしてゆくことが、上手な想いの受け渡しにつながってゆくのです。お互いに頭に血が昇っている時にはなかなかそう言う風にはいかないものではありますが、こういう想いを心のどこかにとどめて置いたならそこから立ち返ったり後から関係の修復を試みたり、そんなフォローアクションにもつながってゆくはず。これらは全て『どちらが正しい・良い悪い』の二元論で論じるべき性質のものでなく、それが『教育』であるならば・それが『相手との愛と信頼を育み確かめ合うもの』であるならば、お互いの想いを伝え合いながらも最終的には『互いに愛し合いましょう』の御言葉通り『相手の想いを受け止めてあげる』と言う愛の形に回帰してゆくために舵取りをしてゆくことが肝要なのでありましょう。
 さてさて、そんな一幕もありながら僕らの『葉っぱジュース作り』は更にバリエーションを増やしてゆきました。一番最初はヨモギの葉っぱで挑戦し、見事に美しい抹茶ジュースを作り上げたことに気を良くしました子ども達。「次はこれ」「僕はこれ」と次々にそれぞれに思い思いの葉っぱを採って来まして、擂り鉢でごりごりごりごりやり始めました。ヨモギは草団子などで世間一般的にも知られている材料ですから「まずはヨモギ!」とトップバッターに選んだのでありましたが、この擂り鉢&擂り粉木は『何でも来いの優れモノ』。子ども達の持って来たオオバコや「きっとこれも香りがよいでしょう」と僕が採って来た柿の葉まで、見事にジュースにしてくれたのでありました。あれもこれもいけるとなると調子付いてしまうのが人間のなんとも浅はかなところ。「ドクダミ・ハブ茶・プーアール」と爽健美茶の歌を歌いながら僕がごりごりやったのがドクダミの葉っぱ。以前も葉っぱジュースの中にブレンドしたことがあったのですが、その時は絞りが浅かったのか量が足りなかったのかそんなに匂いは気になりませんでした。それが今回、ドクダミ100%だったこと、擂り鉢でよーく擂ってすごく濃い液体が抽出されたことによるものだったのでしょうか。出来上がったものを『恐いもの見たさ?』で嗅いでみたら「くっさーい!」。それを聞きつけた子ども達もわざわざ寄って来て匂いを嗅いで「くっさーい!」。それを聞いたまた別の子が…と、何ともおバカな『ドクダミ試嗅会』で大騒ぎとなったのでありました。世の中から『臭いもの』が段々と消えてゆきまして、匂いにも敏感になりました私達。僕らのいわゆる『悪臭』の代表格である『アンモニア臭』とは違った不思議な臭さを体験し、うひゃうひゃ喜び遊んだそんなひとときとなりました。神様は人間が造り出せない多種多様な自然物と『人間のその時々の想い』をテキストとして与えつつ、僕らに気付きと省みを豊かに賜る方なのです。


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