園庭の石段からみた情景〜園だより1月号より〜 2020.1.19
<子ども達に健やかなる未来を>
 「今年の冬は史上まれに見る暖冬」と言われておりますが、なるほど暖かな年末年始を過ごさせてもらったものでありました。過ごしやすくはあったのですが、あまりの温かさに少々戸惑いも感じる今日この頃。年始のあいさつに「不気味な程の温かさ」としたためられた方もあったのですが、長年この地に暮らし『日本の冬』と言うものを知っておられる方からしてみれば、「温かい!」と喜んでばかりはおられないそんな心持ちであったのでしょう。そう、それが適切な日本人の感性。『自然』と言うものを良く知っている、そんな自然と賢く付き合って来た日本人。自然は平等、恵みを与えもするし奪いもするもので、僕らがおごり高ぶったその時に跳ね返って来るしっぺ返しには本当に自分達の無力さを感じさせられる想いです。僕らが自然のことを想って出来るひとつひとつはホントにホントに小さい事。しかしその小さい事とその動機となる僕らの意識が『どちらに向いているか』によって、流れは変わってゆくと思うのです。無駄な灯り一つ・設定温度1℃惜しんでみても、この温暖化は食い止められるかどうか分かりません。こちらでチマチマ排出ガスを抑制しても中国やアメリカで湯水のようにエネルギーを使っていたならば我慢の意味がないと言われるかも知れません。でも僕らはそうした祈りと努力を自らが実践してゆくそのことによって、子ども達にこの想いを伝えてゆくことが出来るのです。僕らの一挙手一投足がこれからの未来の日本を造ってゆくのです。大きな国の人々はテクノロジーとエネルギーでこの問題に対処してゆくことでしょう。昔描かれたアニメ『未来少年コナン』では、プラスティックごみから『合成パン』を作って食料とするなんてシーンがありました。そしてその対比として大地で汗水たらして働き麦を育てパンを焼くと言う『豊かなる生活』も併せて描かれておりました。その様な物語を見つめながら『大地は人間の生きる糧の源なのだ』と言うことを改めて感じさせられたものでした。そういくら快適なマンションで冷暖房が完備されて衣食住の環境が与えられていても、それが建つ大地が健全でなければ僕らの心も体も生活も決して豊かだとは言えないのです。そこまで行かなくても僕らも『暑くなったら冷やせばいい』『住めなくなったらよそに移ればいい』と短絡的に考えてしまいがち。なんでこの時代に我慢をする必要があるのだろうかと思うのも当たり前かもしれません。しかしその欲求を満たすために地球が痛んでいるのだとしたならば、僕らは自分の我慢を捧げることによって、この地球の寿命を・そしてそこに生きる未来の子ども達の『豊かな暮らし』(それは自然と共存しその自然から多くの恵みを与えられる生活)を後世に贈りわたしてあげることが出来るのではないでしょうか。自然に寄り添いその土地と共に生きようと言う想いを受け継いで来たこの国の人々の精神が、自らを助く時がきっと来るはずだとそう僕は信じています。

 さて、新学期の幼稚園に目を向けてみることにいたしましょう。子ども達のお外の自由遊び、今の流行は『ボール当て鬼』。鬼がドッヂボールを持って追いかけて、他の子に当てたらその子が鬼と言う鬼ごっこです。このゲームの運動量は相当なものなのですが、自由な時間を与えられたなら子ども達は延々と20分も40分もやっています。この体力と集中力には驚かされるばかりです。しかし思えばいつの頃から自らの想いを持ってこんなに走り回れるようになったのでしょう、この子達。家庭ではソファーに寝ころんでのスマホゲームに、スナック片手のユーチューブ。幼稚園でも床にはいつくばってのトミカ遊びにドレスを着込んでのおままごと。二学期の目白押し行事も相まって、なかなかに身体を使って遊び込むことが出来ていない現状を憂い、「行事の負荷を減らしてもいいから、お外での自由遊びの時間を子ども達にもっとあげて欲しい」と先生達にお願いして来た園長でありました。その言葉のせいで各行事のプログラムの様相が今年度はだいぶ変わりました。運動会で例年年長児が一律にチャレンジしていた跳び箱や鉄棒が設定種目から外されたり、クリスマスでのクラス毎の合奏が園全体での『演奏会』となったのもそのためでありましょう。確かに設定された課題に対して、自分の限界を超えてがんばろうとする姿は尊いものでありますし、そうやって僕らは色んなことを出来るようにもなって来ました。しかし少子化が進み、日土幼稚園も限界集落ならぬ限界園児数の陰が見え隠れして来た現代において、『日土幼稚園の存在している理由は何か。存在していて良い理由・存在意義はなんなのか』と言うことよくよく自問自答するようになりました。今の世の中、効率を考えれば大きな施設がお金をかけてがっと子どもと職員を集め、保育を行なえばよいのです。保護者の利便性を優先するならば完全給食・夜の6時7時まで預かり保育をしている保育所があれば用は足りるのです。世の中にそんな選択肢がある中で、なぜこの日土幼稚園がこんなにも細々と昔ながらの保育を続けてゆくのか、その答え無しには僕自身がやっていけない時代と年齢になって来たのを感じる今日この頃。ではその答えとは何か。それは僕らがこの園で保育をしつつその中で先達から教わり受け継いで来た『キリスト教保育』を今の時代にこの世に体現するためだと思うのです。

 僕は人にやらせるのも苦手、人にやらされるのも苦手です。本当に経営者としては不適任な者が園長などよくやっているなと自嘲してしまいます。与えられた課題に対してはそれなりに答えを出して来たし、『何々が出来る』と言うことに関しては人並み以上であると言う自負もあります。そこが勘違いの朴念仁の故なのかも知れませんが。しかしその今まで出来ていたことが、自分の想いが折れてしまうことによって全く出来なくなると言うことも体験として知ってもいるのです。そう、人間にとって本当に自らの糧となるものは『能力』ではなく『想い』だと言うことを。それはきっと目の前のこの子達・そして日土幼稚園を巣立って行った子ども達と同じだと思うのです。泣きながらやって出来るようになったことを「美しい」と評価した時代もありました。その時には先生とその子が共に喜び合った情景も確かにありました。しかし卒園して5年10年の時を経て帰って来た子ども達がそのことを『良き思い出』として持っていないことを知らされる機会が最近になって与えられ、これらのことについて考えさせられるきっかけとなったのでありました。
 感受性の鋭敏な現代の子ども達。プレッシャーに弱く打たれ弱く、昔の体育会系のスポコン・サクセスストーリーに自己陶酔出来るそんな素敵な子ども達はめっきり少なくなりました。『正解と成功を尊びつつもそれが必須』、つまり出来て当たり前がスタンダードとなってしまった現代。失敗することは即自己否定につながるそんな世の中に生まれ育って来た子ども達。失敗しないように大人の出した答えをなぞりその顔色をうかがいながら、あやうい物・不確かなものから距離を置こうとするのは当然のことわりなのかも知れません。プレッシャーにさらされるとすぐにお腹が痛くなり、幼稚園に行く元気も気力もなくなる子ども達に対して、今までのように負荷をかけた上で精神論で乗り切れと叱咤する教育はもう限界です。僕は幼稚園において設定される課題の最終目的は『一つのものに対して自らやり遂げようとする心を育てる』と言うことと『その目的を達成する方法を自分なりのやり方で自ら開発してゆく力を育てる』と言う所にあると思うのです。逆上がりが出来なくても『そのためにその子には価値がない』と言うことにはならないことを知っているはずなのに、『出来る出来ない』に固執してしまう価値観から逃れられない僕らがいる。『あの子は出来てうちの子は出来ない』と言う大人の評価を言葉にせずとも敏感に感じ取り、設定した課題にチャレンジする気概をスポイルされてしまう子ども達がいる。そんな状況の中で「がんばれ!」と言っておしりをたたいて例え出来るようになったとしても、彼らはきっと達成感も幸せも感じないのではないかとそう思うようになったのです。そこで先生達から提案のあった従来に比べて『やらされ度』の低いプログラムに納得しOKを出しました。子ども達の想いを受け止め受け入れ満たしつつ、本当に教師と子ども達が共に喜び励まし合いながら、一つ一つの行事に取り組んでゆけることを祈りながら。そして子ども達がみんなでがんばった分、それぞれの想いを満たしてあげるために『自由遊び』による自らの遊びの自由選択肢と遊び込む時間をしっかり与えてあげてと、園長としての願いも添えながら。

 一方で今のこの子達を見ていると、自らの想いを持って取り組み始めたことに対しては、こちらが「もういいよ」と言ってもやめようとしない粘り強さを感じます。それが現れていたのがすみれのページェントだったように思います。子どもが多かったその昔、一芸に秀でている者がヒーローになり得る舞台がそこには有りました。先生に叱られてばかりいる子が運動会のかけっこではだれにも負けないスプリンターであったり、普段はモジモジしちゃう女の子が学芸会の舞台に上がれば誰よりも熱く演じる女優になれたり。しかし7人の年長クラス、しかも誰も飛び抜けてはいないがそつなくこなす子がそろった今年のすみれでは、逆に『誰々だけが出来なかった』と言う評価につながってしまうと先生達は訴えるのです。「それは受け止める側の問題です。そちらに対するカウンセリングが大切でありそれが教育となってゆくんじゃない?」「また別の機会にチャンスと可能性を与えてあげられたらいいでしょう」と幼稚園としてずっとこれまで掲げて来た教育理念を踏襲して言葉を返したのですが、最終的には担任の想いを受け止めて「ではどうしたらそれが成り立つのか」と言う議論に話は移ってゆきました。その結果が今年のシナリオとなったのですが、年長一人一人の負荷は逆に上がることとなりました。『年長児は一人でセリフを語りソロを歌う』と課題設定した時点で、従来よりセリフが増えたり歌の重要度が増したりもしたのです。そうなった状況を受けて「今年、ナレーターは自分がやるつもりだった」と担任の先生。しかし去年の年長がやったナレーターの凛々しさを強く心に感じていたのでしょう、この子達。「ナレーターも自分達でやる!」と子ども達が言い出したのです。その熱意に押されて先生も想いを決めたようです。ひとことにナレーターと言ってもそのボリュームは役でのセリフよりもはるかに多く、しかも大人言葉の文語体ですから意味の分からないところもある訳です。先輩の姿に憧れて「僕もやる!」と言ったまでは良かったものの、実際にやってみたなら全然覚えられぬ言葉達と回らぬ口に自らブチ切れそうになっていた男の子もありました。しかしその子がそんな姿を見せた次の練習では、ナレーションをしっかり覚えて来て誇らしげにそのセリフを語ってくれたのです。もともと頭は良いけどヘタレ易いのが玉にキズ。そんな彼がここまで出来るようになって来れたのは、やっぱりモチベーションのなせるわざでありましょう。この子達と真理先生の底力を感じさせられた場面でありました。この子達はまだ時の満ちていなかった運動会ではなく、このクリスマスの舞台の上で『自己実現』と『自己ベスト』に挑戦し、見事にそれをやり遂げたのです。全員が逆上がりを出来るようになったのと同じ位に、出来ない自分に向き合いつつ『どうしたら出来るか』を考え抜き、自らの努力で出来るようになったと言う素晴らしい学びと体験をしたのです。ほんとにこの子達はがんばりました。がんばれるようになりました。このことによって先に述べた『幼稚園において設定される課題の最終目的』はここに達成出来たと言えるのではないでしょうか。この成功体験を元に、今度は鉄棒に挑戦してゆく子もあるでしょう。跳び箱にだってがんばれるでしょう。ひとつ『やれば出来る』の体験を得た子ども達は自分の力を信じることが出来るようになります。そうすればそこからは自分の足で歩いてゆけるようになるのです。僕らはそんな彼らが新たな課題にその気を向けるほんの少しのきっかけ作りと、がんばってゆく中での想いを受け止め分かち合うちょっと一休みの『心の停まり木』のその役を、担ってあげたならきっとそれでいいのだとそんな風に思うのです。
 そこまでがんばった子ども達にこれ以上を強いるのは可愛そう。「クリスマスはイエス様のお誕生日。心から楽しく喜んで迎えられるように心と体の準備をしてゆきましょう」と言う園長の言葉もきちんと受け止めてくれた先生達。それを体現するためにこれまでクラス毎に行われて来た合奏は、園児全員による楽しい演奏会の形でやりましょうと言うことになったのでありました。例年と違ったことをするのです。その説明責任は園にあり、言葉が足りなかった先生達に代わってここに長々と経緯とその想いを記させていただきました。日土幼稚園は『キリスト教保育』を体現しこの世にその素晴らしさを述べ伝えゆく為に存在していると先に述べました。『キリスト教保育』とは何か。『イエス様が私達を愛してくださったように、私達も互いに想いを受け止め分かち合い赦し合いながら目指してゆく保育の形』、それがキリスト教保育です。だから何をしたら達成出来る・どのようにしたら実現出来ると言うものではありません。僕らは教師間の想いを受け止め受け入れ合いながら、それと同じように子ども達の想いをも受け止め受け入れて、またお母さん達の想いもしっかりと受け止め受け入れながら、それぞれの想いに寄り添い自己実現につなげてゆく為にはどうして行ったら良いのかを考えつつ日々保育に当たっています。それぞれにとって最良の解はきっと得られないでしょう。それぞれに立場と考え・そして利害も異なる教師・子ども・保護者の三者ですから、単独で考えたなら誰かの最良解は誰かにとっての最悪解かも知れません。しかしそこに想いを分かち合い受け入れ合うプロセスを共有出来たなら、『落とし処』と言う物が生まれて来ます。それぞれに「ここは譲れないが、ここまでなら譲ってもいいよ」と言う所があるはず。そしてその想いを分かち合い赦し合い受け入れ合うことが出来たその時に、『それぞれにとってのベターな解』が赦し合えたことによる喜びによって・またその事を相手が喜んでくれたその想いを受けて、『三者にとっての最良解』へと昇華することが出来るのだと思うのです。それが僕らに平和と幸せをもたらせてくれるはず。そう信じつつこれからも互いの想いと言葉に真摯に耳を傾けてゆきたいと思います。

 さて、そろそろ『ボール当て鬼』の話に戻りましょう。そんなこんなの季節の中で、集中力・持続力をこんなにもつけて来た子ども達。行事が忙しかった時分にはお外に飛び出しても10分15分で「お片付け!」とその終りが告げられたこともあったのですが、それでは体の温まる運動量も得られません。それが年明けの少しゆったり過ごせるこの時期にこの『ボール当て鬼』を20分も続けておりますと、僕でも着ダルマになったジャンバーや上着を2枚も3枚も脱ぎ捨てるほどに体がホカホカして来ます。『有酸素運動を20分以上続けないと脂肪の燃焼は始まらない』と言うのは本当のことのようで、やはり鬼ごっこも20分はじっくりやらないと色んなことが始まって行かないようです。この歳になると過負荷のかかる運動は準備運動を充分してから且つ程々に納めておかないと身体を痛めそうになるのですが、子ども相手の鬼ごっこは適度な有酸素運動であるようで、終わった後に心地良い身体の張りを感じています。逃げ足の速い子ども達に対する僕の武器はロングスロー。弾むソフトドッヂの性質も相まって、20mも先の物陰に隠れている子ども達にバウンドしながら迫りゆくドッヂボール。それが面白いように当たるのです。向こうも鬼が近くにいないものだから安心しきっているのですが、『大陸間弾道ミサイル』が飛んで行っては彼らに命中して大人の面目躍如となるのでした。
 そんな僕と同じ位にパンパンに着ダルマになりながら、これまではちんたら三輪車に乗って遊んでいたすみれのある男の子。クラスメイトや真理先生の誘いに今学期はちょっとその気になってくれたようでして、ボールを持ってみんなと一緒に走り出しました。すると元々代謝の高い彼はすぐにほっぺたを真っ赤にしながら「暑い暑い!」と言いつつダウンジャケットを脱ぎ捨てます。そしてそれだけでは飽き足らず、その下のフリースも脱ぎ出そうとするので先生も「ちょっとまって!」。おそらく更なるその下は肌着でありましょうから、「真冬に『裸の大将』はさすがにちょっと待ってよ」とお茶を飲んでクールダウンしたものでありました。いじけるとすぐに足が止まってしまう彼を見ていて、「この子達・そして僕らの心と体が元気であれば、『余分な暖房もダイエットも要りません!』って言えるんだよね、きっと」とそう思ったものでありました。そう、体調の悪い時には身体を動かすのもおっくうで、代謝の落ちた体に「寒い寒い」と暖房をガンガンつけての悪循環。脂肪はいくらつけてもあまり断熱効果は上がらないようで、それよりも脂肪を燃やす方が数倍代謝を高めてくれるよう。暖房の過度に効いた乾燥した狭い空間に体調の悪い者同士が寄り添って遊んでいたならば、それは何でも染るでしょう。やはり人間の全ての源は健康な体。健康であるならば寒い時にも運動によって熱量を得ることが出来、化石燃料の消費を抑えて排出ガスをセーブして、自分に厳しく地球に優しい暮らしも出来るのです。そのことが自らの体の退化を抑制し、免疫力の向上・人間が本来持っている適応力や対応力を目覚めさせ、健やかなる身体を作ってゆくのです。神様が与え賜うたこの自然を・そしてその自然の一部である人間の身体能力を最大限にリスペクトしつつ、身体を動かし働くことが本当に大切なことであると評価される時代がきっともうすぐやって来るでありましょう。そんな時代のヒーローはやっぱり『未来少年コナン』のような、愛されつつ想いを満たされつつ育って来た元気で健康な子ども達だと思うのです。そんな子どもを僕らは育ててゆきたいのです。


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