園庭の石段からみた情景〜園だより2月号より〜 2020.2.9
<小さな小さな自慢話>
 長年人生を生き、同じ処に暮らしておりますと、「今年はこんなふう?いつもはあんなんだったのに」とそんなことを感じるようになって参ります。そうなって来ると「『いつも』とはいつぞや」と言うことにもなるのですが、よくよく考えれば記憶の新しいここ二・三年の印象が大きく支配するものなのかも知れません。毎年「暖冬で…」と言う言葉を欠かしたことのなかったここ数年。しかし急な寒の入りに背筋を震わせたり、ツケの溜まった分まとめて大雪で倍返しされたりと、どこかで自然によるつじつま合わせを感じたものでありました。子ども達と幼稚園の雪山をはいつくばりながら登ったのはもうふたシーズンも昔。でもその前にはやはり積雪のない三学期もあったように思うのですが、もういつのことだったか覚えてもいないていたらく。お天気ニュースを聞いていると、『例年と比べて1℃も平均気温が高い』と言うトピックスに「こんなに温かいのに1℃しか違わないの?」と逆に思ったもの。「昨日と今日の最高気温が1℃違っても同じ位にしか感じないのに」と。その冬の寒さの印象はやはり記録よりも記憶によるところが大きいのかも知れません。

 僕らがそんな冬を終えようとしている中ではありますが、でも子ども達にとっての冬はその年その年の『今年』が全て。往く歳5歳ほどの彼らにとって、「去年は寒かったねぇ」などと言う感慨は記憶にも感性にも上って来るものではないのでしょう。しかしその年の冬の様子は子ども達の動向や所作からよくよく感じられます。今年は「寒いから外に出ない!」なんて言う日は一日もなく、お昼過ぎから外に飛び出してゆく子ども達のイデタチを見ていると、ジャンバーも羽織らずの春仕様。いつもなら手袋と耳当てやニット帽がなくてはやっていられない大寒から立春の頃なのですが、今年はみんなして春めいています。しかも今年はお外に出て一番最初のミッションが『縄跳びチャレンジ』とありまして、「なるほど春の相乗効果だね」と思ったものでありました。極寒の中では身を凍えさせながら遊ぶ子ども達の想いも、どこか縮こまってしまうのでありましょう。座り込んでのさら粉遊びや低カロリー消費の地味遊びが例年この季節の定番。しかし今年は外に飛び出せば身体を動かしたくなるような春の陽射しの中、その想いに誘われて身体を動かしたならば気温の高さも相まってすぐに上着が暑くなり脱ぎ捨てることに。そんな縄跳びが終わった後もそこで火のついた興奮モチベーションから、『ボール当て鬼』やドッヂボールにサッカー等々そんなアグレッシブな遊びを展開してゆく子ども達でありました。
 ひとしきりそんな遊びが繰り広げられたその後に、必ず砂場に繰り出してゆく『砂場フリーク』がありまして、毎日砂場遊びにいそしんでいます。発表会の練習でなかなか自由遊びの時間を取ってあげられない本番直前のこの季節。砂場の道具を出して片付けての時間を差し引いたなら、お世辞にもたっぷり遊び込める時間なんてないのですが、彼らは10分でも15分でも砂場に繰り出しては一心不乱に砂遊びを楽しんでいます。だから『今日はここで遊べる時間がこの子達にあげられるかどうか分からない状況』にあっても、朝一番に砂場を開けて掃き掃除をしている僕。それが『自由遊びこそが子ども達の想いと遊びを発展させてゆく為の最高のカリキュラム』と信じている僕のお仕事だと自負しています。そんな想いを知ってか知らでか、砂場で遊ぶ子ども達は面白い遊びを繰り広げて見せてくれています。ひょんなことから根っこごと抜いてしまった菜の花一株。それをそのまま捨ててしまうのは忍びないので砂場に植えたのがきっかけで、子ども達の間に砂場の中に菜の花畑を作るブームが起こりました。穴を掘って根っこの大根がしっかり埋まるように砂をかける子ども達。抜かれて見る見るうちにしなしなになってゆく菜の花なのですが、それに水をかけてやったならまた元気になりました。なんの栄養も供給されない砂場の砂地なのですが、それに水をやっただけで一週間も十日も咲き続けたその菜の花さん。これはすごい発見でした。あの『大根』は伊達ではない。自ら蓄えた養分を使いながら水だけで花を咲かせ続け、しまいには豆さやのふくらみまでつけ始めた菜の花達。その生命力の強さに感動させられたものでありました。
 そんな『砂場菜の花物語』の裏にもうひとつ物語がありました。毎日砂場遊びに繰り出してゆく子ども達の中に、必ず一番に水を汲んで来てこの菜の花達に水をやってくれる男の子がありました。その子は何に対しても物おじしないフランクな性格で、友達にぶつかっても気にならないようなそんなちょっとワイルドな子。そんな彼が毎日愛しそうに菜の花に水をやっているのです。そして他の子が「なにこれ?」とこの菜の花を抜いてしまった時も、丁寧に埋め戻してまた水をやってくれました。そんなこれまで気が付かなかった彼の優しさや繊細さに触れた時、この神様から与えられたこの豊かな環境に心から感謝したものでありました。街中の幼稚園だったなら、花壇に咲いているパンジーなんかを抜いて砂場に植えた瞬間に怒られて、『これはしてはいけない』と言う記憶だけがその子に残るでありましょう。しかし日土幼稚園ではそこいらに生え咲き乱れている草花の一つ一つが生きた教材となり、子ども達の体験の幅と可能性を無限に広げてくれるのです。小さい子達は菜の花を喜んで摘んで来て花束にし持ち帰るところから体験を始めます。想いのままに自然と触れ合うその中で『お世話すること・自ら育て愛しむこと』へと彼の想いと気付きを導いてくれたのがこの豊かな自然環境だと言えるでしょう。僕らの想いを越えた子ども達の想いを育むために、こんな素晴らしい環境は有りません。不便・不自由は山のようにありますが、それを差し引いても「神様、ありがとうございます」と祈り感謝し、お母さん達に「こんな素敵な環境の中で保育をしているんですよ」と胸を張って言うことの出来る、日土幼稚園の数少ない自慢話でありました。


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