園庭の石段からみた情景〜園だより6月号より〜 2019.6.3
<小さき命達が僕らに教えてくれること>
 お天気続きの5月の終り、ある日の合同礼拝で『ノアの方舟』の物語を子ども達にお話ししました。「雨が全然降らないけれど、今度はずーっと雨が降ったらどうなると思う?」と言う問いかけに子ども達は『・・・』。去年の豪雨災害のことをひきながら「そうなったら困るよね。僕達も神様に守ってくださいってお祈りして、神様の御声を聞ける人になりたいですね」と締めくくると妙に納得してくれた子ども達でありました。でも僕らは「そんなことないよね」「まだだいじょうぶ」と言う想いから自分を省みる機会・神様が与えて下さった危険から逃れるチャンスを自ら捨ててしまうこともあるのです。『僕達はもっと神様の御声に対して謙虚であろうね』と言う想いを子ども達と分かち合えた合同礼拝でありました。その説教箇所は年間計画でこの日と決まっていた所だったのでありましたが、その晩からぽつぽつと雨が降り出し、いっときは激しく降りつけるような雨にもなりました。そんなお話をした正にその日に、そんな雨が降り出すので少々ドキドキもしたのでありましたが、今回の雨は『恵みの雨』として僕らの故郷を潤してくれたのでありました。
 「今年はでんでんむし見ないね」と言っていたのがこの雨で、「待ってました」と言わんばかりに元気に這い出て来たかたつむり達。雨上がりの園庭にはイモリもサワガニもチョコチョコ這い回って久しぶりのご対面を喜んだものでありました。その翌週にはひよこクラブで『日土の山の仲間ご紹介』を計画していたので、まさに僕らにとって恵みの雨となりました。この田舎の小さな幼稚園が子ども達に差し示すことの出来る教育は、本物の命と関わりふれあう体験を重ねながらその命の尊さと儚さを伝えてゆくことだと思うのです。命は神様によって与えられた尊いものであり、神様は私達を愛してくださるのと同じようにその小さな命の一つ一つをも愛してくださっていると言うこと。そしてその命は僕らの増長や不注意であっけなく失われる儚いものであると言うこと。だから僕らは神様が私達を愛してくださったように、この命達に慈しみと思いやりとを持って向き合って行かなければならないと言うことを保育の中で子ども達に伝えてゆくことそれこそが、神様が僕らに課された使命なのだと思うのです。『ダンゴ虫、死んじゃった。お墓に埋めてバイバイ』で終わらない教育。儚くも失くしてしまった命のことを想い、その小さな命に想いを馳せつつも神様に委ねる『お祈り』をもって執り成す命との別れの儀式は、この子達の心を育んで行く上で尊い経験となってくれることと信じています。

 ある日の放課後、小学生の男の子が僕の所に「先生、こんなのがいました!」とやって来てくれました。両手で包んだ掌の包みをほどくと中からイモリが出て来ました。おとなしくその掌の中に納まっていたイモリ君。野生の生き物は興奮するとその状況から逃げ出そうと暴れ出すものなのですが、元々は狭い所や暗い所に居る方が落ち着くものも多くあり、イモリなどもその類。この子がそっと優しく扱ってくれたがゆえにこのイモリは彼を信頼しその身を委ねていたのでしょう。幼稚園の頃から日土の自然と生き物が大好きだったこの男の子。その魂は卒園してからも健やかに育ってくれていることを嬉しく感じたものでありました。
 翌日、そのイモリを飼育ケースの中に見つけたばらさんが「怪獣の赤ちゃん!」と喜び覗き込んでいる姿に遭遇した僕。恐くて触ることは出来ないものの、それがケースの中であったならばこんな興奮の言葉もこぼれ落ちて来るみたい。今回の雨で急に増えた飼育ケースは、カニ・イモリ・カタツムリと下駄箱の上に所狭しと取り揃えられたのでありました。『命を預かる』と言うことは実に大変なこと。たった一日二日でケースの中はフンだらけ。水も汚れて中一日ぐらいの頻度で掃除してあげなければなんともかわいそうな生活環境になってしまいます。そこでケース掃除を始めたのですが、大型スポイトで汚水を汲み取るこの作業が子ども達は何故かしら大好き。我も我もとこの『いきものがかり』に立候補して来るのでありました。しかしながら道具は3人分しかありません。そこで「かーわって」の『じゅんばんこオーダー』を体験することとなる彼らなのですが、多少のもめごとも経た後で、替わり合い・譲り合いの作法を学びつつ狭いところで肩を寄せ合いながらお世話をしてくれたものでありました。ではあるのですが、自分にスポイトが回って来ても初体験となるばら組のちびっこ達には扱い方が分かりません。昨年の経験者であるももさんが上手にかい出しているのに自分にはそれが出来なくって、段々とイライラフラストレーションがたまって来ます。その挙句、スポイトの先っぽでイモリを突っつき出した男の子に「これこれ、イモリをいじめるんじゃないよ」と浦島太郎ならぬ『新太郎』がお説教。少々涙目になりながらも僕の話を聞き分けてくれた男の子でありました。これまた『幼き心』に小さい命と向き合う時の『自律とモラル』を賜う学びの時となったのでありました。イノセンス(無垢)と自然の命の対峙の構図のその中に、なんと多くの学びがあることでありましょう。『生き物のお世話をする時は優しくね』と言う倫理をイモリで学んだこの男の子。次のかたつむりのお世話ではデンデン達を大事に扱い引越しさせた後、フンまみれのケースを一生懸命タワシで洗ってくれたのでありました。こうした本物の命を介した学びこそが、他の命に対する畏敬の念を育てて行くのです。そしてそこで失敗体験を味わうことによって、自らの行いを省み正してゆくことを学び得てゆくのです。『自然と戯れ遊ぶこと』は、神様の愛し育まれた自然の尊い生命達が命がけで僕らに物事を教え気付かせてくれるための、命についての教えを賜う何より大切なレクチャーなのだと思うのです。そんな豊かな自然に包まれた心の教育環境をこの日土幼稚園に与えて下さった神様に感謝し、その御心を保育の中で体現してゆきたいと願う僕なのです。


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