園庭の石段からみた情景〜園だより7月号より〜 2019.6.21
<幼き魂が僕らに教えてくれること>
 いっとき5月の終りに夏日が訪れ、「今年はどれだけ暑くなるんだろう」と思っていたのが6月に入ってまた涼しくなりました。関東東北にまで追いぬかれ、関西四国地方のみが梅雨入りしないと言う変則気候のおかげさまで、過ごしやすい爽やかな初夏の陽気を思う存分味わったそんなひと月でありました。大きく育った園庭のソメイヨシノの木陰にたたずみ、色水遊びを楽しんだ子ども達。これまたこれまでかつてなかった程の大豊作となった頭上の桜のさくらんぼに手を伸ばしながら、色水遊びの原材料を喜び求めた子ども達でありました。大きく枝葉を茂らせ垂れ下がって来たとは言うものの、子どもの背丈では届かない桜さくらんぼ。先生達にだっこをおねだりしながら、「あっち!」「こっち!」と大喜びで『桜さくらんぼ狩り』を楽しんだ子ども達。よく熟れた桜さくらんぼは見た目もまるでアメリカンチェリーのようで、指に摘んだそばから濃厚なブルーベリー色の果汁を掌に残して行ったものでありました。そんな桜さくらんぼや花壇に咲く花の花殻から抽出した色水達は、絵の具では表現することの出来ない実に多彩で透明感溢れるイロドリの色水ジュースを作り出し、子ども達のままごと遊びに華を添えてくれたのでありました。

 そんな6月のある日、もも・ばらの子ども達が新館横の砂場に一匹のカエルを見つけました。「しんせんせい!」と僕を呼ぶ声に赴けば、大きなニホンアカガエルが砂場にうずくまっています。子ども達が「うごかないの!」と言う通り身じろぎもせずじっとしているアカガエル。動けないままこんな所にいたのではすぐに他の動物に獲られてしまうと思い、掌に救い上げ母屋まで持ち帰った僕なのでありました。捕まったばかりの動物達は興奮状態にあるからなのか中々餌を食べないものなので、その日は飼育ケースに石を入れ水を張りしたその中にそっと置いておきました。翌日ケースを見てみると大きな糞を残しつつ、二回りも小さくダイエットしたカエル君がいるではありませんか。これには思わず笑ってしまいました。動くものに反応して丸呑みしてしまうのがカエルの習性。きっと何かでっかい物を条件反射で飲み込んだ迄は良かったものの、それが余りに大きすぎて動けなくなってしまったのでありましょう。今となっては笑い話ですが、本人は相当苦しかったはず。そんな状態でヘビなどに食べられなくって良かったと思いながら、翌月のひよこクラブで紹介するまでの三週間、幼稚園でお泊りしてもらうことにしたのでありました。
アカガエルはなかなか幼稚園で見ることが出来ず、前回飼ったのはもう何年も昔のこと。その時には最初のうち餌を食べてもらうのに結構苦労をしたのですが、今回のカエル君は食欲旺盛大食漢。ミミズを入れたらすぐさまぱくっと食いついて、「明日お休みだからもう一匹」と追加で入れたミミズにも間髪入れずにかぶりつきます。スマートだったお腹が見る見るうちにポンポコリンになってしまって、「これじゃあ、動けなくなるはずだよなぁ」と大いに納得してしまったものでありました。
 そんな僕とアカガエルの飼育生活が始まりました。すると子ども達がこれまた飼育ケースの周りに集って来ます。そしてあの動きもすごきもしなかったカエルが元気に餌に飛びつき平らげている姿に、ほっとした表情でそのまなざしを送っていたものでありました。そんなこの子達の使命感が「ミミズを捕りにいこう!」と僕をいざないに参ります。くるみの木の下、落ち葉が一年かけて腐葉土になった所が僕らのミミズ牧場。そこに行って新しい土を掘り返したならば、カエル君のお口に程よいミミズがひょいと出て来ます。それをスコップで救い上げ、カエル君の元に馳せ参じる子ども達。それまでうねうね動くミミズに触れなかった男の子が手づかみで捕れるようになった激変を見つめながら、「親心とはなんと力強いものでしょう」と思ったものでありました。そうは言いながら『ミミズを触るとおちんちんが腫れる』と言う言い伝えがあるものですから、その現場を見つける度に「はい、ちゃんと手を洗ってきて!」と声掛けを怠らない僕。自然遊びには大胆さと繊細さ(でも昔からの伝承やセオリーに基づく程度のもので十分で、過度になってはいけません)を持ち合わせながら、向き合うのがよろしいと思うのです。そうやって人間は有史以来自然の中で、自然を友としながら生きて来たのだから。

 このところの『野生の命』との触れ合い体験からでしょうか。すみれ組の子ども達は生き物の死骸を見つける毎に、誰彼ともなく「お墓を作ってあげよう」と言い出してくれるようになりました。ある時彼らが「おはか…」と言っている場面で「どうしたの?」と尋ねたならば、「蝿が死んでいたんです」と真理先生。「子どもってすごいよね」と僕らのファジーさを省みながら、命に対する想いが高まりつつある今のこの姿をまばゆく見つめたものでありました。蝿と言っても一つの命。その命が失われたことに自らの感受性をもって感じ入り発信してくれたこの子達。その想いは大切にしてあげたいと思うのです。一方で、蝿を害虫として自らの手と心を汚しながらも命を取らなくてはならない場面に遭遇したり、ミミズの命をカエルの命をつなぐために取っていることに彼らが気付いたその時に、僕らはちゃんと語るべき言葉を持っているのだろうかとも思ったものです。「今からその覚悟と子ども達へのメッセージを心に準備しておきなさい」と言う宿題を神様から与えられたような気がしたものでありました。何を言っても自己正当化のための取り繕いになってしまうに違いありません。でも出来うる限り神様が創り賜うた全ての命を大切にしたいと言う想いと、しかし僕らが生きてゆく為に『僕らの代わりに失われる命』への哀悼の想いを、子ども達に伝えてゆきたいと思うのです。それが我々人間に『この世界を司ってゆく使命と責任』を課せられた神様の御心だと思うから。


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