園庭の石段からみた情景〜園だより9月号より〜 2019.9.10
<カエルの王子様>
 今年の夏は行ったり来たり。遅れに遅れた梅雨明けがやっとやって来たかと思いきや、かーっと暑くなった8月を迎えて「やっぱり夏は暑くなくっちゃね」と自分に言い聞かせつつ自然の風と山の木陰の冷気とで暑さをしのいでいるうちに立秋を迎え、そして思えばそのころから台風や停滞前線のせいで雨ばっかの晩夏となってゆきました。しかしそのおかげで一番残暑の厳しい頃を涼やかに過ごせたこの夏休み、そのことを神様に感謝しつつ迎えた新学期でありました。
 それが一転9月になると、また暑い夏が子ども達と共に帰って来ました。お天気ベースでありながらにわか雨や夕立等相変わらず雨の多い季節が続き、再び梅雨明け時分の気候となっていたそんな頃、休み明けの子ども達と同じように幼稚園に懐かしの来訪者がやって来たのでありました。ある朝、みんなで掃除をしていた幼稚園に「あ゛ー!」と言う声が響きました。その声のする先へみんなが馳せ参じてみるとそれは美香先生。シューズの中からカエルが出て来たと言うのです。シューズから飛び出したそのカエルを見てみるとそれはニホンアカガエル。「あれ、この間飼ってたやつだ!」と言葉をこぼした僕。確証はありません。しかし今年園内で数年ぶりに見つけたアカガエルが、逃がしてやったこの新館に再び姿を表わしたのです。きっとそうでしょう。「恩返しにきたのかな?」と苦手なはずの美香先生もどこかしらセンチな声でつぶやきます。当のアカガエル君はそんな僕らを気に留めることなくあわてて逃げ出すこともなく、幼稚園の一員のように平然とまったりのんびりしています。もも組の子ども達に拾われて、ひと月ほどのロングバケーションを過ごして行ったこのカエル君。毎日みんながおなか一杯食べさせてくれたミミズの味を思い出したのでしょうか。はたまた僕らを懐かしく思ってくれたのでありましょうか。いずれにしてもこんな嬉しい再会のひとときを僕らにプレゼントして、美香先生の『カエルの王子様』はゆっくり杜の奥に帰って行ったのでありました。

 またある日のこと、自由遊びにお外に飛び出した子ども達が「しんせんせい!」と僕を呼ぶ声が聞こえて来ました。三輪車をしまっておく車庫のブルーシートに何かいると言うのです。またまたそこに馳せ参じてみたならば、そこにはでっかい褐色のキリギリス。キリギリスの仲間は似ているものが沢山ありまして、いつも特定に難を極めます。しかも見たことのない程の大物でしたので「これはただのキリギリスじゃないなぁ」と言う直感も。そこで「自分で調べてごらん」と言って子ども達に昆虫図鑑を持って来てもらったのですが、ついつい彼らを差し置いて我先にページをめくり始めた僕。「あ、これ!」と言うのを見つけました。クツワムシ。童謡『虫の声』にも歌われているよく耳にしたことのある名前なのですが、本物を見るのは僕も初めて。しかもこんなにデカイと思いませんでした。図鑑には4〜4.5cmとあったのですがそいつは6cm程もあったかもしれません。「へー、これがクツワムシ」と知的欲求を満たした後、ページを戻して子ども達に「キリギリスの仲間ってところをさがしてごらん」ってミッションを与えます。自分で見つけ出して初めて、この知識が自らのものになるのです。近くのページまで誘導した後、そこから自分達でこの虫を探し始めた子ども達。しばらく熱を入れて図鑑との照合を試みていたので、僕はその場を離れて他の子ども達の遊びを見に行きました。ふとさっきの彼らの方を見てみると今しがたまで図鑑の周りにいた子ども達が誰もいなくなっておりました。そこで彼らを捜して「分かったの?」と尋ねると「分からんかった」との答え。じゃあと言うことで図鑑を示し「これじゃなかった?」と尋ねると、「こんなしっぽなかった」と男の子。そう、写真のクツワムシはメスで長い産卵管を持ったものだったのです。ちゃんと図鑑の写真を見るところまで行ったのに、たったこれだけのことで正解に辿り着くことの出来なかった子ども達。でもこれが現代人と言うものなのでしょう。部分や部位の照合・検索能力は秀でているのに、それが過ぎるがゆえに全体の大局を見極められないのです。「しっぽがないのもいるんだよ」「みんなちょっとずつ違う所もあるんだよ」と言うことを日頃からもっと彼らに対して発信してゆかなければいけないんだなと、そう思ったものでした。
 そう、一昔流行った言葉『ファジー』が指したような、あいまいな物事をその不確定な揺らぎ成分を含めて受け入れ判断する力が今の僕達には欠けているのかも知れません。時代が・社会が画一化を推し進め、効率を追い求める国を作り上げて来た現代において、そこから外れたものは仲間と認知されない、そんなゆとりと余裕のない今を僕らは生きているのです。異形の者に恐怖や嫌悪感を感じるのが人間の本能。人が虫や動物を怖がるのもそこから来ているものでしょう。しかし『神様がご自身の愛をもって全ての命を等しく尊いものとして創ってくださったのだから、僕らも互いに愛し合いましょう』と言う想いを自分自身の中に育ててゆくことが出来たなら、人は差別やいじめと言う『人間としての本性』を乗り越えてすべての人や命と共に生きてゆくことが出来るようになるのだと思うのです。そう、それはとても難しいこと。でも毎日祈り聖句を唱え讃美の歌を捧げつつ、そのことの大切さを繰り返し繰り返し自分に・そして子ども達に対して投げかけてゆくことそれこそが、子ども達の心を育てるため・そんな社会を作ってゆく為に大切なことなのだと思うのです。で、まず自然保育。自然と戯れながら、一つ一つの命を尊びながらそれらと関わり保育を行うことそれこそが、日土幼稚園で行なえる日土幼稚園らしいキリスト教保育だと思うのです。そんな保育によって今はヤダヤダ言っているもも組のカエル君達も、愛の尊さを理解出来る素敵な王子様になって帰って来てくれる日がきっと来るだろうと、そんな想いで彼らを見つめた夏の終りでありました。


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