園庭の石段からみた情景〜園だより1月号より〜 2021.1.22
<丘の上から見渡せば>
 新しい年が明けました。昨年の『コロナ禍』を象徴するように大晦日の正にその日、当時としては桁違いの最高感染者数を記録してその年を終えた2020年。「これだけ言っているのにまだ分からないの!」と言う誰かの怒りや憤りの声のようにも聞こえたものでありました。それはがんばってもがんばっても更なるリスクと対応を強いられている医療従事者の心の声か、はたまた衝撃をはらんだインフォメーションにしか心が動かなくなってしまった現代人への神様からのメッセージなのか。そう思ったのもつかの間、年を明けたら更に感染者数が倍増し、その数的感覚が麻痺してゆく自分がいるのも感じたものでありました。そんな中でも心のうちでは「東京、何やってんの?」って想いがあったのかもしれません。自分とは遠い世界の出来事として。しかし幼稚園が始まる頃になって『市中・また近隣市において感染者が多発』との情報が発表され、僕らの受け止め方も一変します。現実問題としてこのことを受け止めるステージに入って来たことを感じた瞬間でありました。
 今回のことはクリスマス以降の気分の高揚と油断に加え、年末年始の人の移動が引き金となったことは確かでしょう。『幼稚園を止めないために』と皆さんにも色々な制約と自粛をお願いして守って来た平和だったのに、「なんで都会の人達はそれが守れないの?」と言う想いも一瞬心に湧き上がります。でも逆に冷静になって考えてみれば、『僕らが守って来た約束や一緒にしようとして来たことは正しかった』と言う確証が『こんな形』で与えられたんだとそんな想いにもなりました。あそこで僕らもタガを緩めていたなら、実は自分達がクラスター源になっていたかもしれないのです。そう言う意味で神様はまた『世間との対比』をもって、僕らにこのコロナ禍の中をどう生きてゆくべきかを教えてくださったように思うのです。不安な想いを打ち消すために群れてバカ騒ぎをする若者達・『したいし出来るけどやらない』と言うやせ我慢のセルフコントロールが出来ない都会人・経済第一主義政策によって舵切りが遅れた政府内閣、それらのせいにしたくなるのが人情です。でもそれらも含めて・それらを踏まえて、『行動』を決めるのは個人個人の『自分自身』。そんな気付きを与えられ、早くからセルフコントロールを実践して来られた僕達は、本当に幸せだったと思うのです。そしてその気付きと判断を与えてくださった神様に、改めて感謝したいと思ったものでありました。
 そんな訳で始まった僕らの新学期、更なる行事の自粛をしながらも、子ども達の日常と保育には差しさわりのない毎日を送ることが出来ています。子ども達にとって今はそれが何より。エミフルやゲームセンターに遊びに行けなくても、毎日幼稚園の野山・園庭で駆け回る時間と空間をたっぷり味わうことが出来たなら、各段に『自粛』の受け止め方も違って来ます。毎日目をキラキラさせて自然の中で遊ぶこの子達を見ていると、「この時代、うちの子達が一番幸せだよね」と思ってしまう手前味噌。いつもは「古い小さい幼稚園でごめんね」「友達もっと一杯の方が嬉しいよね」と心の中でこの子達・そしてお母さん達にお詫びしている僕なのですが、今年ばかりは「うちの子でよかったね」と思ってしまったりもしてしまいます。それぞれの園にはそれぞれに与えられた賜物・そして特色があり、それが子ども達の保育にも寄与しています。ないもの・足りない物も多分にあるのですが、僕らはそれぞれに神様から与えられた賜物を存分に生かしながら、今年も日土幼稚園ならではの保育を子ども達に投げかけてゆきたいと思うのです。

 冬休みの間は『ヤギ牧場』近隣での採餌が多かったヤギ子ちゃん達。おかげで牧場内・そしてその周りの草達はすっかりすってんてんになってしまいました。冬場の下草が少なくなって来た季節にも関わらず、ひげのおじちゃんを始め色んな人が彼女達を気にかけて餌をせっせと運んでくれたものだから、益々体が大きくなっている子ヤギ達。『大きくなる』とは背丈も伸びて上に向かって成長して行くイメージがあるのですがこのヤギ達はちょっと違うよう。ある日、ひなたに佇む彼女達を見ていた時、「この子達、こんなに足が短かったっけ?」とふと思った僕。ついこの間まではすらーっとした足を見つめながら「こんな立ち姿を見て、誉め言葉としての『カモシカのような足』って言葉が生まれたんだろうね。毛深いのは置いといて…」なんて思ったもの。そんな彼女達が食べ過ぎた時にはおなかが横に張って大きくパンパンになったものだったのですが、相変わらずスラーっとした美しいおみ足は健在でした。それが『パンパンおなか』が恒常化して来たせいでしょうか。はたまた大人になるにつれて体形が変わって来たと言うことでしょうか。最近ではおなかが下に向かって大きくなって来たようで、それとのトレードオフで足が短く見えるようになったみたい。これは面白い発見でした。でも彼女達、ただの『ふとっちょちゃん』ではありません。あの体をして相変わらず自分の身の丈を超えるほどの高さまでジャンプしてみせるのだから、その身体能力は本当にたいしたものなのです。
 また知恵の方もついて来たヤギ達。冬休みの間、ハートちゃんが度々牧場から逃げ出し柵の外を徘徊している姿が見られました。どこをどう見渡しても柵に穴が開いている様子はありません。「どこからぬけだしたのかな?」と分からぬままに、彼女の逃亡劇は繰り返されたものでした。柵から出ても牧場の周りの草を食む程度で、遠くに逃げ出して行ったりはしないのですが、うろうろしているところを野犬に襲われてもいけないので彼女の動向を注意深く見つめたものでありました。そしてある日、その逃亡現場をやっと見つけたのです。それは牧場奥の角っこのフェンス。格子状のフェンスが直角に交わり組み合わさったその場所です。下は地面に打ち付けられており、その上は双方を針金で固定し合うと言う構造で作られています。その上の針金が劣化のためにちぎれてなくなっていたのです。それでどうなるかと言いますと、その角っこにヤギが体を預け体重をかけると、地中に埋まっている下の部分が支点となって上が開いてゆくのです。その隙間から悠々と外に出るハートちゃん。更に面白いことに彼女が通過した後は、柵をたわませていたヤギによる外力が除荷され、また下の部分を支点に柵が元のように閉じるのです。まさしく自動ドア。これには驚かされるのと共に、大笑いしてしまいました。更にすごいのがこのハートちゃん、『そこが開く』ことを学習し、繰り返し繰り返しそこから逃げ出していたのです。その賢さには感服してしまいました。なら相棒のさくらチョコちゃんも同様に逃げ出せるのではないかと思うのですが、ビビりの彼女は柵から悠々と出て行くハートちゃんをしっかり目で追いながらも決して出てゆこうとはいたしません。双子の彼女達ですが、それぞれに性格が違いそれぞれの成長を見せてくれているそのさまに、『一人一人が違う・そして違うからこそかけがえのない大切な命』であることを改めて教えられたような気がします。今月の聖句『イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された』の御言葉のごとく、ヤギ達・そして子ども達もこの一年の成長を感じる季節に入って来たことを実感している今日この頃です。

 さあ、そんなヤギと子ども達との新学期初顔合わせ。冬休みの間にどんぐりの木のはっぱがみな落ちて、枯れ葉のじゅうたんが敷き詰められた丘の上にヤギ達を連れて来た僕。青草が少なくなったこの季節、枯れ葉をパリパリムシャムシャとポテトチップスのようにおいしそうに食べるヤギを見ていて、「ここは良い餌場だぞ」と連れて来ました。滑り台の上の丘に餌を食むヤギを園庭から見つけた子ども達。「ヤギ見に行きたい!」と眞美先生におねだりをして、早速丘の上にみんなで登ってゆきました。園庭から見上げた時にはあのかわいかった子ヤギのイメージが心の中にリフレインしていたのでしょう。喜んで行ってみたまでは良かったのですが、久方ぶりに近くで見てみるとえらくでっかくなっているヤギ達にちょっとビビり気味のたんぽぽさん。「こわい!」なんて眞美先生にしがみつき抱っこされている姿を見ていると、「一年前の春先は、こんな感じだったよね」と懐かしく思い出します。でもヤギもそうですがこの子達もまた大きくなっているのですから、抱っこしている先生が一番大変だったかもしれません。そうは言ってもこの一年の成長は決して伊達はありません。段々とヤギとの心と身体の距離を縮め、「あ、大丈夫じゃん」って想いが戻って来たなら、また親しげに関わり触れ合い始めたこの子達でありました。
 そんな子ども達に合流して来たひげのおじちゃん。どこからか採って来てくれたノゲシをヤギに与えながらおいしそうに食べるその姿を子ども達と一緒に見守ります。『冬場のヤギの主食は干し草となることが多い』とネットには書かれているのですが、おかげさまでうちでは広い敷地に生え始めた春の草が彼女達のおなかと心を満たしています。それは菜の花だったりノゲシだったりと、夏場程ではないのですが大地を緑で覆う草がまた生えて来て、枯れ葉一辺倒となりがちな食生活をバランスよく支えてくれています。ただこの菜の花が欲しいのは子ども達も一緒。毎年この時期、お散歩に出て行っては握った掌で菜の花の束を結わえつつ、ご機嫌顔で帰って来る子ども達。例年卒園式に臨む頃にはこの丘が一面の菜の花畑に装いを変えるのですが、今年はヤギに子ども達の花摘みに「菜の花畑、なくなりはしないでしょうか?」との不安も。でもでも毎年子ども達が採っても採ってもなくならなかった自然の生命力は、きっと今年も僕らの想いを満たしてくれるでありましょう。

 ひとしきりヤギとの『戯れタイム』を満喫した子ども達。手すりの所から眼下に広がる園庭を見渡せば、そこには仲間達や先生の姿。「おーい!」「やっほー!」と声を掛ける子ども達とその声に応える下の仲間達。こんな高低差を介したやり取りが彼らの冒険気分をあおります。丘の上から豆粒ほどに小さく見える仲間に向けて「おーい!」と声と想いを投げかけたなら、気分は『思えば遠くに来たもんだ』。こうした『遠くにいるのにそこに見える』『声と視認で互いに存在を確認し合える』と言うこんなスペシャルなコミュニケーションは、お互いの存在をリスペクトし合える素敵な関わり合いと感じるのでありましょう。だからこんなリモートの「おーい!」「おーい!」のエールを交わしたその後に、下に降りて再び間近に顔を合わせた時の感慨は、僕らが思うより何倍も何倍も大きいよう。それはまるで生き別れた肉親に再会した時のように、はたまた何年かぶりに不意に巡り逢えた旧知の友を迎えるように、喜び合っている子ども達なのでありました。
 でもこれらは無作為の中で整えられた『神様の賜物』によるものだと思うのです。去年はこの裏山の手すりを全部鉄パイプにやり替えて、子ども達が安心して丘に上がれるようになりました。すり減りガサガサになってしまった滑り台も磨き直してもらって、つるつるピカピカになりました。そして滑り台下の崖崩れを期に、斜面の石積みをやり直し、子ども達が安全に『山遊び』を出来る環境作りもなされました。これらはトータルコーディネートによるものではなく、一つ一つがその都度生じた不具合に対する単独補修。でもこうして見てみたなら日土幼稚園の『自然保育』を生かすためにお互いに寄与し合う環境整備となりまして、『園外に出かけて行ってのお楽しみ』を自制する状況の世の中にあって、自園の保育環境パフォーマンスをより高めるものとなったように思うのです。勿論僕にはそんな先を見通せるセンスも経営能力もありませんから、これらは全て神様の御心。「いついかなる時にも日土幼稚園らしい保育をしなさい」と言う神様の御心に基づくものであり、僕らの願いを具現化するための御霊のわざだったと思うのです。そしてそれに僕らが気付くためのこの『コロナ禍』だったのかもしれないと、そう思ったものでありました。


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