園庭の石段からみた情景〜園だより12月号より〜 2020.12.1
<今の僕らに出来得る限りの献げ物>
 朝晩の冷え込みに身を震わせながらも、昼間は温かい秋の陽射しに照らされて、心地良い気候の中で気持ち良く体を動かして遊んだ11月。そんな中で季節は巡りゆき、留鳥のモズは「キチキチキチ!」と盛んに高鳴きを繰り返すようになりました。冬鳥のジョウビタキも『火焚き』の由縁なる「ヒー!ヒー!」と言う鳴き声と共に今年も渡って来ています。そんな『冬の声』を聴きながら、自然が織りなす冬仕度にこの国の四季の移ろいを感じ、例年と同じように僕らの住む里に次なる季節が確かに巡り来てくれたことに感謝したものでありました。人間社会では『例年通り』がことごとく『自粛』となったコロナ禍の渦中にあって、神様の創られた自然と巡りゆく季節だけはいつも通り確かに繰り返されてゆくのです。また急に寒くなったその後の『より戻し』で暖かな日々が続いたせいでありましょうか。今年は幼稚園に渡り鳥のアトリが群れでやって来たり、遊びに行った公園でエゾビタキを見かけたりしたものです。そう言ってもこの感動を共有してもらうのはなかなかもって難しい。ホオジロもモズもちょっと茶色いなりをしていただけで「スズメ!」と言われてしまうのが世間一般の野鳥認識。日本には五百種類以上の野鳥がおり、その一つ一つにちゃんと名前が付けられているのですが、その一つを見たと言って喜んでいるのはこの辺では僕ぐらいのものかもしれません。そんな僕でも普段はなかなか見ることの出来ないこの小鳥達。北の国からやって来る『渡り』の途中で、彼らにとっての『ちょうど心地良い気候』がこの辺にあったのでしょう。例年ならすぐさま頭上を通り過ぎて行ってしまうであろう彼らがゆったりこの地で過ごして行ってくれたおかげで、こうして稀なる出会いを与えられたのです。こんな不安不穏な時代にあって、『例年通り』がもたらせてくれる安心感と、『いつもと違ううつろい』が運んで来てくれた嬉しい出会いを与えられた今年の秋。聖書にもあるように『種も蒔かず刈り入れもしない』なんの役にも立たないような鳥達でありますが、彼らは僕らに安らぎと勇気と希望を与えてくれる『翼を持つ天の使い・天使』だったのかなと思ったものでありました。そしてそんな何気ないものから幸せを感じることの出来る心を与えられた僕は、実は稀有な『幸せ者』なのかもしれません。
 デジタルを世の中の核に据えつつある今の時代、僕達の価値観も0or1の『あるかないか』『良いか悪いか』に偏向してしまいがちな気がします。冬鳥が来たところで何の足しにもならないし、珍しい鳥を見たところで1円の稼ぎにもなりません。でもその神様が与えてくださった出会いの中に生まれる『ゼロとイチの間に無限に広がるエモーション』が僕らの心を豊かにしてくれるのです。そこには「鳥がいない・いる」の『ゼロ・イチ』だけではない、自分の中に培って来た記憶や思い出・そしてその時々の想いとも素敵に融合し、それぞれの心の中で30倍・60倍・そして100倍にも豊かな実を結ぶのです。自然は『体験と知』をリアルをもって与えてくれる素晴らしいテキスト。だから僕は「あれはモズ。秋になるとキチキチって高鳴きして、『ハヤニエ』と言って虫やカエルを木の枝に刺して取っておくんだよ」と留まり木の上で鳴く鳥を指さしながら子ども達に小さな種を蒔くのです。その心に蒔かれた数えきれないほどの小さな種は、いつかその子の中で芽を出して大きく確かなものとなって行ってくれることを信じながら。大人になってモズの高鳴きを聞いた時、この子達は僕との記憶を思い出してくれるでありましょうか。いつまでもこのかけがえのない自然を大切にしてゆこうと思ってくれるでありましょうか。この小さな命達を愛しんでくれるでありましょうか。そのことが子ども達の想いと人生を豊かに織りなすものとなってくれることを信じ祈る僕なのです。

 今年もアドベント週間に入り、子ども達の日常の中にページェントの歌やセリフの声が聞こえて来るようになりました。今年は『12人のすみれ・みんなが主役』と言うコンセプトで『それを体現するために』を具現化するべく大幅に台本に手を入れて挑んだ聖劇。「ページェントではどの役も大切な役。どれが良い役でどれが悪い役なんてありません」と言うことを子ども達に・そして先生やお母さん達にも訴え続けて来た幼稚園。しかし留まるところを知らぬ少子化や『教育より保育』の時流を受けた園児数減少の流れを変えることの出来ない日土幼稚園において、今まで通りの台本では『どの役も大切な役』を分かりやすく体現するのが難しいと感じるようになりました。どうしても少ない人数の中で比較をされてしまうため、その役にどんなに大切な役割があったとしても、ふと「なんで?」と言う想いに苛まれてしまうと言うのです。みんな大事だと頭では分かっている。でもそれがなんで『うちの子なのか?』と。ネットが進化し、情報化が進んだ現代において、昔と比べて一番普遍化したのは『比較する』と言う行為でしょう。『どこのお店が一番安い』『誰が一番の人気者』『どれが一番良さそうか』等など、『検索』で簡単に比較検証を重ねては『自分の一番』を他者の情報から評価し選んでいるのです。そう言った感覚で聖劇を見たならなば、やっぱり良い役は『セリフが多く、唯一無二の存在』と言うことになるのでしょう。『その他大勢ではない』と言う自己肯定感を得るためには『一人で歌う』『一人でセリフを語る』と言うことが分かりやすい『必須アイコン』であるようです。これまで僕らは清水佐和子先生が作り残してくれたこの『日土幼稚園の聖劇』を大事にしたい想いから、同じ台本をずっと踏襲して来ました。昔の演劇は主役集約型の演出であり、どうしても主人公に重心が置かれる台本作りが成されています。劇が得意な子は聖劇や発表会で、運動が得意な子は運動会で、冒険が大好きな子はお泊り保育で等々、昔はそれぞれの場においてその子の得意とするものをリスペクトし自己実現させてあげようと、年間行事を通して『活躍の場』をお膳立てしてあげるカリキュラムを立てて子ども達の想いを促して来ました。しかし今は「どの場においても我が子の良い姿を見たい」と言う声が強くなり、『どの役も同じように大事』と言うのを体現するのであれば、『偏りを平らかにする演出』の方が分かりやすくて良いと言われるようになって来ました。なので「そこから変えてゆかなければいけないのかな」と今回改めて思った僕でありました。
 そうは言っても台本を直す際には、必ず聖書と照らし合わせながらその裏付けをもって変えてゆくのが僕らの使命。それが神様の御心に対する真摯な態度であり、「神様が大好き!」だった佐和子先生をリスペクトすることになるとも思いました。なので『マリヤの在り方』についてもう一度聖書を読み解き、劇上の彼女の所作にも反映しました。聖書には天使ガブリエルによって受胎告知を受けたマリヤが『それを受け入れたこと』のみが記されています。ですから彼女はとても受動的な女性だったのだと思うのです。それがカトリックの『マリヤ崇拝信仰』の影響と、またこれを演じるお年頃の子ども達の『シャンとした女子』『頼りない男子』と言う成長の分化の差から、『しっかりさんのマリヤ像』と言うものが定着してしまったのでありましょう。そんなイメージを払拭するために、これは去年からでありますが『宿屋探しの幕』ではヨセフさんにリーダーシップを取ってもらうようにとセリフとの配分などを改めました。そうは言ってもマリヤは賢い女性です。ヨセフにつき従いながらも、本当の所で上手に彼を導いているのは彼女の方。なのでマリヤさんには「ヨセフさんががんばれるようにそっと支えてあげてね。怒らせないようにね」なんてアドバイスも送ったものでありました。実際、今年のマリヤさんは上手にヨセフさんのことを公私に渡って導いてくれました。気の強い子がマリヤだったなら「○○くーん!いけんよー!」なんて言って(彼にそう言われる非があることも多いのですが)、舞台に上がる前の日常で破局を迎えていたかもしれません。配役については子ども達の想いを尊重しながら決めたものだったのですが、このカップルが誕生したことは本当に神様の御心だったように思うのです。気の強すぎるマリヤでもここではうまく行かないし、確固たる自分を表現出来ないマリヤでもヨセフに振り回されて訳が分からなくなっちゃったでありましょうから。と言うことで今年は『困難に立ち向かおうとする勇敢なヨセフ』と『彼を支える賢く優しい素敵なマリヤ』と言うベストカップルが生まれたと嬉しく思ったものでありました。

 さて今回一番大きく変わったところは『天使の幕』でした。マリヤに受胎告知を告げたのはルカ書に『天使ガブリエル』と記されていますが、羊飼いの幕では『主の天使が近づき…』とのみ記されています。そして羊飼いに『イエスの誕生を告げた』その後、『この天使に天の大軍が加わり…』と書かれています。つまり羊飼いにお告げを知らせたのは天使ガブリエル(一番天使)だとは書かれていないのです。また僕らがいつも『天使の軍勢がこの喜びを告げ知らせた』と表現していたこの情景についても、『(軍勢は)あとからこの天使に加わった』と書かれています。そこで『羊飼いの幕』に登場し御言葉を告げる天使達は、一番天使をリーダーとする『天使の軍勢』ではなく、『別の二人の天使』と言う構図に改めました。これは元々は真理先生の提案で、「天使と言えば一番天使が一番偉いと言うイメージを変えたくて…」と言う彼女の想いから出された相談でありました。しかしこれまで続けて来たストーリーを何の根拠もなく変えることは出来ません。そこでもう一度みんなで聖書を読み直し、このような解釈の上で台本を変えることに了承したのでありました。
 ここでのもうひとつの課題は『歌のソロ』。佐和子先生が作った台本ではここに天使の歌はありません。そこで着目したのが、天使が登場する際にBGMで流れる讃美歌『荒野の果てに』。せっかくここでこの讃美歌が流れているのだから、この子達に歌ってもらおうと提案した僕。しかし『荒野の果てに』は難しい言い回しの大人の讃美歌です。そこで舞台用に意訳した歌詞を僕が書き、その『Aメロ』を一人ずつ歌ってもらうことになりました。二人がそれぞれ1番・2番のAメロを歌い終え、そこからサビの「グローリア!」を合わせて歌いながら舞台の左手へと飛んでゆくと言う今回の演出。「これが決まればかっこいいぞ!」と思いつつ挑めば、予想外の所に落とし穴。讃美歌としてこの『荒野の果てに』の伴奏を長年弾き続けて来た潤子先生が、讃美歌と同じように1番のAメロを弾いた後すぐさま『グロリア』のサビに入ってしまうのです。長年の習慣と言うのは怖いもので、何度やっても「グローリア!」に行ってしまいます。そんな伴奏に戸惑いながらも二人の天使はこの新たな歌をしっかり覚え、この幕を見事にやり遂げてくれたのでありました。

 今年の聖劇改変、すみれさんだけに影響を与えるものではありませんでした。美香先生がももの子ども達に「ももさんは星と宿屋をお願いされました。みんな頑張れる?」と尋ねたなら「うん!」と二つ返事で答えた子ども達。そこで全体を通して今年の聖劇をさらい始めたもも組さん。ももの出番以外も通しておさらいをした子ども達にとって、去年はなかったこの『グロリア』がとても新鮮だったのでしょう。女の子達はこの『荒野の果てに』を偉く気に入ってくれたようで、ご機嫌に歌ってくれています。ただし歌詞の方は適当で『荒野の果てに、夕日は落ちて』の所を「夕日は沈み…」なんてどこで覚えたのかそんな文学的な言い回しで誇らしげに歌っています。そんな姿に笑っちゃいながら、でも『みんなの聖劇』を体現してくれていることに嬉しくなってしまいました。まあ、しっかりさんでありながらどこか『雰囲気で適当』にやってのけるもも女子のことですから驚きはせず、「いいね!」と思っていたのですが、本当のびっくりはこの後からやって来たのでありました。
 お預かりの時のことです。僕に背中を向けながら遊んでいたももの男の子。この子の方から鼻歌交じりの『グロリア』が聞こえて来るではありませんか。傍にももの女の子もいたのですが、確かにこの男の子の方からその歌声は聞こえて来ます。「歌っているの、○○君?」と尋ねると振り向きざまに「うん!」と答える男の子。これには本当にびっくりしてしまいました。ばらの頃からダンスや歌など人前で何かをやるのがちょっと苦手で、その場に立たされるといつも涙目になっていたこの男の子。そんな彼が遊びながら気持ちよさそうに「グローオオオオオー」なんて小さな声で歌っているのです。「へー、すごいじゃん!」と大いに感動してしまいました。更に事は続きます。別の日の外遊びで、『カニマンホール』にしゃがみこんでいたこれまた別のももの男の子。竿の先に紐付きの缶詰缶をぶら下げて『カニ釣り』に興じておりました。僕が覗き込むと「釣れないねぇ」なんて笑っていた彼がおもむろに「オオオオオー」なんて口ずさみ出したではありませんか。歌詞は女の子達程鮮明ではありませんが、旋律は確かに『グロリア』を刻んでいます。「君も歌ってるの?」と尋ねると嬉しそうに「うん!」と答えた男の子。只今、もも組で『グロリア・フィーバー』が始まっているその様を嬉しく見つめた僕でありました。ここにもアドベントの喜びが確かに満ち溢れておりました。

 さてさて、もう一つの大改編は『星の幕』。ここにソロパートを作るべく案出しをしているところで、長年の懸案であった『星と博士の歌』について思いが行きました。この歌、『てにをは』の概念など全く分からぬ幼稚園の子ども達にとっては相当難しい。1番2番で「どこから来たの?」が「どこまで行くの?」変わるこの歌は、毎年子ども達にとっての最難関。きっと意味も分からず最後はがむしゃらに覚えて歌っていたであろういわくつきの歌でありました。博士の歌はまた次の幕でもありますし、「ここは歌を変えてもいいのでは?」と思い星の歌を探したところ、去年からクリスマスの讃美歌に取り入れた『お星が光る』があるではありませんか。それを二人のすみれ星がソロで1番2番と一人で歌い、最後の3番をもも星の二人を加えた四人で斉唱すると言う台本を書きました。こうして偏重気味であった博士の負担も減らすことも出来、全体的にもバランスの取れた新聖劇になってゆきました。
 しかし大変だったのがこのすみれ星。みんなでの「私達についていらっしゃい!」しかセリフがないと言うことで、真理先生はこの子達にナレーターの役を与えました。5幕あるうちの4つを一人2つずつ、このすみれ星の子に託したのです。これが思った以上に大変でありました。「簡単だと思って星にしたのに」と言う女の子の想いを他所に、突如一番セリフの多い二人になってしまったのです。20年近くも毎年聞いている僕が覚えていないこのナレーション(これは僕の記憶力のなさによるものではあるのですが)、いきなりこの大役をしかも『2パートずつ』と言うボリュームで担うことになったこの子達の心中はいかに。初日のセリフ合わせでは言葉が出ずに涙したこともありました。休み明け、再び舞台に立った彼女達は、驚くほどの上達ぶりで覚えて来たセリフを披露してくれたのでありました。本当にこの子達は偉かった。僕らが逆に作ってしまったアンバランスを自らの努力で埋め合わせてくれたのです。この子達には本当に感謝しかありません。

 僕らがこの子達に課したミッションは荷が重過ぎるものだったのかもしれません。『人間の決めた一つの定義』に即してゆこうとすると、そう言うことが起こります。ひとつの縛りで規則を当てはめてゆくことは、ともすれば一人一人の想いや実状に寄り添えないことにもつながります。そしてそれを「一歩も譲れない」と相手を否定することを『原理主義』と言います。原理主義は昔からあらゆるものの中に存在しますが、言ってみればこれは『デジタル』です。『そうか・そうでないか』『出来るか・出来ないか』『許すか・許さないか』。ユダヤの時代の律法学者も自分達の作った律法・自分達が受け継いで来た規則を『原理』とし、そこから外れるものをことごとく糾弾し排除しました。そこにあの羊飼い達もいたのです。『律法に従い信仰生活を守らない羊飼いは神に救われるに値しない者』『正しく律法を守っている自分達こそが神に救われるのに値する尊い者だ』、そう言うロジックで弱者をさげすみ、自らの存在感を高め既得権益を守ろうとした彼ら。神様は「そうではない。私の望むことは全世界の民全てに救いの手を差し伸べることだ」と言ってイエス様を私達にお与えになりました。イエス様はこのように虐げられている貧しき民に寄り添い導かれ、そのために律法学者達と事あるごとに対立しました。『出来ないことを責めるのではなく、悔い改めようとする心を尊ばれる神の子』、それがイエス様です。『人々が自律するための手引きとして編まれたのが律法であり、それは大切にされるべきものである』、そのことはイエス様も肯定しています。しかしそれに支配されること、特に後付けの理屈で立法府が自らを優位に立たせるために作った定めが世の民を支配することついては疑問を呈しています。人が定めた取り決めです。間違いも時代にそぐわないことも必ずあります。そこはひとつひとつ省みながら救いと赦しを旨としつつ、より良いものにしてゆかなければならないはず。そう言う意味では今回の聖劇台本の改変は、いろんなドラマへと派生して、またそこから僕らに新たな気付きを与えてくれるものとなりました。神様は私達のとるに足りない考えを、ご自身の御心を実現するために用いてくださいます。そのことに感謝をしながら、この素敵に編まれた今年の聖劇を、演じる子ども達と共に喜んでいただけたなら嬉しいことと思うのです。いつか縛りや規則など何もなくても、みんながそれぞれを認め合いリスペクト出来る『至高の聖劇』を持ってクリスマスをお祝いすることを夢見つつ、今年のこの聖劇を日土幼稚園の歴史の一ページとしてここに刻みたいと思うのです。今の僕らに出来得る限りの、神様への尊い『献げ物』として。


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