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<春先の小路を歩いてゆけば> 2月に入りまして、寒さもだいぶ和らいで参りました。昨シーズンは暖冬と言われ、幼稚園の梅の木も早くから花をつけていたのですが、今年はまだそんなそぶりも見せません(執筆時の情景)。やはり今年の冬が寒かったことは、自然が僕らに教えてくれています。しかし一方で寒桜が緑のはっぱを茂らせて、最初の一輪をほころばせては春の訪れを告げようとしています。終わらない冬はなく、明けない夜はない。そのことを信じ・つつましく生きていればこそ、少しの春の気配が僕らの心と想いを温めてくれるのでしょう。「足りない、足りない」と言ってばかりでは決して気付けないのが幸せと言うもの。与えられたものの中に『満たされる想い』を探し見つけ出し、その気付きによって手にすることが出来るのが本当の幸せと言うものなのかもしれません。 今年は野鳥の当たり年。昨年末に渡って来たアトリの一行はまだこの日土の里に留まって、その愛らしい姿を見せてくれています。更に今月に入って、新たな渡り鳥の一団を見かけました。その名はヒレンジャク。冠羽のそそり立ったかわいらしい冬鳥で、尻尾の先に赤いラインが入っている小鳥です。その仲間で尻尾のラインが黄色いものもいるのですが、そちらはキレンジャク。ヒレンジャクの『ヒ』は緋色(鮮やかな赤の意)、キレンジャクの『キ』は黄色を指すものと思われます。色によってヒレンジャクだのキレンジャクだの言うので僕などは戦隊物の『〇〇レンジャー』を連想して思わず笑ってしまいます。しかしあまたいる野鳥の中からこの種を識別する見分け方・覚え方としてはとても理にかなっていると思うのです。このレンジャクと言う呼び名も『連雀』と書き、『群がるスズメ』と言う意味なのだそう。確かにかつて冬の終りに何度かこの日土の里で彼らを見かけたことがあるのですが、その時にもおおむね群れでした。それがキレンジャク群の時・ヒレンジャク群の時・更に混合群の時と様々であることを見ても、純粋種にこだわるより『群でいること』が彼らにとって重要となっているよう。確かに海を渡っての大移動をするのに、一羽でいたならすぐに猛禽類に襲われて捕られてしまうかもしれません。今回、そんなヒレンジャクの十羽ほどの小さな群れが、小春日和の陽射しを受けながら幼稚園門外の桜の木に停まっていたのです。しかもそこには青々と茂った『ヤドリギ』がついていて、彼らの『止まり木』となっていました。ヤドリギとは桜などの樹木に寄生する植物です。ヤドリギの実を食べた小鳥達は、ヤドリギの戦略により種を含んだ粘度の高い糞をします。その際、それが鳥の停まった木の枝に張り付いてその上で発芽します。芽を出したヤドリギは親木から養分をもらいながら大きく育ってゆくのです。ヤドリギは宿主を枯らすこともあり嫌われることが多いのですが、ここでは今のところ共存共栄しているよう。ヤドリギとしても養分を桜からせしめ過ぎれば木が枯れてしまって元も子もなくなります。その辺のバランスは僕らよりも自然の中で相手に依り頼みながら生きる彼らの方が、勝手をよくよく分かっているのかもしれません。自然から恵みを得ながらも、自然を食い尽くさず生を分かち合うその生き方。自然や地球の資源を頼りにこの地球上で生きている僕らの、お手本となるべき存在なのかもしれません。そのヤドリギが冬になると果実を着け、その実を食べようとこのレンジャクが集まって来るのだとか。と言うことはここに育ったヤドリギも、昔渡って来たレンジャクによって運ばれて来たものなのでしょう。10年ほど昔、農家をされている在園児のお母さんに「ヤドリギは木を枯らすから、のかした方がいいですよ」と教えてもらったのですが、いかんせんあんな高い木の上のものですから、何とも出来ずにそのままになったままでありました。でもそのおかげでまたこのヒレンジャクがその実を食べにやって来て、愛らしい姿を僕と子ども達に見せてくれたのです。なのでそれはそれで良かったのかも知れません。団塊状の緑のもじゃもじゃの中を出たり入ったりするヒレンジャクを見つめ、「小鳥のおうちみたい」とつぶやいた子がありました。緑のおうちに出たり入ったり・行ったり来たり、TVやDVDでは見られる光景でありますが実物を自分の目で見る機会はなかなかあるものではありません。手が届きそうで届かないところを飛び交う小鳥達の舞いを見上げながらこの子達、本物の感動を味わっておりました。ささやかではありますがこんな小さな感動と幸せを僕らに与えてくれた日土の自然に改めて感謝したものでありました。 さて、このレンジャクのように『群れること』が大好きな子達と言えばすみれさん。先日、忙しい中の時間をやりくりして真理先生がこの子達をお散歩に連れ出してくれた時のこと。みんなでのお出かけが嬉しいこの子達、10分ほどの道のりを行って帰っての小散歩だと分かっているのに、ある子は水筒を肩から下げ、ある子は学習教材の『ふゆのずかん』を首から下げて、やる気満々の御出立。『ムード命』のこの子達、結局誰も水筒も図鑑も使うことなく戻って来まして、あとで大笑いしたのでありますが…。ゆく道すがら、菜の花を摘み摘み歩く子ども達。そんな中、摘んだ花をおもむろに地面に落としてゆく男の子がありました。親切な友達が拾おうとすると「ダメ、それ目印」。来た道に目印を残してゆこうなとど言うその話は『ヘンゼルとグレーテル』はたまた『楢山節考』か?世界の名作物語をよくよく知っているその子に感心したものでありました。そんな彼の想いを尊重してくれる仲間達。でも「もう帰りならいいだろう」と帰り道で回収を始めた子ども達。日頃から言っている「採った花はポイってしないで。かわいそうだからちゃんとおうちに持って帰ってね」と言う僕らの言葉を覚えていてくれたのでありましょう。しかしそれにも「ダメ!」の男の子。「ダメ!」なんて言われると逆のことをわざとにやりたくなっちゃう子どもってどこにでもいるものなのですが、この子達は違います。彼の想いをこれまた真摯に尊重して、拾った目印の菜の花を元の所に置きその場を後にしてくれたのでありました。なんと言う友情、なんと言うクラス愛。そんな仲間達の想いにとても満足げな男の子。菜の花一つが惜しかったのではきっとないでしょう。気が変われば自分からポイポイしてしまう彼ですから。でも『みんなが自分を受け入れてくれた』と言う満足感が絶大なる自己肯定感となり、『みんなで散歩』のモチベーションを最後まで持つことの出来た男の子。みんなみんな機嫌良く、部屋まで帰って来た彼と仲間達の姿を嬉しく見つめたものでありました。でも今日の散歩道はうちのヤギ達も歩く裏こみち。歩けば道すがら菜の花を食み食み食べ尽くしてゆくうちの食いしん坊達ですから、道の真ん中に落ちていたなら尚更喜んで食べてしまうでしょう。明日この道に残した目印が全部なくなっているのを見つけたら、彼はまた「だれがやったー!」って激怒するかなぁ?なんて思ったりして。いやいや、目印を残したこと自体、すっかり忘れちゃってる確率の方が高いような気もするのですが…。そんな何気ない散歩を思いもよらぬドラマとそれぞれの成長を見せながら、みんなで味わっていたすみれさんでありました。 また別の日、小さな子達と一緒に散歩をした時のことです。ついこの間までよちよち歩きでその足元を心配していたこの子達の足取りが、いつの間にか僕らを置いて先に先にと進んでゆくようになっているのに気が付きます。「早くおいで!」なんて笑って言っていた僕らだったのに、今では「先生より先に行かないで!」と後ろから諫めるようになっている自分がいる。この坂道を一年間上がり下がりして来たその結果、図らずもそれがトレーニングとなってこの子達の心も体も強くしてくれたんだと嬉しく思ったものでした。僕らの日常はそんなことの繰り返し。『こうなるためにこれをする』ばかりではない、『無作為の何気ない行動の積み重ね』が子ども達の成長を導いてくれるのです。今時のバリアフリーやストレス軽減の設計思想で思惟的に作られた環境で育てられたなら、確かに日頃の小さなケガやトラブルは減らすことが出来るでしょう。しかしそれは人間の本来持っている・またはこれから育つはずの能力を退化させる施策だと思うのです。おぼつかない足取りで、お尻をブレーキにズボンをドロドロにしながら上り下りしていたこの子達の山登り。お母さん方には度々洗濯でお手を煩わせてしまったであろうこの裏山アスレチックですが、おかげさまでこの子達はこんなに体力をつけて来てくれました。『機械による筋トレは筋肉を固くする一方、自然の中で養われた筋肉は柔らかくしなやかに強くなる』と昔本で読んだことがあります。しかもこの子達を見ていると体だけでなく想いや心もしなやかに育っていることを感じます。自らの想いで自らやりたいことを見つけながら、今日も幼稚園の山をぐんぐん登って行っているこの子達。お山散歩の大好きな素敵な日土っ子に育って来てくれて、それは本当に嬉しい限りです。 こんな自分の退化・子ども達の進化を見ていると、時の流れと受け継がれることによって形作られる『永遠』の連鎖を感じます。昨年、30年ぶりに大台を超えた自分の体重をコントロールしようと、昔使っていた万歩計を引っ張り出しウォークチャレンジを始めた僕。10年前は一日に1万歩に届く日も結構あったのですが、今は中々その1万歩を超せません。意識して子ども達と走り回っても7〜8,000歩がいいところ。このひと月で1万を超えたのはたった2日でありました。そんな平日を過ごしては幼稚園のない週末になる度リバウンド。こうなると幼稚園の日々頼みとなるのですが、ともあれこうして意識してひと月を過ごして来た結果、平均体重が2kgほど落ちてくれました。年と共に子ども達と走り遊ぶその中で『足がつる』なんてことも多くなったのでありますが、それでも動けばそれなりの体が維持されることが分かり大いに励まされたもの。でもこれってエコライフの体現だと思うのです。筋トレしたりジムに通って…とダイエット単立目的のためにお金や時間を費やすのではなく、子ども達の健やかなる成長のために自分の体に貯蓄したエネルギーを使うと言う。せっかく貯めたものですからただただ捨ててしまうのはもったいない。有効に使ってこそ『貯蓄』が『財産』となり得るもの。そしてそれはエネルギーを消費しつつ、子ども達を磨き・自分自身を磨く『磨き合い』となるのです。 磨き・磨かれる関係は双方にとって寄与する関わり合い。僕が砥石となり自分をすり減らして子ども達に磨きをかけることは、子ども達によって自分も磨かれると言うこと。こちらは我が身を物理的にすり減らす『シェイプアップ』と言うおまけ付きで。子ども同士が切磋琢磨することは固く粗い砥石同士で磨き合うようなもので、それはそれでとても大事。しかし結果、どのように研ぎあげられてゆくかは分からない。そのような成長の過程の所々で僕らのような歳を経た者がこの子達の砥石となることが出来たなら、『古びた・しかし少し柔らかく目の細かくなった砥石』によって、ライバル達との関わり合いでは気付かなかった物事や想いにもふっと気付いてくれることでしょう。だから僕ら大人はそっと彼らにこの身を差し出し、彼らが繰り出してくる摩擦によって自分を磨かせてあげたらそれでいい。そして自らをすり減らす『老い』の刹那と引き換えに、僕らの想いをこの子達が引き継いで行ってくれたなら、それは僕らがここでこの時を精一杯生きた証となってくれるはず。神様は我々人間に子どもを育ててゆくミッションを課せられました。神様が私達を『子育てする生き物』としてお創りになったのは、『子育て』によって自らを更に磨き成長させるためかもしれません。そしてそれは我が子に対する関わりだけでなく、『社会性』を持つことにより人間は、多くの子ども達を見つめ・考え・想いを投げかけ・そして受け止めて、『成長し続けてゆく者』たらしめられたのだと思うのです。 |