園庭の石段からみた情景〜園だより4月号より〜 2020.4.15
<ちいさい子山羊が>
 都会での『新型ウイルス』爆発的感染拡大のニュース報道を横目に見ながら、己の背筋をも正しつつ歩み出した新年度。子ども達はマスク姿で登園しながらも、幼稚園の野山で嬉しそうに遊びまわっています。『みんなマスク』のさまを見ていると、映画『風の谷のナウシカ』で描かれたマスクなしでは生きられない『腐海』の世界をついつい思い起こしてしまいます。「誰が世界をこんなにしてしまったの?」と嘆くナウシカ。世界をこんなにしてしまったのは人間自身であり、際限のない欲望と争いの行き着く先がこの『腐海』の世界だったのです。豊かな時代と讃えられ『やせ我慢』をしたことなく生きて来た現代人。「出来るのになんで我慢しなくっちゃいけないの?」と言うのも理屈でしょう。しかしその危険性を誰もが論じ合い警鐘が鳴り響く中にあって、『強制力を伴わない要請』の無力さを改めて感じさせられた今回の感染拡大。「自分は大丈夫」「自分一人くらい」の思いが今回のパンデミックの引き金になっているのは明らかでありましょう。もっとも自らの想いによって自制する『やせ我慢』をしたこともないのに急に、それをしろと言っても出来ないのは自明なことなのかも知れません。『武士は食わねど高楊枝』、高い精神性を持った『やせ我慢』で心を自制する鍛錬をすることは、大切なことなのかも知れません。
 その『風の谷のナウシカ』、コミック版では話は映画の先へと続いてゆき、『それでも世界は美しい』『この世界で私達は希望を胸に生きてゆくんだ』と言うメッセージを残して終わっています。このメッセージは映画『もののけ姫』に引き継がれ、不幸な時代・境遇の中にあっても『生きろ!』と訴え続けるあの壮大な物語の中に想いが強く込められています。いずれにしてもこの絶望から私達を救ってくれるのは科学でも人間の力でもない『自然の力と癒し』であると宮崎駿は謳っています。人間が己のワガママで傷付け破壊してしまった自然。その自然が自らの再生の力によって『人間が傷付けた生命達・そして人間自身』をも癒してくれるのだと、彼の作品からはそのような哲学を読み取ることが出来るのです。彼の信じるものはアミニズム(自然崇拝・大地讃頌)でありますが、これと同じ構図を持つものが僕らの日常に存在しています。それがキリスト教。聖書はこの宮崎監督が崇拝する自然をも『神様が創られたもの』と説き証しています。神様の独り子であるイエス様は、『己を傷付け・十字架につけて殺した人間』を『その十字架によって赦し、復活(再生)することによって救ってくださったのです』と語りかけているのです。

 自らの想いの中にこのような信じるべきものを持って生きて来た僕。こんな時だからこそ心もとない人間の英知にすがるのではなく、神様に依り頼むことを選びたいと思うのです。神様が創られたままの姿を『自然』と言うのであれば、野山の自然は『自然』の最たるもの。そんな自然の中にこれまた『自然』である子ども達を解き放ち遊ばせてあげることそれこそが、彼らにとって心満たされる体験となりこの状況下で色んなストレスを感じているこの子達の癒しとなってくれるはず。さらに不規格で思い通りにならないものの象徴である自然を相手に・または自然を介して友達と遊ぶそのことが、子ども達にとっての何よりの学びと自己研鑽になるのだと思うのです。「何も教育・指導が出来ない」と先生達からしたら思ってしまうこの状況。しかしこの機を『子ども達の想い主体の保育』を実践するチャンスと捉え、この間子ども達との関わり方・言葉の投げかけ方を僕らが今一度考える時となってくれたなら、それが何よりだと思うのです。『今まで自分が培って来た生活』と違う形の毎日を過ごすことに、お母さん方も不安を覚えていることでしょう。こんなスローライフ保育、確かに即効力はないかも知れません。「この子達はいつまでこのまま成長してくれないの?」と思われるスタートになるかも知れません。しかし今はあらゆるインプットを心の中に蓄えているところ。それが喜びで満ち溢れるものであるならば、心が十分に満たされたその後に、次は自らの行動として体現したいと願う想いが生まれて来るのです。それが子ども達の自己表現。言葉にして現れることもあるだろうし、行動の実行に表わされることもあるでしょう。また歌を口ずさんだりダンスなどで嬉しかった時の想いを反芻して見せてくれるようになるかもしれません。絵に描いてみたり、なりきりごっこ遊びに興じてみたり、アウトプットはその子それぞれ。それを個性と言うのです。『これをしなさい』の履行では滲み出て来なかった自らの想いによる自己表現が、ここから生まれて来ると思うのです。ですからこのひと月は「いっせーのーせ!」で出来るようになることを急かすのではなく、のびのびと自分を出せるようになってゆくことを主眼にこの子達を見つめてゆきたいと思うのです。

 さて、新年度が始まりまして、合い中に『春の嵐』はありましたが概ねにして穏やかな陽気の毎日をまったり過ごしている子ども達。散り始めた桜の花びらをかいくぐり三輪車を走り回らせて遊んだり、雨上がりの『カニ・マンホール』で今年初対面となったサワガニ君との遭遇に歓喜したり、久々の幼稚園生活を謳歌していたものでありました。さらに今年は目玉がひとつ。それは理事長宅にやって来た二頭の子ヤギ。初めは「幼稚園にどう?」と言われたのですが、幼稚園で飼ってお世話するのはなかなかに難しい。「それならば」と理事長夫妻が自宅で飼ってくれることになりまして、放牧の柵作りからヤギ小屋建築まで骨を折ってくれたのでありました。早速「そのヤギを見に行こう」と言うことになった子ども達。まずは先発部隊でばら・たんぽぽさんが『ヤギ牧場』に出かけます。初めは小屋の中に入っていた子ヤギ達。動物園と同じ感覚で、檻越しになんてことない顔で覗き込んでいた子ども達だったのですが、開けっ放しの戸口からヤギがにゅーっと出て来てびっくらこ。「なんで出てくるの!?」とそんな顔で先生達の後ろに隠れます。子ヤギちゃん達も新入園でありますから、大勢の子ども達にびっくりしたのか駆け出して、どっちが逃げてどっちが追いかけているのかわからないようなあたふたが、そこに繰り広げられておりました。しかし慣れて来たなら興味を示し出した子ども達。ヤギの後をついて歩いてちょっとうれしい初顔合わせとなりました。生まれた時から幼稚園に慣れ親しんで、やっと満を持して入園となったたんぽぽさん。勝手知ったる幼稚園で「怖いものなしなんじゃない?」って感じだった彼女が、ヤギを間近に見るや否や「こわい!」って眞美先生に抱きつきます。「かわいいところあるんじゃない」と思いつつ、先生と彼女の距離を一気に縮めてくれたこのヤギの子にMVPをあげたいそんな気分になりました。新入園の子ども達にとって新生活はどれもどこかハードルが高く感じるもの。でもふとしたきっかけがこの子達の背中をぽんと押して、軽々とそれを飛び越えるそんなこともあるものです。そのために効果的なのが『感動体験』。それは嬉しいことの時あり・びっくりの時もあり、日常のルーティーンから外れた心ときめかせる体験であるならば、きっと素敵な化学反応を起こしてくれるはず。そう言う意味では初日から良い仕事をしてくれた子ヤギ達でありました。

 その後しばらくしてすみれ・ももの子ども達が『ヤギ牧場』にやって来ました。これくらい大きくなって参りますと、『ヤギ、大丈夫!』って子が増えてきます。ヤギを見るなり大興奮モードに入りまして追いかけ始めた男の子。子ヤギちゃん達は驚き跳び上がって逃げ出します。その跳躍力のすごいこと。自分の身の丈を超えるほど高く飛び跳ねてその身をくねり躍らせます。これは檻の中の動物園では見られない野生の姿。放牧だからこそ見せてくれた身体能力に僕らもびっくりさせられたものでした。男の子にしてみれば「触れ合いたい」「優しくしてあげたい」との想いから子ヤギを追いかけるのですが、「いやなものはイヤ!」と言う想いのヤギ子ちゃん。そんなヤギに向かって「優しくしてあげるからおいで!」と呼びかける男の子に「どこのおじさんじゃ!」と思わず笑ってしまいました。近寄って餌を食べさせてあげたいと思う男の子。それ自体はとても素敵な想いであるし良いことです。でももひとつ大切なことは相手の想いも感じ考えてあげること。「〇〇君だって追いかけられるの、イヤでしょ。ヤギだって無理無理されるには嫌なんだよ」と諭すのですが伝わりません。「僕は優しくしてあげたい」、ただそれだけ。そこに主観と客観の齟齬が生じます。でもこれは実態を伴ったとっても素敵なテキスト教材なのです。このことは一度教わって分かるようなことではなく、繰り返し繰り返し失敗を重ねながら「どうして僕の想いが通じないんだろう」と言う自問自答にたどり着くところまでがとても大きな課題。「じゃあ相手の気持ちはどうなんだろう?」と言う想いがブレイクスルーとして与えられ、相手をそして自分自身を見つめ直すことが出来るようになって初めて、答えに一歩近づくことが出来るのです。「やーめーてー」の叫びでしか自分の想いを伝えることの出来ない今のこの子達。それを言葉にして伝えること・相手の言葉を聞いて気付けるようになることは、クラス活動・集団生活における教育課程です。それと並行して『伝える言葉を持たぬ者の想いを感じ取ること』もこの子達にとってとても大切な体験になると思うのです。異年齢の交流において小さい子を思いやる心を育む体験が大切であるように、これは小さき命が『喜んでいる』『嫌がっている』と言うことを感じる絶好の機会です。これまで幼稚園で飼って来たカニやイモリは『喜んでいるのかいないのか』がとても分かりにくい相手でした。餌をやったり水を替えたりしてあげても彼らはいつも無表情。新しい水が気持ちいいのか、はたまた身の回りが騒がしくなるこの時間が嫌いなのか、本当によくよく分かりません。しかし気持ちの良い時にはまったりと陽だまりの中に座り込み、手ずから与えた草をおいしそうに食べて見せてくれる子ヤギ達。喜びの表現を目に見える所作で表し見せてくれたりもするこの子ヤギ達の『うれしい』は、何となく僕らにも分かりその想いを共有することも出来るような気がするのです。嫌な時には人から走って逃げ回り、人恋しい時にはメーメー鳴いて呼びかけもする子ヤギちゃん。本当に人並み以上に自らの想いを発信してくれているようなそんな感じさえ受ける僕なのでありました。この想いを子ども達も僕と同じように感じてくれるでありましょうか。この『足りない言葉』の代わりに『相手の想いをおもんばかる心』を持つことが出来るようになったなら、きっと僕よりも素敵な想い・純真な心の持ち主である子ども達は、この子ヤギの良き理解者となってくれることでしょう。この子達のそんな成長を今から楽しみにしている僕なのでありました。

 お天気の良い日には道すがら餌となる草を摘み摘みヤギ牧場へ通う子ども達。そんな子ども達に触発されてこの僕も、日頃あまり手にしない草刈り鎌を握ってヤギ牧場に草を届けています。『ヤギのため』と言うお題目がついただけでやる気にもなるのですから、人間のモチベーションとはなんと面白いものでしょう。高低差20m程もある牧場と幼稚園の往復によって子ども達の足腰も鍛えられ、運動不足解消に一役買ってくれているよう。使ったことのない筋肉を刺激され、ちびっ子ちゃん達も日に日にたくましくなってゆくようです。このように思いがけず幼稚園にやって来たヤギが神様の御心に用いられ、この非常時に大活躍しているさまを見ていて感じること。それは心騒がせ事にあらがうことよりも、神様を信じ祈りつつ歩むことによって『与えられる』ものが如何に大きなものであるかと言うこと。今年はこんな気付きや『その気』を与えてくれる『ちいさい子山羊』と一緒に、そして目の前のこの子達と一緒に、あの讃美歌を歌いつつ歩んで参りたいと思っています。


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