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<想いの力> 『さくらチョコ』ちゃんと『ハート』ちゃんがやって来てひと月になろうとしています。双子のヤギの話です。彼女達も新しい我が家にすっかり親しみ、毎日やって来る幼稚園の子ども達の来襲にもなんとか慣れて、のびやかに理事長宅の『ヤギ牧場』で毎日を過ごしています。当初逃げ回っていた『園児エイリアン』ともコミュニケーションを取れるようになって来たヤギ子ちゃん。少々煩わしいものの、みんながみんな餌となるはっぱを差し出してくれるので、「この人達、良い人かも?」と子ども達に寄って来てくれるようにもなりました。一方の子ども達、当初「こわい」と腰が引けていた子達も今ではすっかり『ヤギちゃんず』の大フアン。怖くないと分かったら逆に自己顕示欲が募って来て、「わたしのはっぱを食べて!」と執拗にはっぱを彼女達の口元に突きつけます。それで自分のはっぱを食べてくれたら有頂天の大喜び・食べてくれなかったらイジケすねくれテンションダウン、そんな一喜一憂を日々繰り返している子ども達。自然は思い通りにならぬもの、でもそれは自分の良し悪し故では決してなく、持ち回りの順番かわりばんこ。長年自然や子ども達との営みを生業として来た僕からしてみればそんな『達観』も出来るのですが、それを悟るにはまだあまりに若すぎるこの子達。「わたし、すごいでしょ!」と『がっかり』の行ったり来たりの想いのその中に、「よかったね」「またこんど」「でもね…」の言葉を投げかけながら、悟りのきっかけをぽとんとひとつぶ落としながら、その心の移ろいをそっと見つめているところです。自然の気まぐれさは誰にとっても平等なもの。規則性を持ちながらも移ろいゆくその気まぐれは、誰にも夢と可能性を与えてくれる神様からの素敵なプレゼント。僕らはそのチャンスに気付きとひらめきを与えられ、自分を試してみようとするのです。そこには予定調和は潜在せず、家では我を通して想いを遂げる『わがままっ子』達のその想いを、忖度なしに跳ね返す唯一無二の『無垢なる存在』なのかもしれません。 非常事態宣言の『STAY HOME』を守りつつ、庭のヤギをずっと眺めて過ごしたゴールデンウィーク。ヤギ達の成長にもいくつもの面白物語がありました。このヤギ子ちゃんの『想い』の強さも相当なもの。広葉樹のはっぱが大好きな彼女達。『ヤギ牧場』に生え頭上になり茂る桜や桃のはっぱを目掛けて後ろ足で立ち上がったかと思いきや、それでも届かないものだから「これでもか」と言うほど首を目一杯伸ばします。そんな姿を見ていると「オカピがキリンになったのは、こんな想いがあったからなんだろうね」と思ってしまいます。遺伝子操作でも人工交配でもないのに、「あの葉っぱが食べたい!」の想いが彼らの進化に寄与してあんな首の長い生き物を生み出したのだろうなと思うと感無量。『想いの力』の偉大さに改めて想いを馳せたものでありました。もっともそんな僕の想いを知ってか知らでか、当のヤギ子ちゃん。木の下に置いてあったコンテナの上によじ登り、そこから背伸びで葉っぱ採り。「この子はキリンじゃなくって人間に進化するかもね」と身体ではなく頭を使って目の前の課題に挑む姿を見せてくれた彼女をおかしく思ったものでした。 G.W.も後半に入りますと、のんびりした日常から脱して新たな自分に挑戦してみたい想いが生まれて来ます。これまで誰も『ヤギ牧場』の外に連れ出すことが出来ていない『ヤギちゃんず』。臆病な彼女達は牧場の外に出たがらないばかりか散歩紐も着けることも嫌がると言うので、「じゃあ僕がやってみようか」と挑戦してみることにいたしました。こう言う時は相手のペースに合わせるのが何より大切。仕事柄、子ども達との関わりからそれを実体験として感じて来た僕は「ヤギも子どもも同じだよ」と思いつつのんびり根競べをすることにしたのです。 何でも言葉で言った通り・思った通りにならないとイライラしてしまうのは現代の大人のウィークポイント。散歩紐を引っ張って外に連れ出そうとしても、無理無理ではヤギが嫌がるのも当たり前。子どももそうですが、嫌がる時には無理矢理大人の我を押し通すのではなく気分を変えてやることが肝要です。まずはヤギの好きな桜のはっぱを手に取りまして「おいで」とお誘い申し上げます。最初に誘ったのは比較的人懐っこいハートちゃん。食いしん坊のこの子達。桜のはっぱを夢中になって食べてる間に首輪に散歩紐を取り付けます。それからも僕らの我慢比べは続きます。紐を引いても頑として動かない彼女に対して、いろんな葉っぱを手を変え品を変え目の前にかざして誘います。するとそれにつられて寄って来るハートちゃん。間合いが近づいたのを見計らってそのたるみの分だけ僕が外に向かって移動します。無理矢理引っ張ると頑として抵抗するヤギ達なのですが、『こちらも引っ張らない代わりに引っ張られても譲らない綱引き』の中ではあちらも無理矢理引っ張ろうとはしないのです。でもこれって僕らの日頃の子ども達との向き合い方そのもの。入園幾ばくも経たぬまだ想いを分かち合えない子達とはこうして関係を作ってゆくのです。無理無理自分の方に引き寄せようとしても逆効果。それよりもその子の「くすっ!」ってなる瞬間を一緒に探しながら、心許して間合いを近づけてくれた分、僕の行きたい方へちよろっと動いてゆくのです。そうしながらちょとずつ、その子の好きなもの・笑いのツボを探りながら、自分の世界を子ども達にプレゼンしてゆくのです。そう、そんな風にやりながら一緒に牧場の外の世界に『始めの一歩』を刻んだ僕らでありました。そこまで優に30分は時間を費やしましたが。 牧場の外に足を踏み出しても、一気に飛び出して行こうとはしないハートちゃん。牧場入口の脇にある桜の木に取り付いて、はっぱをむしゃむしゃやっています。すぐに食べ飽き、目新しいものを口にしたがるのがヤギの習性。桜の次はその下に生えるカラスノエンドウ、そしてその次にはまた少し先に生えているシラン、そしてもう少しゆけば桃の木のはっぱが待っていて、それらを食べながらちょっとずつ先に歩を進めて行ったハートちゃんなのでありました。そこからもアカメガシをはみながら順調に坂を下り始めたハートちゃんだったのですが、姿が遠ざかる彼女に気づいた『さくらチョコ』が「いかないでー!」と大きな声でいななきます。その声に我に返り、来た道を戻り始めたハートちゃん。第一回目のお散歩はそこまでとなりました。「初めてにしては上出来!上出来!」とそこまで出来た自分達に大満足だった僕とハートでありました。 「さてお次はチョコちゃんの番ですよ」とお昼過ぎ、今度は選手を交代してお散歩チャレンジに挑みます。彼女も同じ作戦で外に連れ出すことに成功し、先ほどハートちゃんが歩を進めた坂の途中まで連れてゆくことが出来ました。しかし今度はハートちゃんがチョコを呼んでいななきます。先ほどは「神経質なチョコちゃんだからあんなに呼ぶのかな?」と思っていたところがハートちゃんでも同じ展開に。そこから飛び跳ねるように牧場まで走って帰ったチョコちゃんでありました。いずれにしても連れ出された方は新しい世界の目新しさとあちらこちらに生い茂るみずみずしい生草に誘われて我を忘れるところもあるのですが、置いて行かれた方は常に客観的。「いくなー!」「おじさんに騙されないでー!」と叫ぶのです。それが姉妹を案じてのことなのか、それともただただ一人置いて行かれた不安からか分かりませんが、この双子ちゃんの絆を強く感じさせられたものでありました。 それならばと言うことで今度は二頭一緒に連れてゆく作戦に出た僕。当初、「一頭でも大変なのに両方なんて」と思っていたのですが、そんな心配をよそに機嫌よく連れ立って外に出て来たやぎちゃんず。やはり『一緒』と言う心強さは何よりも大きな糧になるみたい。それはそうかもしれません。乳離れをした途端、親元を離れて二頭でうちのヤギ牧場にやって来たこの子達。来た日こそ親を呼んでメーメー鳴いていましたが、翌日には『二人の生活』を受け入れて何をするにも一緒にやって参りました。そんな彼女達にとってわずかの間でも離されることの不安は何より大きかったのかもしれません。そんな二頭の散歩紐を両手で操りながら坂を下りて行った僕。無作為に左右入れ替わって動く彼女達に散歩紐が交錯し絡みつきます。しかも自分で跨いでしまった散歩紐を自分で直せないこの子達。犬であれば紐を跨ぎ足を吊るようなことがあったなら、自分で跨ぎ返して直すことも出来るのですが、ヤギはそれが出来ないよう。ヤギは姿勢を低くする時、前腕の関節を折り曲げて地面につくこともあるのですが、その骨格構造上、足を持ち上げて高さのあるものを跨ぐのはどうも苦手なのかもしれません。そんな彼女達の二本の散歩紐を、左右の手に持ち時に入れ替え持ち替えいたしながら『鵜飼い』のように紐をさばきつつ先へと導く僕なのでありました。そうやりながらクルミの木横の台の上までやって来た僕と彼女達。そこに長縄跳びを持ち出しまして、彼女達の散歩紐と結び桜の木の枝に結わい付けたのでありました。紐の長さの範囲を行ったり来たりしながら草をはみはみしてる彼女達。ヤギ牧場も彼女達が来てからひと月ほど経つのですが、ヤギ小屋に近いところから段々とはげ山のように草が生えない箇所が出て来ました。その光景を見つめつつ、「だから遊牧って必要なんだな」と昔の羊飼いの生活に想いを馳せたもの。羊を連れて日々を過ごす羊飼い。『牧歌的』と言う言葉に表されるように悠々自適なイメージを僕らは抱いてしまうのですが、実は大変なお仕事だったのです。ページェントにも出て来るように夜も焚火を囲んで寝ずの番。そしてこうして食べ尽くされる前に草地を渡り歩き、あちらこちらを巡り暮らすのですが、その草地を争ってのいさかいもあったと旧約聖書・創世記にも記されています(アブラハムと甥のロトの物語)。そんな憂いの日々を生きながら、羊と向き合っている時には優しい笑顔でいたであろう羊飼い。それこそが僕らの目指す生き様なのではないかと思うのです。愛すべき羊達には苦悩の顔を見せず、いつもその想いに寄り添ってくださる方、それがイエス様。ここ数日の関わり合いから、僕もそんな慈悲深い『ヤギ使い』になりたいと思ったものでした。そんな想いが通じて来たのでありましょうか。毎朝ヤギ小屋の扉を開けに近づいてゆくと、彼女達は自ら寄って来てくれるようになりまして、隙間から差し出した僕の手に頭をこすりつけて来るようになりました。これってヤギの愛情表現なのだとか。幼稚園の子ども達もしゃがんでいる僕の背中におぶさりかかって来てみたり、僕の膝の上にちょこんと座り込んだりするのですが、「これも彼ら・彼女達の愛情表現なんだね。ヤギと同じだけど」と思うようにもなりました。本当に色々と気付きを与えてくれるヤギの愛娘達。幼稚園にとっても僕にとってもかけがえのない存在になりつつある彼女達です。 こうして遊牧による暮らしが出来るようになったヤギ子ちゃん達。そのことによって僕らにも彼女達にも新しいスタイルの生活を始められるチャンスが与えられました。これからは彼女達の方から園までやって来て、子ども達と関わり合えるそんな日々が始まるかもしれません。そう、午前保育の慣らし運転を終えた子ども達が、いよいよ大活躍する季節を迎えるように。でもこのゆったり過ごした日々によって得られた自信と、新たなる世界に飛び出して行くこのチャレンジがなかったなら、これからの新しい生活もなかったでしょう。のびやかに想いを満たしながら自分の世界を広げて来たヤギ子ちゃんと子ども達。そしてその想いの力によって次なる世界に足を踏み出し、さらに歩いて行こうとしているところ。これからこの子達がどんな世界を作り出してゆくか、それもまた彼女達の想いの力によるのです。僕はその想いに寄り添いつつ、見つめ見守る者でありたいとそんな風に思うのです。 |