園庭の石段からみた情景〜園だより6月号より〜 2020.6.8
<子どもの伸びしろ・大人の伸びしろ>
 今年は早々に梅雨入りし、雨の降る日には園庭の中庭でカエルの鳴く声が高らかに響いています。4月の終わり、ひげのおじちゃんに連れられて幼稚園やって来たニホンアマガエルがありました。しばらく飼ってみたのですがかたくなに餌を食べようとしないので、「おうちにお帰り」と子ども達と中庭に放してやりました。しばしわずかばかりの間でも、共に暮らせば情も移るのでありましょう。聞き分けられるはずもないのですが、カエルの鳴き声を聞くたびに「あのアマガエルかな?」なんって思ったものです。あれからひと月ほどが経ちました。毎年恒例6月のひよこクラブ『日土の山の生き物と遊んでみよう』のためにまたイモリやサワガニ・カエル達を探していたところ、前回逃がしてやった水槽の傍の薔薇の緑のはっぱの上で、ちょこんと座っているアマガエルを見つけました。あのアマガエルでしょうか?これまでもカエルの声が聞こえて来るたびにこの中庭に足を運んだものでしたが、門を開けて中に入るとピタッと静まり返る忍者ガエル達。これまでここで一度も彼らを見つけたことがなかったのですが、いっとき共に暮らしたシンパシーがお互いに互いを呼んだのでしょう。手を差し伸べると逃げようともせず、再び僕に連れられて幼稚園に帰って来たアマガエル君でありました。
 そのアマガエル、再び飼おうとミミズを餌に与えます。前回はちょっと餌のミミズが大きすぎたのかなと言う反省があったので、一口サイズのミミズを探す僕ら。すると桜の花弁が落ちて降り積もった腐葉土の中にちょうどいいミミズがおりました。先に探した頃には久しく雨が降らずこの土もカラカラだったのでありますが、今回はひと雨降って程よく湿気ていたせいでありましょうか。はたまたミミズの繁殖期と重なり、ちっちゃいミミズが出回る頃だったのでありましょうか。いい感じのミミズが何匹も捕れまして勇んで口元に届けたのですが、このアマガエル君の口にはやっぱり合わなかった様子。去年飼ったニホンアカガエルはミミズが大好物で、入れた傍からパクっとやってくれたのですが、どうもこのアマガエルはそうはいきません。一週間ほどハンガーストライキを通したアマガエル。捕まえた時にはたっぷりとしたおなかの立派な体格をしていたカエル君が二回りもちっちゃくなってしまいまして、「これはそろそろ何とかしなくっちゃ」と思っていた矢先、母屋の軒先でカエル君の一口サイズの蜘蛛が巣を張っているのを見つけました。そこでそれを蜘蛛の巣ごとくるくる絡め取り、カエル君のケースの中に入れておいたのです。入れた時にはまた興味なさそうなつれない顔をしていたカエル君だったのですが、翌朝ケースを見てみると久しぶりにおなかがパンと張った彼の姿を見つけたのでした。「この子、蜘蛛なら食べるんだ」と言うことでそれからこのカエル君のメインディッシュは様々な蜘蛛となったのでありました。
 春先に羽虫が一杯捕まっているような蜘蛛の巣を見つけたのですが、よくよく見てみるとその小さい羽虫のようなひとつひとつが蜘蛛の子達でびっくり。僕も初めてそんな情景をこの目で見たので、感動して先生達にも「見て見て!」と迷惑な押し売りをしてしまいました。すると「ここから糸を伸ばして風に乗って飛んでゆくんですよね」と美香先生。虫が苦手な先生も、そういうロマンティックな話は好きなよう。何年ここで暮らしていても、学びの種は尽きません。自然の大きさ・多様性にまたまた魅せられてしまった僕なのでありました。そんなこの蜘蛛達があちこちにいることは分かっているのですが、あれからひと月経って園庭で再びこの蜘蛛を見つけても、まだ1mmにも満たないほどのちびちびサイズ。これらはジョロウグモだと思われるのですが、あのでっかい毒々しいグロテスクな姿に成長するまでに丸々半年かかるのでありましょう。秋になるとでっかい蜘蛛達が僕らを驚かせるのでありますが、「それにはこんなちび助達が幾重にも淘汰されて生き残らなくっちゃならないんだな」と改めて感じさせられたものでありました。
そんなこともありまして今のこのカエル君のもっぱらのごちそうは家の中で飛び跳ねるハエトリグモの仲間達。子ども達にも「たのむね!」とお願いをしたので、こぞって「しんせんせい、クモがいた!」とやって来てくれるようになりました。しかし蜘蛛と言ってもいつまでも同じところにいるものではありませんし、すぐに駆けつけられない時も多々あります。そんな時には「捕まえといて」とお願いするのですが、それはどうも無理のよう。今年のすみれ組の子ども達。日土幼稚園の子どもらしく立派に「生き物大好き!」の日土っ子に成長してくれたのでありますが、彼らにしてもまだせいぜいサワガニがいいことろ。そんなあたふたするこの子達の肝試しにとけしかけまして、「ねぇ、とってよ!」と背中を押すのですが、みんながみんなダチョウ倶楽部のように「どうぞどうぞ、おさきにどうぞ」って感じであとずさり。「しょうがないなぁ」と僕が手ずから捕まえて見せれば「おー!すごい」と称賛のまなこを向けてくれるのでありました。普段とんちんかんなことばっかり言っているので、特にお年頃の女子達からは『もうお父さん、またバカなこと言ってる』的な目線を送られる僕。「去年は喜んで大笑いしてくれたのに」と思いつつ、彼女達の『成長』を嬉し寂しく受け止めている今日この頃。そんな僕が唯一、子ども達にリスペクトされる素敵な瞬間がこの『蜘蛛捕りミッション』なのでありました。

 しかしそんな僕もびっくりのツワモノちゃんが現われました。ある朝、自分の体の後ろに何かを隠すようにバスに乗り込んで来た女の子がありました。「なに?」と覗き込んでみると飼育ケースの中で羽をハタハタさせている虫が数十匹。「アゲハ蝶!」と言う彼女に「いやぁ、アゲハ蝶ではなさそうなんだけど…」と思いつつ、「幼稚園の図鑑で調べてみよう」とその場を収め、幼稚園に向けてバスを走らせたのでありました。幼稚園の駐車場に着きまして、会うお母さん会うお母さんに「ほら!」とケースを見せる女の子。そのさまにみんなびっくりのお母さん達。幼稚園に着いて担任の先生にも「ほら、ちょうちょ」と見せれば、先生も大きなリアクションでびっくらこ。それほど壮観な情景でありました。子ども達が朝の準備をしているそのうちに、一足早く昆虫図鑑と首っ引きとなった僕。蛾の仲間だとは察しがつくのですが、分厚い写真満載の昆虫図鑑にもそれと一致するものが載っていません。昆虫の分類は専門家でも相当難しいもの。ちょっとの違いで異なる種となり、なかなか特定出来ないことも往々にしてあるものです。高校時代生物部だった僕は主に野鳥を観察する『鳥班』だったのですが、ムシムシ大好きな幼稚園児と大して変わらない高校生男子の一番人気は『甲虫班』。甲虫とはポピュラーなカブトムシ・クワガタムシから始まって、どんぐり虫として有名なゾウムシやハンミョウ・カミキリムシ・タマムシ等々多岐に渡ります。その造形のちょっとした特徴が異なると、大の大人?が「新種だ!新種だ!」と言って大騒ぎ。それほどに色んな種類が虫にはあり、部活仲間達も年甲斐もなく虫網片手に野山を走り回っておりました。調子に乗って捕り過ぎて、帰ってからの種別判定と標本作り地獄に自らの罪深さと考え無しさを、その時ばかりは反省していた旧友達。生物部の流儀、捕った命に対して最大なる敬意を払い、キチンと研究対象として標本にしてやるのが代々先輩方から引き継がれた約束事でありました。その時に名前が分からないとやっぱりすっきりしないものなのですが、それが日常茶飯事だったのです。これは蝶・蛾も『またしかり』でして、ですからそんな種の確定がどれだけ難しいかを間近で見て来た僕にしてみたら、「わかんないや。でもしょうがないか」とそれで終わったかに思えたムシムシ一杯事件でありました。

 話はまた飛ぶのですがひと月ほど前、『コロナ禍』の話題が一番盛り上がっていた時分のこと。ある情報番組に解剖学者の養老孟子と言う先生がリモート出演されておりました。その時、自宅か仕事場か分からないところから出演されていた先生の背後にはびっしりと木箱が飾られていたのです。おそらくあれは昆虫の標本箱の山。『虫々大好き』でも有名な養老先生。ぱっと見た人には「あの後ろ何?」ってくらいできっと分からなかったでありましょうが、知った人が見たならば「あれは先生の『ひととなり』がよくよく分かるシーンだねぇ」と思わずにやにやしていたことでしょう。専門は人体にも関わらず、『それより虫の方が面白い』と言ってはばからない養老先生。天才学者が身にまとう『虫々大好き』のにおいを、久々に身近で感じさせてくれたこの女の子。じっとずっと何かを見つめているのが好き、生き物達の無作為で規則性のない動きに癒しを感じる、そして大人数で群れるより誰かと一対一で寄り添って過ごす方が好き、と言う僕とも近しいにおいのする彼女。そんな彼女がしばらくして僕の所に飛び跳ねながらやって来ました。「先生、分かった!」と言う彼女。その子が広げた図鑑は幼稚園児用の『こどものずかん』。しかも30年前の1990年に発行された年季の入ったものでした。彼女がページを開き指さしたのは『トンボエダシャク』と言う蛾の仲間。他に『ヒョウモンエダシャク』と言う種類もあったので、『エダシャク類』と言う仲間があるのだろう想像出来ます。しかもそのトンボエダシャク、僕が見た大きな図鑑のどの蛾よりも目の前の飼育ケースの中の蛾達の特徴を表しています。きっと間違いないでしょう。掲載されている種類から言ったなら、大図鑑の数十分の一しか載っていないこの『こどものずかん』でありますが、こんなところから一発で探し当てた彼女の科学者としての『引きの強さ』にも驚かされたものでありました。このトンボエダシャク、のちにネットで調べたなら『シャクガ科エダシャク亜科』で、その幼虫はシャクトリムシのツルウメモドキであることが分かりました。きっとこれを捕った草むらでは、二週間ほど前にはえっちらおっちら尺を取るシャクトリムシが大量発生してはい回っていたことでしょう。大勢のトンボエダシャクがひらひらパタパタと羽をはばたかせる今の姿も壮観ですが、別の意味で大量のシャクトリムシがシャクシャクやっていたであろう光景もすごかったんじゃない?と想像し、思わず笑ってしまいました。いずれにしても自身の興味と行動力から、ひとつの物事に対して向き合い突き詰め結果を出すことの出来た今回のこの子の成功体験は素晴らしかった。そう、この学びの喜びと満たされた想いが、この子を偉大な研究者に育ててゆくかもしれません。そうであったなら嬉しいなと思うと共に、彼女によって僕自身も自らの学びの引き出しに新たな一ページを増刷することが出来たことを感謝したものです。

 こんな子どもとの関わり合いは、もう『伸びしろ』を使い切ったと思われる大人の僕達にも、新たな気付きと学びを与えてくれると言うことを、改めて感じさせてくれます。子どもと共に過ごすその中で、「自分が知らないから」とそこでその子とのキャッチボールを打ち切るのではなく、自らその土俵に飛び込んでゆけばそこから生み出されるものもきっとあるはず。商業ベースのイベントや、一斉にみんなで何かをやることへの自粛を求められている今だからこそ、子ども達の『ミクロかつプライベートな興味』に僕ら大人が乗っかって、学びや自己啓発の楽しさ・素晴らしさを伝えてあげるそんな時を持ちたいと思うのです。それがこの様々なものを負のスパイラルに落とし込んでいる『コロナ禍』から再生産される、新たな(でも言ってみたなら温故知新の)ライフスタイルを見出すことになるのではないかと思うのです。神様が与えてくださるものに無駄なものはありません。そこから何を見出すか・何を感じることが出来るかをSTAYHOMEでじっくり考えることが出来たなら、そこから生み出されて来るものも、きっとあるとそんな風に思うのです。


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