園庭の石段からみた情景〜園だより9月号より〜 2020.9.1
<かなへび母ちゃん物語>
 今年は長い長い梅雨が7月の終わりにやっと明けたと思ったら、8月は雨降らずの猛酷暑。「この国も雨季と乾季の極端に分かれた遠い異国のような気候になっちゃったのかなぁ」とそんな想いで過ごした夏休みとなりました。生物の体は環境に適応して進化してゆける素晴らしい賜物を神様から賜っているのですが、その変化が急激過ぎたなら自らを適応させてゆくこともままなりません。古生代の環境に自らの体を効率的に特化させ『巨大化』することで繁栄を誇った恐竜が、一発の隕石の衝突とそれに伴う環境の激変に対応出来ずに滅んでしまった地球の歴史がそれを僕らに伝えています。そのことから学ぶべきは、ひとつに僕らは五体と五感をバランスよく使い鍛錬してゆくことによってのみ、新たな外乱や環境変化に適応し得る肉体と精神を育んでゆけると言うことだと思うのです。
 『生物の進化』と言う舞台の上でも、特化と効率主義により、『使わないものは捨て去られる』『よく使うもの・よく使えるものに一極集中して勢力を注ぐ』と言う傾向が見られます。しかし捨て去られたものの中には『可能性』と言うものがありました。「今は出来ないから」「あっちの方が楽だから」と言う理由でそれは切り捨てられ、可能性は閉ざされてしまいます。しかしその可能性の中にこそ、行き詰まった状況とシステムを打開するブレイクスルーが秘められているのです。だから幼稚園では自らの可能性に対してまんべんなく向き合って欲しいと願い、子ども達に保育を行っています。『出来ることが良いこと』ではなく『出来ないことが悪いこと』でもない、『自分と向き合い、どう自分を変えてゆけるか』が幼児教育の課題。この幼児期に自らの体を通して感じた『こういう風にやってみたらこうなった・こうだった』と言う経験、そこには成功体験あり・失敗体験あり・様々な結果と想いを積み重ねる経験の数々があるはずなのですが、それによってのみ人は自分との向き合い方・進化のさせ方を学んでゆくのです。今は出来なくてもそれでいい。でももっと大きくなってその力が本当に必要になったその時に、またそれを避けて通るのか・あの時みんなと頑張って出来なかったあれにもう一度挑戦してみようと思うのか、その想いを自分の中でもう一度かき混ぜながら考えてみる『心のぬか床』を一緒に作ってゆきたいとそんな風に思うのです。頭だけで考えて、「しんどいからやらない!」とその場で切り捨ててしまったならば、それからの向き合い方もおのずと決まってしまいます。人間は体が老いてもなお、人として成長し続ける生き物です。条件・状況・与えられた時間・自分の心身の成長度…と以前と違ったステージでまた自分と向き合ってみたならば、違った突き抜け方・ブレイクスルーが得られるかもしれません。そのように過去の自分が将来の財産となるように、僕ら大人にも自己啓発を大いに推奨したいと思うのです。そしてそんな時間的猶予を確保するためにこの地球環境の変化はゆっくりと行われて欲しいと思うし、そのためにも僕らは自然を大切にしなければいけないと思うのです。太古の環境変化が緩やかに行われていたならば、恐竜だってまだその辺に生き残っていたかもしれません。そうしたならば、我々人間の現在の繁栄もなかったかもしれませんが。

 一学期、子ども達と一緒に一匹のカナヘビを飼いました。恐竜ではありませんが見た目はまるでミニ恐竜。トカゲの仲間を捕まえたことはこれまでにもあったのですが、『飼育する』と言うのはやったことがなかった幼稚園。これら自然の生き物達は人間が与えた餌を思うように食べてくれません。食べずにいると段々と弱って死んでしまうので、たいがいその日のうちに逃がしてやるのが常でした。今年は前にもご紹介したシュレーゲルアオガエルのために『ミールワーム』と言う生餌を購入しまして飼育を試してみたのですが、当のアオガエル君はあまり食べてくれませんでした。大量に残ってしまった生餌を「なら君は食べる?」と与えてみたところ、このカナヘビ君が大喜びで食べてくれたのです。幼稚園に昔からある生き物の飼育本を調べてみると、「カナヘビは飼いやすい」と書いてあるではありませんか。それでその気になった僕達はカナヘビを飼ってみることにしたのでありました。
 この昔ながらの飼育本、手書きの絵が主であまり写真もない図鑑シリーズ。他にも魚の図鑑や花の図鑑などが残っているのですが、飼いそろえたのはおそらく僕のばあちゃん・前々園長の清水佐和子先生。自分ではそんなもの読みも調べもしなかったであろうと思うのですが、業者が来た際に「先生、これは良いものですよ」と言われたなら「よっしゃ、全部もらうわ!」とそんなノリで一括購入したのではなかったかと思うのです。業者さんの・そして子ども達の嬉しそうな顔が大好きだったおばあちゃん先生のそう言うおおざっぱなところが、今回のカナヘビ君の飼育チャレンジにつながったんだなと思い、思わず笑ってしまいました。僕だったら吟味して「今はこれはいらない」「あっちの方がいいから、あれだけ買う」と購入に至らなかったであろうこの図鑑達。でもそこに書かれていた『カナヘビは比較的飼いやすい』と言うなんともおおざっぱな言葉が僕らに「やってみよう!」と言う想いを与えてくれたのです。今時の図鑑は写真一杯・最新の学説に基づいたすごい図鑑ばかりですが、狭いところのトピックスを掘り下げ過ぎているような気がして「ふーん、そうなんだ」で終わってしまう心象を受けてしまいます。知識や情報に『特化』し過ぎたが故に、なんかこの目の前の生き物を知るすべとしてはそぐわないものとなってしまったように感じます。もっともそれは現代の必然なのかもしれません。この日土の田舎だから目の前に、図鑑に載っているような生き物達が当たり前にいるのかも。世間一般では生き物は生活圏から排除され、図鑑でしか見られないのが当たり前。であるならばより知的好奇心を奮い立たせるような記事や写真の方が受けると言う言い分が、苦戦を強いられている出版業者の戦略を変化させてしまったのかもしれません。いずれにしても今ではもう手に入らない貴重な文献がこの幼稚園の財産として残され受け継がれて来たことが、今回の物語の発端となるとは、天国の佐和子先生も思ってもいなかったでありましょう。『神様に導かれる』と言うことは、そんな不思議なことが折り重なって実現する『奇跡』に関与することなのかもねと思ったものでありました。

 ミールワームをパクパク食べてくれるカナヘビ君に子ども達は大喜び。一度に4匹も5匹も平らげて見せるカナヘビに、「カナヘビってよく食べるんだね」とみんなでしきりと感心したものでありました。そんなある日、飼育箱の掃除をしている時のことでした。隠れ場として置いた瓦のかけらの下に、白く丸いものがあるのを見つけた僕と子ども達。「なに、これ?」と思いよくよく見てみるとどうやら卵のようです。それも5個。これまで生き物を飼っているその中で卵が産まれたことは幾たびもあったのですが、それが孵ったことはありませんでした。サワガニ・イモリ・ハヤなども水槽の中で卵を産んだことがあるものの、親がストレスから自分で食べてしまったり抱えていたおなかから捨ててしまったり。そんなことでこれまで孵ったことはなかったのです。「これ、どうしたものか」「親と一緒に山に帰そうか」と思っているところにまたあの『飼い方図鑑』。カナヘビの卵の孵し方が書いてあるではありませんか。『ミズゴケに水を含ませ固く絞り、その上に卵を乗せ、ケースにガラス板を置き蓋をします。40日くらいで孵るでしょう』。早速その記事を基に、『カナヘビ孵化プロジェクト』を立ち上げた僕ら。ミズゴケの代わりに金魚水槽のろ過フィルターをグズグズにほぐしたものに水を含ませ卵を乗っけます。ガラス板の代わりに飼育ケースと空気穴の開いている蓋との間にサランラップを張りました。要するに程よく保水性がある温室状態を作ることが出来たらそれでいいと、おおざっぱな考察から孵卵装置を自作しまして、それで卵の孵化を待つことにいたしました。
 そんなこんなでばたばたしている中で、僕らはあることに気が付きました。僕らが「カナヘビ君」と呼んでいたこの子。『君』じゃなくて『女の子』だと言うこと。それからこの子の呼び名は『カナヘビちゃん』となったのでありました。それからカナヘビちゃんの食欲は半分程になりました。「なるほど、出産のための大食漢だったんだね」と、彼女の行動の一つ一つにもその理由が分かって来ます。卵を毎日見つめておりますと、段々と大きくなってゆくのが分かりました。鳥の卵は殻も固く、生まれてから大きくなることはないのですが、カナヘビはどうもまた違うよう。頼りなさげなこの卵、産み落とされた場所の土や草の水分を吸って徐々に大きくなってゆくのだとか。なるほど、この細い体から生まれた5つもの卵。どうやって体の中に入っていたのかと思うほどだったのですが、『生まれてから大きくなる』と言うのがカナヘビ達の作戦なのでしょう。「へー」と思いながら卵とカナヘビちゃんを見つめて過ごした日々でありました。しかしびっくりは更に続きました。それから数週間したある日、また新たな卵が4個、産み落とされているのを見つけたのです。これにはびっくりの僕。前回の出産から今回まで、このカナヘビちゃんは確実に独り身だったのです。「なんで卵が産まれるの?鶏と同じようにカナヘビにも無精卵があるのかな?」と思ったりもしました。その答えは後に分かるのですが。
 カナヘビちゃんを飼い出したのが五月の終わり頃。そこから月日は流れ、一学期の終わりまでやって来ました。ある日の夕方、孵卵ケースの中で物影が動くのを見つけた僕。よくよく見てみるとちっちゃなカナヘビが一匹動き回っているではありませんか。「生まれたんだ!」と嬉しくなった僕。でも卵の大きさと比べてみたなら、よくこの中にこれだけのものが入っていたなと言う大きさ。ぎゅぎゅぎゅっと入っていたのでしょう。頭がちょっと大きくデフォルメされているようですが、立派なカナヘビでありました。次の日に子ども達に見せてあげようと思い、も一度朝に見てみると、更に3つの卵が孵化し、計4匹のカナヘビが孵ったのでありました。そんなカナヘビ達に子ども達も大喜び。数日一緒に過ごした後で、このおちびちゃん達を山に放してあげることにいたしました。一学期も残りあとわずか。子ども達は夏休みに入るので「カナヘビ達もお山にお帰り」と、これまで様々な素敵な体験をさせてくれたカナヘビちゃんに感謝しながら、お別れをしたのでありました。
 僕の元に後から生まれた卵が残されました。この卵達、気のせいかちょっとずつ大きくなっているような気がするのです。そこに希望を感じながら見守っていた夏休みのある日、また4匹のカナヘビベビーが生まれて来てくれたのでありました。これには驚きました。「すごい、カナヘビちゃん!。8人の子ども達のお母さんになったんだね」と嬉しくなってしまいました。自然はすごい。生み分け出来る能力にホントびっくり。母さんが餌をたっぷりと食べ栄養を十分蓄えることが出来たらなら、卵になって生まれて来ると言うすごい力。これなら『今年は餌が少ないから卵も少なく…』と言う作戦も展開出来るでしょうし、いっときにおなかに一杯卵を抱えていたなら動きも鈍り敵に捕まる危険性も上がるでしょう。「色んな自分にチャレンジしながら、カナヘビ達は現代まで生き残って来たんだろうね」と、そんなことを感じさせてくれたこの夏の『かなへび母ちゃん物語』でありました。

 僕らが『かなへび母ちゃん』から教わったのは色んな可能性に挑戦するバイタリティー。人間に捕まってもいじけることなく・餌を選り好みすることなく一杯食べて精一杯生き、自分の想いと命をつなげた彼女。それによってこの山に自分の想いとDNAを受け継ぐ新たな命が満たされて行ったのです。それは神様に感謝し今の自分を受け入れながら力強く生きようとしている僕らのお手本なのかもしれません。


戻る