園庭の石段からみた情景〜園だより10月号より〜 2021.10.6
人と人をつなぐもの
 今年の秋も気候不順。残暑厳しい毎日が続く中、逆に朝晩は例年以上に冷え込んで…と、子ども達も体調管理に苦慮しています。コロナ禍の中にありながらあんなに元気で『風邪ひきさん』もほとんどいなかったこの子達が、咳・鼻水・ぐずり等々、本来一番心地良く過ごせるこの季節にちょっと体調を崩し始めています。そんな季節の不順に自然のもの達もいつもと勝手が違う様子。幼稚園の桜の木も早くにはっぱを散らしはじめ、色づく前にもかかわらず残り三分ほどしかその枝にとどめておりません。例年ならこの季節に子ども達が大喜びで追いかけているバッタやコオロギもあまり見かけません。餌を探しあぐねたカマキリが時より運動会練習中の園庭に姿を現し、子ども達を騒がせている程度。昆虫界もこの朝晩の寒さで晩秋の様相を呈しているのでしょう。そんないつもと違う季節の中では自らの体調と生活のリズムを整えることの難しさを見せつけられると共に、「子どもって僕らよりもやっぱり自然に近いものなんだね」と言うことを改めて感じさせられたものでした。
 一方『生り年』で柿の木に鈴なりだった柿の実達。先月ヤギが喜び勇んで食べた青柿から完熟の頃を迎えまして、ゼリー化し旨味成分たっぷりの実をぽとぽと落とし始めました。それにつられてやって来た山のお客様。あるお昼時のこと、僕がいた会議室の窓の外から「ぴちゃぴちゃぴちゃ」と音が聞こえて来ました。「雨?」と思い、空を見上げてみれば上天気。「なんだろう?」と思って窓から下を見降ろしてみれば、舌鼓を打ちつつ完熟柿をなめている獣が一匹。でっぷりとした立派な体格の主でありました。この類の獣は顔をよく見てみなければ類別鑑定出来ません。この辺に現れるこの手の獣は、狸・ハクビシン・アナグマ・イタチ等。そのふとっちょの獣君。彼なりに警戒はしているつもりなのでしょうが、なにせ御馳走に夢中になっている食いしん坊で、僕が1mほどのところから覗いているのに気が付きません。『薄暮に紛れて』とか『夜中こっそり』と言うのが野生動物の行動のセオリー。白昼堂々と人間の住む家の軒先にやって来ると言うのはかなりの鈍感力の持ち主です。長いことそこに居続けるので、カメラの準備も出来ちゃった僕。写真を撮るために網戸を開けた物音に、やっと我に返り辺りを見回したお客様。上にあげたその顔からそれは『アナグマ』であることが分かりました。僕と目が合ったそのアナグマは驚いてそそくさと縁の下に潜り込みます。「おー、やっと逃げたな」と思いつつ、部屋の中で仕事をしているとあの「ぴちゃぴちゃぴちゃ」がまた聞こえて来ます。どうにも食べ残したあの柿が惜しかったのでしょう。結局最後まで食べ通して山に帰って行ったアナグマ君でありました。でもこの子の中には「ここのうちの人は大丈夫」と言う安心感なのか信頼感なのか、そんなものが確かに育っているんだなと、なんかくすぐったい想いがしたものでありました。

 毎月僕らが教師研修会でテキストに用いている『キリスト教保育』と言う月刊小冊子。今月のエッセイとして、教育心理学の先生が寄稿した『アタッチメント』をテーマにした文章が載せられていました。『アタッチメント』とは子どもと親・または教師の信頼関係のこと。文字通りそこを『取り付き口』として、子ども達は外の世界を垣間見たり冒険しに行ったりするのです。そしてそこに帰って来れば必ず守ってもらえる・受け入れてもらえると言う信頼関係が出来て初めて、子ども達は未知なる自分に大いに挑戦して行けると言うお話でした。最近、預かり保育での交流をきっかけに僕に心を開いてくれた男の子がありました。それまでは僕に対してちょっと斜に構えているようなところがあったのですが(それは僕の保育者としての実力不足に基因しているのですが)、一対一で遊んだほんの一時間のお預かり(ちびっ子ヘルパーちゃんもいたのですが)がとても楽しかったのでありましょう。お母さんが迎えに来ても「まだ遊びたい」「帰りたくない」と僕にとっては嬉しい言葉を投げかけて来てくれた彼。お母さんにちょっとだけ待ってもらって、その子の『もうちょっと遊びたい』と言う想いを満たしてあげることが出来ました。彼もそのほんの数分ほどの延長遊びのその中に、「受け入れてもらった」と言う充実感を感じることが出来たのでしょう。物分かり良く、にこやかにお母さんと帰ってゆきました。時間にしたならほんの5分間程のものでした。でも彼の「遊びたい」と言う想いに対してそれを受け入れてもらったこの体験は、5分以上の価値をその子に与えてくれたのでしょう。人と言うのはそう言うもの。『自分を受け入れてもらった』と言う喜びが何より大きな自己肯定感につながって、今度は「早く帰ろう」と言うお母さんの想いに対して「いいよ」と言ってあげられる心の豊かさを醸造してくれたのです。こうしてお互いに「いいよ」「いいよ」と受け入れ合う体験が、子ども達と大人をつなぐアタッチメントを『より確かなもの』へと成長させてゆくのです。このアタッチメント、僕らの掲げるキリスト教保育の基本にもある考え方です。『私達はそのままの自分を全て受け止め受け入れてくださったイエス様の愛に倣って、子ども達を認め受け入れることから始めましょう』と言う考え方。人間の精神的キャパシティーには限界があり、自分の力ではいつもそれが出来るものではありません。でも『私達もそうして愛してもらっているのだから』と言う想いに立てたならば、もうちょっとだけ頑張れるような気がして来ます。それがイエス様が私達に与えてくださった『アタッチメント』なのではないかと思うのです。
 それからは朝会う毎に「おはようございます」とにこやかに挨拶をしてくれるようになった男の子。運動会の練習で出番待ちをしている時も、近くに行けば「しんせんせい!」と笑って手を振ってくれています。その笑顔を見つめながら「僕もこの子のアタッチメントになれたのかな」とちょっと嬉しく思っている秋の日です。


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