園庭の石段からみた情景〜園だより12月号より〜 2021.12.3
線路は続くよ、どこまでも
 雨が降ると・風が吹くと季節がぽんと先に進むのはこの国の約束事のようであります。朝晩寒さを感じつつも、昼間のぽかぽか陽気に過ごしやすさを感じた11月。それが月替わりの日のその晩に、雨風激しく吹きすさぶフブキに加えて季節外れの雷鳴轟く嵐に見舞われて、明けてみれば日土の里は極寒の冬の様相に変わっておりました。そうは言っても零下に達した訳でなく、大寒の頃の寒さに比べたならかわいいものなのですが、人は『ヒートショック(極端な寒暖差)』に弱いと言うことを自らの軟弱な肉体と精神によって思い知らされたものでありました。小春日和の陽気に助けられ、この秋も自然の中で子ども達と一杯遊んで来た私達。一方で現実には暦は進みゆき、もう冬の訪れを覚悟しなければならない頃になろうと言うのに、「この心地良い季節がずっと続いてくれたなら…」と幻想をいだいていたのかもしれません。そんな夢見心地を覚ますために神様がお与えになったこの寒波。いくつになっても体感し身に染みて初めて『物事の本質』に気付かされる僕なのですが、これまで与えられた幸せに感謝しつつこの身を震えさせている今日この頃です。
 しかしそんな寒さの中だからこそ、今年のアドベントには見えて来る風景がありました。羊飼いが「寒い晩だなぁ」とにこやかにつぶやくページェント、手元には小さな焚き火の炎が灯るだけ。「寒いだろうなぁ」と例年になく感情移入もひとしお。またオリジナルの台本には4人の羊飼いがいたのに、今年は1人。「仲間がいればこそ、羊の番も楽しいだろうに。闇夜に一人は心細いだろうなぁ」と劇と現実が入り混じった変な感想が湧いて来ます。でも一人でもニコニコ顔でやってくれる男の子と彼を取り囲む6匹の羊達の図柄に、なんか救われるような気がして来るから不思議。「この羊飼いは日々の暮らしに不安をいだきながらも、神様を信じ『救い主』の到来を心待ちにしていたんだね」なんて思ったもの。そんなことを考えながら演じているはずもない彼の笑顔に、二千年もの昔を生きた羊飼いの『希望』を感じるのですからこれまた不思議。それと共にそんな彼の傍らで物言わぬ羊が寄り添って、実はこの羊こそが彼の心を支えていると言う逆構図に気付きます。羊をお世話していながら、実は羊に支え励まされている羊飼い。これってまるで幼稚園での僕らと子ども達の構図ではありませんか。羊の何気ない仕草に元気をもらい「また羊のためにがんばろう」って言うのは「僕ら教師そのものじゃん」と思わされたもの。例年にはない不思議な気付きの数々を与えられている今年のアドベントです。

 こんな寒さの中でも子ども達の『遊びたい』と言う想いは決してついえはいたしません。秋の運動会で体を一杯に動かして遊ぶことの楽しさを感じた子ども達。それからの外遊びやお散歩・登園時の坂登りなどでも「この子達、体力ついたなぁ」と思わせられる場面にいくつも遭遇して来ました。お母さんに手を引かれ・時には抱っこで上がって来たあの坂を、友達と一緒に駆け上がってゆく様を見つめれば、その成長の大きさと彼らに置いて行かれそうになっている自分の体たらくを感じます。でもそうやって彼らが刺激を与えてくれるから、「僕ももうひと踏ん張りがんばるか」と言う気にもなれるのです。子ども達との関わりは常に自分を映す鏡であり、放って置いたらどんどん楽な方へと流されて行きそうになる自らを、もう一度省み奮起させてくれる、まさに羊飼いにとっての羊のような存在なのでありましょう。
 そんな想いで過ごしていたある日のこと、一人の男の子が雨上がりの園庭で面白い遊びを始めました。台車で遊んでいた彼が、そのスタンドを地面に押し付けてひっこずれば『二本の線』が出来ることに気が付きます。それを見つけて「せんろ!」と言ってピンと来ちゃった男の子。園庭にそれで延々と線を引き始めました。園庭一杯にぐるっと線を引いた後、そこからまた『支線』を引き始めた彼。『本線』から派生しながら、支線もきちんとどこかにつながるようにレイアウトしてゆくからたいしたもの。彼のお仕事によって園庭には二重三重の線路が描かれて行ったのです。それを見つけたのが三輪車隊。まだ線を引きかけの台車の後ろにずらっと連なり、ぞろぞろみんなでついてゆくではありませんか。『ハーメルンの笛吹き』の昔話よろしく、後についてゆく子ども達。その光景に思わず笑ってしまいました。
 本来なら自由にあっちこっちに走り回りたいと思うのが『子ども心』と言うものですが、目の前に線路があれば辿ってみたくなるのも『子ども心』なのでしょう。それを強いられてするのではなく、本人達の自由意思で「やってみよう」と思ったならば、それは大きなモチベーションとなるのです。目の前に転がる面白いものを子ども達自らが『自己課題』として拾い上げたその時に、それは僕らの用意した『設定課題』よりも何倍も魅力的なものとしてきっとその目に映るのでしょう。「こんな子が将来先生になってくれたなら、この国の教育ももっと楽しく素敵なものになって行ってくれるのでは…」などとそんな風に思ったものでありました。

 子ども達がそれぞれ自ら様々な線路を引き出して、その中に規則性や新たな発見・そしてコミュニケーションを見出してくれたなら、それこそが素敵な学びの場となり得るもの。やらせ・やらされるカリキュラムでなく、自らの意思で選び取れる選択肢と、そこからいかようにもアレンジして構わない自由度の高さを兼ね備えたチャレンジ、それが『自由遊び』。遊び方の決められた玩具や集団のルール遊びにはない、素敵な可能性が秘められた『生きた学び』です。そしてその線路に導かれながら・互いに影響されながら、子ども達はまた新たな『支線』も生み出して行ってくれるはず。『線路は続くよ、どこまでも』。こうして本当に素敵な遊びはどこまでも、新たな学びや文化を生み出して行ってくれることを信じている僕なのです。


戻る