園庭の石段からみた情景〜園だより3月号より〜 2022.3.9
大切にしたいこと
 ようやっと暖かな春の日差しの中で背筋を伸ばして歩けるような、そんな時節となりました。寒かった頃にはネックウォーマーにニット帽・そしてお約束のマスクと言う格好で、子ども達に「オバケ!」と言って笑われたもの。知らない人から見たならば、なかなかこれ以上はないってくらいの『アイコン化』した不審者のイデタチ。でも「怖い!」って泣く子はおらず、冷やかし半分に「オバケ!」「オバケ!」と呼ぶのです。知った顔の子ども達からしてみれば芸人が演じるコントキャラのように見えたのかも。それはマスクと帽子の間から覗いている僕の二つの目ん玉が笑っていたからでありましょう。よく「マスクをしていると表情が分からない」と言いますが、だからと言ってコミュニケーションが成り立たないと言う訳ではありません。心許す間柄でなければそう言うこともあるかもしれませんが、子ども達は覆い隠された顔から覗いている僕の目玉から、マスクの下で浮かべているイタズラっ気たっぷりの笑い顔を想像出来ているからこそ、はやし立てるように愛着を込めて「オバケ!」と呼ぶのです。『目は口ほどにものを言う』。まなじりに幾重にも寄った笑い皺や、怒っている時とは明らかに違う眉の形、そんなものからこの子達は僕の表情を読み取るのです。そしてきっと僕ら大人でもそれが出来ると思うのです。その場の臨場感や間の空き方、そしてその目が対象をしっかと見つめているか・はたまたオヨヨと泳ぎ回っているかなどなど。毎日近くで暮らしている者同士だからこそ、そんな癖や特徴を捉えてその時々の想いを察することも出来ると思うのです。

 現代社会の中で私達は自分の見たいものを『コンテンツ』として求め手に入れる慣習を得、それを満たすためのインフラが整えられるようになりました。それらの多くは商業ベースであることから『見栄えのするもの』『美しく整えられたもの』が人気を集め、そんな『コンテンツ化』されたものに我々は慣らされてしまったような気がします。その中には『見どころ』が用意され、これを見れば高い満足度に満たされるように出来ています。しかし日土幼稚園では『子ども達の本当の姿を共に見つめ喜んでいただきたい』と言う趣旨の元、幼稚園活動の映像をドキュメンタリーの形で提供しています。撮影のためのシナリオもなく取り直しもない、一発勝負のドキュメント。だから間延びしていたりワチャワチャうるさかったりと、決して見やすいものではなかったかも。しかしその何気ない映像の中にこそ『子ども達はどんな想いでその活動に参じているのか』が無作為の内に描かれているのです。でも『その映像の中のどこの何に、我が子の想いを感じられるか』はお母さん次第。日頃、我が子の顔を・日常における所作をよくよく見つめてくださっているお母さんほど、その子の『見方』と言うものを熟知しています。他の人なら流してしまいそうになるささやかな振る舞いの中にも、その子の想いを感じていただけることでしょう。だからこそ子ども達の活動をそのままに、こちらの演出や撮影意図を彼らに求め押し付けることなく、「はい!もう一回!」と撮り直しをしたりすることもなく、DVDに収めて皆さんに提供しているのです。僕らの思惑ではなく、子ども達の想いをお母さんの感性を持って感じて欲しいから。

 もう一つ次元を上げて言うならば、このような記録メソッドを介さずにライブで見て感じていただける『参観』こそが、より一層この子達の想いを感じてもらえる時となってくれるはずと信じています。発表会にしても普段の園生活の映像にしても、カメラは状況が分かりやすいように・なるべく多くの子ども達が映るように、俯瞰の構図を取っています。それに対して『参観』でのお母さん達は我が子のことを一心に見つめています。そこから得られる情報量は映像の比ではないでしょう。また『動画』は子ども達の所作を音声と画像と言うデジタル情報に変換する際に、色々なものをスポイルして情報量を圧縮しています。DVDの映像を見ていると、ライブでやっていた時より大きな声で歌っているように聞こえたり、堂々と平然としてやっているように見えたりもするものです。それは会場内の音圧レベルによって録音感度が自動で上げ下げされたり、舞台上の明るさや背景の輝度に引っ張られて露出も変化してしまうからであり、映像からは伝わらないことも多々あるのです。DVDを見られた一般の方には「ちゃんとやっているじゃん!」って見える子ども達のことも、その場にいて見てくださったお母さん達は「今、ちょっと焦ってる」「ノリノリで調子に乗ってやれている」「今のはちょっと不本意だったろう」などとより深く考察されたことでしょう。それは日頃のコミュニケーションから我が子の『ひととなり』を知り尽くしたお母さんならではの分析と評価だと思うのです。そうしてお母さん達が得られた子ども達のがんばりや成長の実感と、本番までに彼らとの色々な関わりの中で体感して来た担任の先生の手応えを、分かち合いつつ振り返ることの出来る場となったからこそ、先日のクラス別懇談会ではお互いの想いを満たし讃え合うことが出来たと思うのです。
 『見世物コンテンツ』として見栄えの良い動画を提供するよりも、有観客での発表会にこだわった今回の『日土幼稚園発表会』。あの会場でマスクをして舞台に臨むこと、密にならないように半分ずつの入れ替え制にすることを選んででも、直接子ども達の姿をお母さん方に見ていただきたいと願ったのです。それが共に子ども達の成長を見守ることにつながると信じているから。それがお母さんと一緒に子どもを育ててゆく『幼稚園の子育て』だと思うから。今は専業制によって効率を推し進めるそんな時代。専門機関に任せて対価を払い、きちんとした完成度の高いものが得られるのが良いと言う考え方が時流となっています。でも「それを子育てに当てはめて良いのか?」とも思うのです。どんなに自分自身が拙い者であったとしても、その自分を『苗床』に子ども達は育ってゆくもの。未熟な親に反抗することで子ども達は自分自身の未熟さをも感じたり、親を反面教師として自らを正したりするための存在。その『苗床』として親は子ども達に大いに関わってあげるべきだと思うのです。完璧な理論に基づきセオリーとして提示されたものに従いながら『身の処し方』を定めて行ったなら、子ども達は『良い子』に育つかもしれません。しかしその一方で、『良い子』になれなかった子ども達は自らを自己否定し、自分の存在を価高いものとして受け止めることの出来ない子になってしまう可能性が高いのでは、とそんな風に思ってしまうのです。私達の『キリスト教保育』では、『神様が私達を愛してくださったように、私達も子どもを愛しましょう』と謳っています。神様は私達に『より善く生きなさい』と御言葉を与えてくださっているのですが、でも私達はその想いに応えられない。本来ならそこからはみ出してしまった我々は落第者として神様から見捨てられてしかるべきもの。しかし神様は私達との関係をあきらめない。繰り返し繰り返し私達を導こうと御声を投げかけて来てくださいます。私達は決して『善き者』『完全なる者』とはなれません。「神おひとりのほかに、善いものはだれもいない」とイエス様もおっしゃっています。そんな私達を神様が愛してくださるように、私達は子ども達を愛しつつ育てて行けたら良いと思うのです。私がどんなに拙い者であっても。子ども達がその想いに応えてくれなくても。ただただその関係をあきらめず、子ども達の今の姿に目を向けて、その成長を共に喜び自分自身も一緒に成長してゆける子育て、それが『キリスト教保育』だと信じているから。決して見栄えの良いものではないでしょう。こんな便利全盛の世の中にあって全然楽なものでもないでしょう。でもそんな自分を苗床としてこの子達が育って行ってくれたなら、それこそが自分が親として生きた証しになると思うのです。

 話を発表会に戻しましょう。子ども達にとってもマスク着用での発表は、もひとつ高い課題に向き合うこととなったはず。ただでさえ緊張する本番舞台ではセリフの声も口の開け方も小さくなってしまいます。でも『マスク有』が前提となって子ども達は、普段からより大きな声でセリフを言うことを心掛けたり、伝わりやすいようにゆっくりと良い活舌を意識した上で役を演じたりと、それぞれに工夫して挑んでいたがんばりをよくよく感じたものでありました。口元に負荷がかかりそれを意識した上で練習を重ねて来たからこそ、本番ではみんな練習やリハーサルを含めて『これまでで一番上出来』の演技を見せてくれたのだと思うのです。それに加えてもう一つ、完全二交代制の舞台と言うのも子ども達の心理に影響したのかもしれません。沢山のお客さんを目の前にすれば、大いに緊張するのは僕らも子ども達も同じでありましょう。でも今回、普段顔を見慣れている自分のクラスのお母さんばかりが客席にいると言う光景の中、その緊張の度合いも少し和らいだのではないかと思うのです。いつもはリハーサルの頃がピークとなって、本番舞台は7割8割の声や歌声が出たら良い所。一度は『リハ』をやり切った達成感と、本番の緊張感から大概そんなものなのです。それが『本番が一番の出来』だったと言う今回の結果にはそんな要因が寄与していたのかもしれません。年長児達の舞台では更に、『リハ』の時と舞台の順番が変わったり、劇の演出にも手直しが加わったりと、『毎回が新たな挑戦』と言う緊張感とそれに向き合う集中力が、『これまでで一番』の本番を演出してくれたのかもしれません。やっている方としたならば毎回ドキドキものだったかもしれませんが、その想いや舞台の上で自分と向き合う姿を、お母さん達には目の前で見て感じてもらうことが出来ました。皆さんからしてみれば、『マスク無しの可愛い我が子の笑い顔を見たい』と最後まで願っておられたことでありましょう。しかしあのマスクによって、子ども達はより自分の表現を高めようと努力し成長してくれました。お母さん達はわずかに垣間見える表情からその時々の子ども達の想いを読み取ろうと、一生懸命我が子を見つめてくださいました。そのことがより良く用いられ、今回の発表会を子ども達の『成長の糧』とし、また私達の『子ども理解の礎石』としてくれたのだと思うのです。全ては私達の思い通りではありませんでしたが、満たされない状況の中で神様は私達に『良いもの』を与えてくださいました。そのことを共に喜び感謝したいと思うのです。県内・近隣地域でのコロナ禍が拡大継続し続ける中で、あのような形で発表会を行ない、あのような嬉しい結果を与えられたこと。これは神様の御心以外、何によるものと言えるでしょう。減少し続ける園児数、先達から受け継いだ古い園舎と教育思想、それらを感謝し受け止めて『今出来ることを出来る形でやろう』と考え合ったその上で、なんとか実現したあの発表会。その発表会がもたらしてくれた子ども達の成長と私達の気付き。それらは偶然でありましょうか、はたまた思い過ごし・もしくはコジツケなのでしょうか。全てのことが私達の思惑ではなく、神様が導いてくださったこととして考え受け止めなければ、何も言葉に出来ないとそんな風に思うのです。

 この一年間の歩みが、まもなく終わろうとしています。そこでも全てが私達の思い通り・計画通りでは決してありませんでした。でもその中にも喜びを見つけながら・自分達の成長を数えながら歩んで来れたこと、何よりありがたく思っています。そして子ども達にもそのように神様の御言葉を語って来れたことを本当に嬉しく思います。どんな時でも祈り求めれば、神様はゆくべき道を与えてくださることを、改めて感じ実体験として教わった子ども達。ここでの体験を糧として、この子達が自分の未来を信じ・自分の可能性を信じながら、自らを・そしてこの地球をより良きものとして行ってくれること、そのことをただただ望み信じている僕なのです。


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