園庭の石段からみた情景〜園だより4月号より〜 2021.4.15
<桜しべ降る季節>
 『気の早い春』の訪れに桜は早くに咲き誇り、春休みの日土の里は満開の桜によって『この世の春』を謳歌して見せてくれたものでした。過去にもこんな春はあったのですが、そんな時には相中に『花冷え』のインターバルがありまして、花の命を長らえさせてくれたもの。しかし今年は桜の開花後も上々天気が続きまして、最後は春風に吹かれての花吹雪となりつつ『卒園』して行った桜達でありました。そして新年度が始まりました。新たな想いの私達を迎えてくれたのは青々と茂る葉桜と足元に敷き詰められた『桜しべ』。桜しべとは花が散った後のおしべ・めしべからなる花殻のこと。ついこの間、俳句のテレビでこの『桜蕊降る』なる季語があることを知り、この『桜しべ』を早速使ってみたくなった僕。番組では舞い落ちる一片の桜しべにその情景を感じる句が謳われていたのですが、幼稚園の桜しべはそんな生易しいものではありません。毎日毎日掃き集めても掃き集めても、翌日にはまた『真っ赤なじゅうたん』が敷き詰められまして、桜しべの掃き掃除から始まる一日の幼稚園となりました。こんなことを書けば「さぞかし辟易していることでしょう」と思われるかも知れませんが、これも『物事との向き合い方』で良くも悪くもなるものです。『やらされ仕事』と思いながらやっていたなら「楽な方がいい」「面倒くさくないのがいい」となるものですが、自分自身に対する課題設定と自己チャレンジと思ってみれば楽しめる要素は幾らでもあるものです。僕の掃除の『得物』は熊手なのですが、この熊手の一番得意とするのが実はこの桜しべ。しべとしべとが絡み合い、ひと掻きごとに山のように集められて来る桜しべ。『ひと掻きでどれだけ集められるか』『しべの山がどれだけ高くなるか』など、毎日足元のしべ達を見つめていれば自己設定の課題がいくつも生まれて来ます。そんなことを思いながら、毎日?き続ける桜しべに愛着をも感じる僕なのでありました。
 こうして桜しべと格闘しながら過ごした一週間。改めてひとところに集められた『しべの山』を見つめてみれば、よくぞこれだけの花が生産され新陳代謝したものだと思います。桜の花は花びらだけでは咲けません。花が取り付くこの『しべ』があってこそ、そこから花びらは栄養と水分を受け取りあれほどの見事な花を咲かせることが出来るのです。しかも咲いたきりでは次世代へバトンを託せません。きちんと花を散らせ『しべ』を落として、種の元としてのさくらんぼを実につけて後世にその命を託すのです。今年は冬がしっかり寒く、花咲きが良かったからでありましょうか。頭の上を見上げれば早くも青い『桜のさくらんぼ』がぶら下がっているのを見かけます。またこれも子ども達の色水遊び・そして小鳥達の『ごちそう』となることでしょう。今年はここからどんなオモシロ物語が誕生することでしょう。それを楽しみにしつつ、この豊かに与えられた自然に感謝したいと思います。

 さて、子ども達はと言いますと、そんな僕の想いを知るはずもなく、別の想いをもってこの自然の中で遊んでいます。新入りさんのお友達は朝は涙から始まっても、「ヤギにご飯をあげる」と自分の想いを立て直し、意気揚々とお外に飛び出して来ます。今月のキ保連刊行の小冊子にも同じようなエピソードが紹介されているのですが、あちらで描かれているのはウサギと子ども達との関わり合い。「自分よりも小さい命のお世話をすることで母親のような感覚が生まれるからでは…」と筆者の先生は考察されています。「なるほど」と思いつつもその相手がうちでは自分よりも身の丈も大きい一歳児ヤギ。また別の要因があるのだろうかと思い、子ども達の関わり合いを見つめます。するとこの子達のリアクションの中に「私のはっぱ、食べた!」「なんで食べないの!」と言う言葉と想いが多分にあることに気が付きます。「かわいい」と抱きしめられるほどに小さく可愛いヤギではありません。「自分が守ってあげないと…」と言うのもうちでは当てはまらないのかも知れません。それどころか、てがわれ過ぎると嫌になって気を荒立たせることもあるヤギ達に、遠くから手を伸ばしながら餌を口元に届けようとする子ども達。そんな姿を見つめながら、これって『自己課題設定と自己実現』なのかもねと思い至ったものでありました。『自分のはっぱを食べさせる』と言う自己課題に対して『ヤギがその葉っぱを食べてくれるか?』と言う自己チャレンジ。だから繰り返し繰り返し、僕らに頭上高く生り茂る桜葉を「はっぱ取って!」と求めつつ、相手のおなかのすき具合に関係なく口元にはっぱを運び続けるのです。そのうち『こっちのはっぱは食べるのに、あっちはダメ』と言う規則性にも気がつきまして、「それじゃない、あのはっぱ!」と僕らへのリクエストも厳しくなって参ります。こちらとしてはどちらもヤギが食べることを知っていて、一つの木から採り過ぎないようにと考えて取ってあげているのですが、頑として受け入れない子ども達。気まぐれなヤギの『食志向』とかたくなな子ども達の想いに振り回されている今日この頃です。しかし底知らずなヤギの食欲に「おなか一杯で食べられません」と言う文字はないようで、食べたいはっぱを差し出されたならムシャムシャ食べ尽くして見せるので、「ほら、見たでしょ!」と言わんばかりのドヤ顔で自分の正当性を主張する子ども達なのでありました。

 いずれにしてもそんなヤギと自らの想いに助けられながら、始まったばかりの園生活を楽しんでくれている子ども達。僕らだけではどうにもならなかったかも知れない新入りちゃん達のご機嫌を、こうして取り戻してくれる日土の自然と神様の御心に感謝です。僕らは彼らが発信している想いを感じその気持ちに寄り添いながら、降り積もる桜しべのごとくそれぞれの心に『嬉しい想い』を一杯一杯に降り積もらせながら、本当に涙が消えるその時を祈り待ち望みたいと思っています。


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