園庭の石段からみた情景〜園だより6月号より〜 2021.6.3
<想いのままならぬ『幸せな結末』>
 今年は早い梅雨入りを迎え、すでに幾たびか警報級の大雨を過ごして来た私達。しかし『ドカッと降ってはカラッと晴れる』、そんな今年の梅雨になんかちょっと変な感じ。日本独特のじめじめシトシトの長雨ではなく、熱帯雨林地方のスコールのような雨・雨・雨。その都度、災害につながるかも知れない気配を漂わせる雨に『自然の狂気』を感じます。でも『晴耕雨読』の四文字熟語のごとく、『田舎暮らし保育』をもっとうとしている日土幼稚園では、そのバイオリズムに従いながらこの梅雨の季節をみんなで味わい深くかみしめながら過ごしているところです。
 大雨の上がった日土の里は、平穏な日々からは想像だにしない変化が訪れ、僕らを驚かせてくれます。大量の雨と降り注ぐ日光のコントラストが、自然に息吹を与えるトリガーとなるのでしょう。雨上がりの丘の上では『破竹』が次から次へと顔を出し、それが数日のうちに子どもの背丈より大きくなってしまいます。山に繰り出しそれを見つけた子ども達はびっくりしながらも、『竹の子林』の中からお手頃サイズのタケノコを採って来ては嬉しそうに凱旋しています。また別のある日は大雨によって満たされた『いでご』に繰り出して行った子ども達。シトシト程度の雨では全く水のたまらなかったいでご(農業用水路)の中にイモリやオタマジャクシを見つけまして、これまた得意げに持って帰って来たものでありました。大雨には困ったものですが、雨降りの日は『室内遊びに勤しみながら、次なる活動に想いを馳せる日』とすればいい。部屋の中で身を寄せ合いながら読んだ絵本や一緒に眺めた図鑑から、「オタマジャクシを捕まえたい!」「デンデンムシを飼ってみたい!」と言う想いが育まれ、モチベーションを高めるそんな時になってくれたならいいなと思うのです。そうして得た知識と実体験による感動を融合させることの出来る『本物の自然』を神様から与えられたのが日土幼稚園。『自然保育を実践する器』として神様がお創りになった幼稚園だと、それだけは誇りに思っている僕なのです。

 今年もこの季節に『おもしろいの、みーつけた!』と銘打って行なうひよこクラブの為に、『おもしろいもの探し』に勤しんだ僕と子ども達。やはり子どもにとって『面白く感じるもの』とは『非日常』。いつもあまり見かけないものや、遠目に見ることはあってもまじまじと間近に見つめることがないもののよう。「それってうちで言ったらこれだよね」とご披露しているのが『日土の山の生き物達』なのです。インフラ整備や利便性向上を掲げ今日まで歩んで来た現代社会では、子ども達にとっての『非日常』が自然であり『異形の生き物達』であると言うことはなんとも皮肉に思えます。60年前にこの地で少年期を過ごした眞一さんが、『昔は何もなかったしお金もなかったから、遊びは自然由来のものばかりだった』と懐かしむように話してくれた言葉が心に沁みます。逆に今は何でもあるけれど、その社会を作り上げてゆく過程で自然が失われ、我々の生活圏に当たり前にいた生き物達が段々と姿を消してゆきました。でもこれは半ば致し方ないもの。時より昔を懐かしんで話してくれる先輩方も、「生活水準は60年前でいいから、昔ながらの自然の中での生活に戻りたい」とは言いはしないでしょう。昔話のその中には「俺達、ここまでがんばって来たんだよなぁ。捨てて来ちゃったものも一杯あったけど」と言う想いが込められているのではないでしょうか。現代の子ども達はその想いも過渡期も知らずに生まれ来て、『便利な世の中が当たり前』『異形の生き物などいないに越したことはない』と言う時代の雰囲気の中に生きているから尚更、『画一的』そして『排他的』に物事を見つめ受け止めるようになってしまうのではないかと思うのです。そんな子どもに大人も危機感を感じつつ、現代の社会資産を活用して経済活動の一環も担わせると言う目論見を果たしながら『バーチャル』な知的体験を推奨促進して参りました。ネットやDVD図鑑上の珍しい動物達を見ることで、子ども達の知的好奇心は飛躍的に向上しました。それに付き合う大人も生き物を扱うわずらわしさから解放され、必要な時だけ引っ張って来て知的財産を構築すると言う関わりに傾倒しがち。それも仕方のないことです。身の回りに生き物がいないのですから。しかしそこに次なる課題が生じて来ます。生き物の『生き死に』と関わらずに、そのものを知った気になる子ども達。物知り博士は昔と比べて倍増しましたが、その命の重みを知っている子どもがどれだけいるでしょう。必要のないものは見ない。用が終わればスイッチOFF。生き物の命に関して自分の手を汚したことがない(自分の過失や驕りで生き物を殺してしまった経験がない。そして死んだムクロの後始末をしたことがない)。そうした育ちが生み出す社会のひずみから生じた惨劇がいくつあったことか。『役に立たない者は生きていてもしょうがない』『人を殺してみたかった』、幼き頃に命ときちんと向き合った経験が得られなかった子ども達は、命の大切さを感じる感性を持たないまま大きくなってゆくのです。それらの人々が特殊であると言って捨てるには何か不穏な空気を感じるこの世の中。ネット上での誹謗中傷・SNSのいじめはそれらの一歩手前。『言葉の暴力』は絶えず人を傷つけています。自分はそんなつもりはなくても相手を傷つけてしまうことがあることを知ること・そしてその体験が今の子ども達には必要なのだと、そんな風に思うのです。

 ちょっと前に幼稚園の子ども達の間にダンゴ虫集めが流行りました。その時は「捕った日のお帰りには逃がしてあげよう」と言うことでダンゴ虫の『デイ・サービス』(餌をあげる前に帰していたのでサービスにもなっていなかったかも知れません…)をしていたのですが、今回はひよこクラブの為に捕った後しばらく飼ってみることにいたしました。たかがダンゴ虫と言うなかれ。ダンゴ虫はちゃんと飼育したならば、色んなことを教えてくれる『大先生』。その様相を注意深く観察すると、その特徴からオスとメスを見分けることが出来ます。また脱皮をしながら大きくなってゆくので、脱皮途中で殻を半分被ったままのダンゴ虫を見かけたり、「これ死んじゃったの?」と思い白くなった物体をよくよく見ればそれはダンゴ虫が脱いだお古の殻だったり。フンはなぜかカクカクした四角い形であることもケース内の観察から分かります。極めつけはしばらく飼った後の飼育ケースの中に、しらみのような白いゴマ粒ほどの個体を見つけることがあるのですが、それがダンゴ虫の赤ちゃんであると言うこの事実。色んな生き物を飼って飼育してして来た日土幼稚園ですが、繁殖と言うのはなかなかハードルが高く、新しい命の誕生に立ち会えることはやはり稀なことなのです。そう言う意味でもダンゴ虫は本当に素晴らしい先生なのです。
 しかしそれと同時に飼えばダンゴ虫の死も日常茶飯事。飼育本に教えを請いながらお世話していても、しばらくして餌の枯れ葉の下を覗いてみると死んでしまったダンゴ虫が何匹も出て来ます。それを丁寧に集めていると子ども達が寄って来て「なにしてるの?」と尋ねます。「ダンゴ虫が死んじゃったから、集めて埋めてあげるんだ。手伝ってくれる?」と言葉を返すと、乗り気でない表情が浮かんでいるのが分かります。それはそうでしょう。捕る時には大喜びで何匹も何匹も捕まえて来たこの子達。「ダンゴ虫を一杯捕まえたい」と言う自己欲求に対してその想いを満たされ、その時はそれで大満足。しかし捕獲時のつまみ方が悪かったのか、はたまた飼育ケースの環境が悪かったか。死んで動かなくなってしまったら愛しさも反転、それは気味の悪い虫の死骸。そこには『自分が殺してしまった』と言う自責の念もありません。ポイポイと捨てて『おしまい』にしようとする姿にちょっと待ったをかける僕。「ひよこクラブの為に集まってもらって、そこで死なせちゃったダンゴ虫。僕らが捕まえなかったら死んでなかったかも知れないよね。だから先生はこの子達をちゃんと土に埋めて『天国で元気に暮らせますように』って神様にお祈りしてあげたいんだ」。そんな言葉にやっとスイッチが入ったその女の子。一緒に土に埋めて、お祈りもしてくれたのでありました。僕らは本物の命を用いて『命の大切さ・命との向き合い方』を子ども達に感じて欲しいと願いつつ、想いを投げかけています。日土幼稚園の自然自慢をしている僕ですが、このダンゴ虫のように身近な生き物との関わりならば、どこの園・どこの家庭でも出来ること。珍しい生き物や希少価値で高値が付くようなペットだと逆に『大人の都合』をどこかに含んだ不純さを介在させてしまう気がするので(値段が高いから・珍しいから大切なんだと言う履き違えた理解)、デンデンだとかダンゴ虫のように本当に身近な生き物との関わりを学びのテキストとするのが望ましいと思うのです。

 そうは言いながらひよこクラブに来ていただいて見てもらうのですから、大人の目にもちょっと『見慣れないもの』をお見せしたいと思うのが人情?はたまた経営努力。「人を集めるならばもっと他の努力があるでしょ」と言われてしまいそうですが、日土幼稚園を分かってもらうための努力(しかも僕に出来ること)はこんな酔狂なことしかないのです。梅雨入り前にお預かりの子と『いでご』に行った時にはシュレーゲルアオガエルを見つけたのですが、「この子をひよこクラブまでのひと月間も飼っておくのはかわいそう」とその場で逃がしてやりました。もっと近くになってからまた捕まえられたらいいと思ったのです。でもそれ以来、雨が降るごとにカエルの声は聞こえるものの、姿はお目にかかれないままの日々です。また用事で印刷室に行った時のこと。コピー機の原稿台カバーを開けたなら、ちょろちょろっと飛び出して来たのはヤモリ。捕獲を試みたのですが、すんでのところで逃げられてしまいました。一度は覆う手のひらに入ったヤモリでしたが、やはり自然のものは鍛え方が違います。生き延びる能力に秀でたその身体能力に感心しつつ、逃がした魚の大きさを痛感したものでありました。あとひよこクラス当日の朝、ホールの石段にカナヘビを見つけた僕。持っていた荷物を地面に置いて捕獲体勢に入ったのですが、その隙に逃げられてしまいました。結局、日土の山の『目玉達』にはことごとく逃げられてしまったのですが、それでも子ども達が見つけてくれた体長1cmに満たない『ちびガニ赤ちゃん』や2cmほどの『赤ちゃんカマキリ』などをご披露することが出来ました。やっぱり『自然のものは人の思い通りにはならない』と言う摂理を、これまた僕らに教えてくれた日土の山の生き物達でありました。
 そんなひよこクラブとなったのですが、ひよこちゃん達はイモリにサワガニにオタマジャクシにみんな大喜び。水をかやしそうな勢いで前のめりになって飼育ケースを覗いておりました。僕にとって・子ども達にとって・そしてひよこちゃん達にとっても、今回の『生き物大集合』はまた色々なものを与えてくれた学びの時となりました。『自然は思い通りにならないけれど、僕らの想いをはるかに超えた良いものを与えてくれる存在』であることを改めて感じたものです。そしてもう一つ、『子どもも自然の一部』であることをもう一度ここにしたためておきたいと思うのです。子どもが自分の思い通りにならなくて、不安を感じている僕ら大人。でも「『自分の思い通り』ってそんなに大切な物なの?そんなに正しいものですか?」と言うことをもう一度考えてみたいのです。確かに自己満足は満たされないかも知れません。でも自己満足と言うものは、ひとつ満たされたならまた『次の満足』を求める永遠のスパイラル。それよりもお互いの満足を満たし合うことの方が大切なのではないかと思うのです。譲れない所はあっていい。でも譲り合い・赦し合い・愛し合うことがきっと大事。自分の決め事・想いから外れながらも導かれて行ったその結果として神様が与えてくださるものこそが『幸せな結末』なのだと僕はそう信じています。それを受け入れられたその時に、僕らは本当に幸せになれるのでありましょう。


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