園庭の石段からみた情景〜園だより7月号より〜 2021.7.1
子ども達の『カエル成長物語』
 今年の梅雨は色々な体験を子ども達にさせてくれる、そんな梅雨となっています。梅雨と言っても晴れ間の多い『お天気の日』に恵まれて、子どもも自然も元気元気。お外に飛び出して行ったその先で、ヤゴを見つけ・カナヘビを捕まえ、再び『幼稚園の山の仲間達』が増えつつあるところです。とりわけ秀逸だったのは子ども達の飼っていたオタマジャクシがカエルになりつつあった頃のこと。潤子先生が「カエルが逃げ出してる!」と叫んだその先に目を向けたなら、母屋玄関の『すのこ』の上に体長3cm程のこげ茶色のカエルが一匹。僕らが飼っていたのはアマガエルのオタマジャクシだったので、カエルになりたてならたかだか1cmほどのもの。「カエルになったからって言ったって、急にこんなにでっかくならないでしょう!」と思いつつ、僕も人のことは言えないうちの家系の『天然ぶり』に「・・・」となってしまいました。しかし真偽はともあれ、その発見のおかげでこのカエルを捕まえることが出来たのですからそれはそれで良かったのでしょう。こんなことがある度に「この個性も神様に与えられた賜物」と感謝して受け止めている僕なのです。
 ぱっと見、『ニホンアカガエル』だと思ったこのカエル。ケースに入れて、この個体と図鑑や解説本を見比べてみると『ヤマアカガエル』だと言うことが分かりました。野生の生き物には個体差が大きく一枚の写真で判定すると間違うことも多々あります。この二種の識別も難しいのですが、あれこれ調べたその結果、幼稚園で初確認となった『ヤマアカガエル』と判明。数年前に『ニホンアカガエル』は飼ったことはあるのですがこの子は初めて。またしばらくの間、子ども達と見守ってゆくことにいたしました。日に日に増えてゆく飼育ケースですが、いつも子ども達が群がっている訳ではありません。でもふと目に入った時、ふらっとその前を通りかかった時、何かが気になりそれがその子にとっての『大発見』につながるなんてことになってくれたなら嬉しいことと思うのです。『誰が何を教える』と言うものではないこの学び。でも自分の気付きで何かを想い、それが自分を高めてくれるものとなってくれるようにと、僕らは『環境作り』をするのです。やらされ・詰め込まれて学ぶのが勉強ではなく、『知ることを喜び、学ぶ楽しさを知ること』それこそが、これからのこの子達を自ら育ててゆく糧となるものだから。

 それからしばらく経った頃、子ども達のオタマジャクシが一斉にカエルに姿を変えてケースの壁面に取り付き、『変態』の完成をじっと待つ時となりました。それまでは順調に成長して来たオタマ達。でもこの時期のオタマガエルが一番危うい状態なのです。オタマの頃はエラ呼吸をしていたのがカエルになるにつれて肺呼吸へと体の機構を変えてゆくこの子達。しかし『意識?』がそれに伴わないと大変なことになるのです。こうして水から上がって来ると言うことは、「なんか変だな?」と言う感性とそれに従い行動する本能がうまく機能している証拠。でも「なんで自分は水から上がろうとするのか?」と言うロジックなど持ち合わせているはずもありません。だから良し悪しでなく生き物は『本能』に導かれその行動を決めるのです。それが何かの拍子で水の中に再び戻ったカエルは『自分がカエルであること』を認識していません。水の中で溺れて『溺死』するものが中にはいるのです。『カエルが溺れる』と言うと笑われる方もいるかも知れませんが、カエルは肺呼吸なので水から出て空気を吸わなければ死んでしまいます。オタマだったころの『記憶?』も残っているのでありましょうか。水の中にいるうちに、「こっちの方がいいや」と思う個体も出て来るのでしょう。それはそうかもしれません。体の仕組みが変化してゆくその過程では、痛みや苦しさなどの不快感をきっと感じていることでしょう。だから何も食べず、体が出来上がるまで水から上がってひたすらじっとしているのです。そんな時にふと水の中に再び入ってみれば、「こっちの方が気持ちいい!」と感じるのかもしれません。そしてその想いのまま水の中に居続けたなら、自分さえも気付かぬうちに溺れてしまうのでしょう。
 でもこれってなんか幼稚園の子ども達の姿にも似ているような気がします。母親との関係の中に安らぎを感じ、心身共に成長をして来た子ども達。その次に『社会』と言うものに向き合うことを求められ幼稚園にやって来ます。初めはひよこクラブなどお母さんと一緒の環境の中ではしゃぎまわって遊んで見せたりもしてくれるのですが、次はお母さんがいない環境で過ごすことを求められることになります。それが入園。いっときはあのお母さんとの日々を恋しく思い、別れ際に大泣きしたりして新たな環境を否定することもあるのですが、心と体が外の世界に慣れて来たなら「あんなに泣いたのは何だったの?」と言いたくなるほどの掌返し。それはお母さんへの愛着(アタッチメント)を介して外の世界を覗きながら、外界との間の行ったり来たりを繰り返しながら、外の世界とつながってゆけるようになった成長の証しなのでしょう。そんなお母さんからバトンを受け取って園生活における『アタッチメント』となるのが先生達。先生の想いの中に・そして先生との関わり合いのその中に自分の居場所を確かめながら、子ども達は新たな自分に挑戦し自分を開発してゆくのです。その過程において自己実現が出来ず自己肯定感が得られなくなることも多々あります。そんな時はあの自己肯定感に満たされたお母さんとの関係に立ち戻りたくなるもの。たまにはそれもいいでしょう。自分を全肯定してもらえるぬるま湯にその身を浸しながら呼吸を整えて、もう一度挑戦しようと言う想いを温め直せたならそれでいい。子ども達も本能ではきっと分かっているはず。私達はそんな時には愛情の海の中で受け止めて、しっかり心を落ち着けてから「さあ、行っておいで」とそっと背中を押してあげたらそれでいいと思うのです。その時は押したり引いたりの『促し』が何より肝要。決して焦らず逸らず、その時が与えられることを信じ想いを投げかけ続けることが大切。「早く早く」と急かしたり、「もう行かなくて構わない」とそこに留まることを示唆したり、自分の想いやタイミングで子どもの成長を具現化しようとすること、それは『溺愛の海』で子どもを溺れさせてしまうことにつながりかねません。『溺愛』とは愛し過ぎることではありません。愛には『過ぎること』はないのだから。『溺愛』とは愛と言う名の元に自分のエゴを押し付けること。そうならないように私達は、子ども達が自分の呼吸・そして自分のタイミングで再び丘の上にあがってゆくそのために、惜しみない愛を投げかけつつ神様が与えてくださるその時を待ち続ける者でありたいと思うのです。

 話をカエルに戻しましょう。そんな状態のカエル達を溺れさせないそのために、僕らに出来ることは出来るだけ早く自然に帰してあげること。勿論外敵から守られている飼育ケースのその中にいれば捕食されるリスクは低くなります。しかし自然の中で生きる実感を得られぬまま死んでしまうのはきっと彼らの本意ではないはず。『自然の中で自分の力と想いで生きること』を一瞬でも味わうことが出来たなら、それはきっと彼らにとって生まれて来た証しになるはずだから。と言うことで各クラスで『カエルを逃がそうよキャンペーン』が繰り広げられたのでありました。ちっちゃいクラスでは『食べ物』が課題に上げられディスカッション。美香先生から「カエルが何を食べるか、すみれさんに聞いて来て」と言われて子ども達がすみれの部屋に馳せ参じます。戻って来るとその手には書いてもらったメモ書きが握られていて、「はえ・か・みみず…」となかなかに採集するのが難しそうなものが書いてあります。「カエルさん、こんなものを食べるんだって。みんなは捕まえられないでしょ。お外に逃がしてあげたら、カエルさんは自分でこんなもんを捕まえて食べることが出来るの。逃がしてあげよう」と言う美香先生の言葉に対して「にがさん!」とかたくなに拒む男の子。「なにも食べれなくて、死んじゃったらかわいそうでしょ」「だめー!」。「みんなも好きなものを食べたいよね。ピーマンばっかりでもいい?いやよね」「にがさん!」と押し問答は続きます。その日はそんなやり取りがお帰りまで続きまして、みんなでこのカエル達について話し合ったとのことでした。
 一方のすみれ・ももさんは『カエルの基本的人権』がテーマに。餌集めに関しては多少腕に覚えのあるこの子達。これまでにも生餌を採集し与えながら生き物を飼った経験もあるので「飼う!」「お世話する!」と主張して来ます。確かにばらさんの「にがさん!」には意思と想いは込められているものの、それがどうしたら具現化出来るかに関してはノープラン。それに対して「ちゃんとお世話するんだから飼ってもいいじゃないか」と言う主張には説得力もあるようにも思えます。しかしここに『出来るんだからいいじゃないか』『なんで我慢しなくっちゃいけないんだ』と言うエゴが住まう温床が生まれても来るのです。
 コロナ禍のジレンマを体験して来たこの子達にとってこの一年間、『自由』の大切さを身をもって感じて来たはず。遊びたい盛りのこの子達、親に言われてもじっとしていないであろうこの子達が、「コロナになったらいけないから」と大人以上の『自粛心』を見せ実践してくれた一年でした。本当に頭の下がる思いです。大人が作り出してしまったこんな世界のしわ寄せを、一番小さなこの子達が必死で受け止めようとしてがんばっているこの姿。都会で「もう自粛なんてやっていられない!」と言ってやりたい放題やって見せる『大人になれない大人達』に煎じて飲ませたいと思ったのは僕ばかりではなかったでしょう。真理先生も子ども達に『相手の立場になって考えること』を課題として投げかけます。「みんなもお家から出ちゃダメ!って言われたらどう?」。去年は『コロナ禍の自粛』と言う名のもとに、一日ポテチを食べながらテレビの前に座り込んでゲームだのユーチューブだのでゴロゴロダラダラ過ごしたその結果、『幸せ太り』しちゃった子があったと言う話も聞きましたがそれは少数派でありましょう。「ほんのそこいらでいいから」「何がなくともそれでいいから」とそんな想いで、親子でうちの『ヤギ牧場』までお散歩して来て、ヤギを見・草花を摘み摘み歩きながら想いをリフレッシュして帰って行かれた方が何人も何組もありました。食べ物やおもちゃなどで満たされた閉鎖空間、それは大人からしてみたら子どもをコントロールしやすい『ホーム』の空間であるはずなのに、そこから出ることを禁じられたならフラストレーションを感じるのです。それは子ども然り・大人も然り。「だったらカエルだってそうでしょう」。最後は真理先生の想いが子ども達にも伝わって、みんなでカエルを逃がしに行くことになりました。
 『どっちが楽』とか『どっちが得』ではないのです。神様に命を与えられた生き物であるならば、『自由に生きたい』と言うのは誰もがいだく純粋な心の叫び。神様はそのように生き物を・そして私達をお創りになりました。何度も何度も過ちを犯す私達をその都度正しながら・悔い改めさせながら、でも私達から『意思』を取り上げず私達の想いを尊重し自らの想いをもって『神様の御心』を履行するものとなさしめて下さったのです。言うことを聞かせるだけならば、人間を意思のない操り人形とすれば良いのです。しかし神様はそうなさいません。人間とのダイナミズムを持ったやり取りを・想いの交わし合いを望まれて、私達の祈りや賛美の歌声を喜んでくださる神様。幼稚園における教師と子ども達もそう言う関係。だから先生達は子ども達の言葉を・そして成長を、自分のことのように喜び受け止めながら、子ども達にも自らの想いを投げかけてくれているのです。これらのことを『カエル人権問題』を介して受け止め理解してくれたこの子達にとって、これは大きな学びだったと思います。友達との関わりの中でも意見や想いがぶつかることもあるでしょう。その時は往々にして感情的になっているでありましょうから、なかなか自分を省みることは出来ません。『相手が悪い』『相手が間違っている』と思ってしまいがち。しかし今回の相手は物言わぬカエル。相手が『物言わぬ者』それゆえに、自分が相手の立場になってみなければ・相手の想いを代弁しつつ自分自身とディベートを交わしてみなければ、気付けなかったことでありましょう。こうしてどちらのクラスもアプローチの仕方こそ違えど、カエルとの関わりを通して子ども達に『相手を想いやること』の大切さを、考え実感出来る時を持たせてくれたのでありました。この子達、おかげさまで良い学びをしています。

 さて、カエル達を逃がすことにした子ども達。捕った所へ帰してやろうとクラス毎にいでごに出かけてゆきました。『捕った所へ帰す』、これは基本。生態系や種の保存を考えたならそれが原則。一方で僕などは『幼稚園にカエルを増やしたいなぁ』なんて下心があるものだから、中庭や裏の水槽のところへついつい放してしまいます。もっともこの十年来、子ガエルを放した所で親になったカエルを捕まえたことが一度もないので、このことに有意差はないのでしょう。カエルのテリトリーや行動範囲から言ったなら、いでごも裏の水槽も変わりないのかも知れません。であるならば『お家に帰る』と言うノスタルジー&センチメンタリズムの色濃い『いでご放流』が、この子達の心に残る思い出作りのためには適切なのかも知れません。そんなことを思いつつ、この子達の『いでご行』に同行した僕でありました。
 飼育ケースの中で暮らして来たカエル達。カエルになりつつあるも完全に『変態』が終わるまではじぃーっとしているものですから、『カエルとはそう言うもの』と子ども達も思ったことでしょう。中には『オタマジャクシがいなくなってカエルが出て来た』と解釈した子もあったようで、「オタマジャクシは石の下にまだいる」とずっと主張してたそうな。『足が出て手が生えて…』と言う成長の過程をずっと見て来たはずなのですが、土日を挟んだ三日間の変化が大きすぎて『オタマの成長』として受け止められなかったのでありましょう。解剖学者の養老孟司先生によりますと『あれとこれは同じ』を認識出来るのは人間の特化した能力だと言います。僕達はアマガエルのオタマジャクシとウシガエルのオタマジャクシをどちらも『これはオタマジャクシ』と認識出来るのですが、それは特殊な能力だと言うのです。それぞれの差異を認識しながらも微細の違いであるディテールにフィルターをかけて、同じ特徴を抽出して分類しているのです。でもこのオタマジャクシの成長を見つめて来た子ども達にとって、成長と成長の間の姿を『補間』したり、最後に見た姿からその後を想像する『予測』は経験を伴わなければこれまた身につかない能力だとも言えるのでしょう。僕らは答えを知っているから分かるだけ。子ども達の『発見』や『感動』はこれらのゆえに僕ら大人よりも相当感度が高いのだと改めて思わされたものでした。「だからこの子達の感動体験はもっとずっと大切にしてあげなくっちゃ」と思ったエピソードでありました。そんなカエル達が頭上の蓋を開けられ、「さあ、お帰り」と拘束を解かれたならば、すぐさまびよーんと跳んで外に飛び出すものだからみんなびっくり。体長1cm程のちびガエルが30〜50cmも跳ぶのですから、どれだけ驚いたことでありましょう。リズム遊びでは「カエル、ぴょーん!」なんてやって見せるこの子達ですが、本物の『ぴょーん』を見て大喜び。それからのお部屋でのリズム遊びやプールでの『カエルジャンプ』の力の入りようと言ったらありません。『本物』の力の大きさをまざまざと感じさせられている僕らです。
 そんな中、ケースに一匹だけ残ったカエルがおりました。子ども達が促してもなかなか出てゆこうといたしません。それはそうかも知れません。みんなが毎日餌をくれて、汚れた水も替えてくれる。敵に襲われることもないし、「ここは良い場所」とカエルが思っても仕方ありません。この子は実は一番賢いカエルなのかも。他の仲間達は本能のままに外の世界にぴょーんと飛び出してゆきました。その用心深い末弟のカエル君。子ども達の「がんばれ!」の声に背中を押されて、傾けたケースのふちまでにじり歩いてやって来ました。そして僕らの「ぴょーん!」の期待などどこ知らぬ顔で、一歩一歩前に前に歩きながら外の世界に足を踏み出してゆこうとしています。『カエルは跳ぶもの』『跳んでくれたなうれしいな』と言う僕らの想いとは違うものでありましたが、これもまたカエルの姿。自然の中で生きるうちに必要に迫られ、また「この方がいい!」のひらめきにいざなわれ、跳び回ることを覚えて行ってくれることでしょう。『オタマはオタマ。カエルはカエル。でもみんな一緒でなくてもそれでいい。自分らしく生きてゆければそれでいい』、いつも僕らが子ども達に投げかけている言葉ですが、ついつい他の子と比べ・自分の想いとの乖離に苛立ってしまうのもこれまた僕ら大人。「そんな自分を省みなさい」と神様が見せてくれた『末弟カエル君の姿』だったのかなぁと思ったものでした。「ぴょーん」じゃないけど、大ジャンプでもなかったけれど、いでごに帰ってゆけたこのカエル君の姿を誰より喜んでくれたのは子ども達。そうなりたいと願い、それを自分も出来るようになりたいと望みながらも、でも出来なかった経験をみんな持っているであろうこの子達。誰よりもこのカエル君の自己実現の喜びを分かち合えるのがこの子達なのだと思うのです。相変わらず放した土手のすぐ近くでまったり過ごしているこのカエル君をいつまでも目で追い見つめながら、カエルと同じ格好でいつまでもその場にしゃがみこんでいた子ども達でありました。
 こうして今年の子ども達の長い長い『カエル成長物語』がひとまず終わりました。成長したのはカエルだったか・はたまた子ども達だったか、言わずもがな。その中で色んな学びと気付きを得たこの子達。この次、生き物と関わる時・友達と向き合うその時に、それぞれの心に優しさや思いやりが芽生えて来てくれたなら嬉しいことと思います。のっそりのっそり・一歩一歩のゆっくりこで構わないから。


戻る