園庭の石段からみた情景〜園だより9月号より〜 2021.7.15
帰郷2021夏
 毎年大荒れの7月初旬。3年前の西日本豪雨を筆頭に、去年も『大雨警報で休園』となった記憶からそんなイメージが定着してしまったような気がします。それが今年は梅雨入りが早く、警報に関連する自由登園が一度あったものの、その後は比較的落ち着いた『夏の入り』までの日々を過ごして来ることが出来ました。その間、行事ごとにお天気も守られて順調に歩んで来れたこと、神様に感謝でありました。一方、今年も大雨に見舞われた伊豆や山陰・その他の地方では、半ば「人災では?」と自分達の文明の罪深さを省みずにはいられない災害のニュースに心痛めたもの。エネルギーを無尽蔵に使う行為が引き金となって起こる異常気象、自然が本来持っている『自律能力』(大雨にも対応し得る保水能力や大地の崩壊防止に寄与する自然物のレイアウト)を破壊する乱開発。この文明の恩恵を甘んじて受けている僕らは紛れもない加害者であり、それによって3年前のようにいつ被害者になるか分からない『か弱き者』であることを感じます。だから僕らはこれ以上この国の自然が痛まぬよう・傷めぬようにつつましく暮らせることを願うと共に、人間に対して自然が発する『警告』から守られるよう神に祈ることしか出来ない者なのです。
 そんなことを祈りながら『自然を大切にすること』を保育を通して・実体験に基づいて子ども達に教え諭し続けている日土幼稚園。日々忙しいカリキュラムの間を縫って野山に散策に出かけたり、そこで出会った生き物達を飼って一緒にお世話してみたり、そんな投げかけを子ども達にしています。現代においては図鑑や動画でいくらでも見ることの出来る自然生物。でも数日お世話を怠っただけでケースの中に臭いが立ち込めたり、一晩の間に仲間同士で喧嘩して死んでしまったり、そんなことは自分で飼ってみなければ分かりません。こんなハプニングに悩まされる『わずらわしさ』があるのですが、そのわずらわしさがあるからこそ、オタマジャクシがカエルに成長出来た暁にはみんなで一緒に喜び合ったり、死んでしまったものの死を悼みその命に深い想いを込められるようにもなるのです。今年の夕涼み保育で『飼っていたデンデンムシが誘拐された』と言う導入で行なわれた『園内きもだめし』では、「もういいじゃん」と言う先生に対して「デンデンムシが死んじゃったらかわいそうだよ。まだ赤ちゃんのもいたのに!」と半泣きの声で探しに行くことを訴えた女の子がおりました。この幼稚園でそんな純真な心が育ってくれていることを嬉しく思うと共に、そんな子ども達を試すようなことになってしまった自らの心を省みさせられる時ともなったものでありました。『世の光になりなさい』と言う聖書の御言葉を体現し、僕らの心をまばゆく照らしてくれた女の子。これからもこの幼き日の心を忘れず、真っ直ぐ大きくなって行って欲しいと願っています。そんな子ども達にお世話されて来た『日土の山の仲間達』。暑い夏が近づいて来たこともあって、先日全員逃がしてやりました。例年、お別れをしたらなかなか再会することはないのですが、子ども子達の手厚いお世話に情も湧いたのでありましょう。二週間前に園庭の片隅に放したアマガエルを今年は同じところで見つけたり、先週アジサイの根元に逃がしたカナヘビが新館のスロープの上を走っていたのを見かけたり。「ああ、帰って来てくれたんだ」と彼らの『帰郷』を嬉しく受け止めたものでありました。彼らがいつでもここに帰って来れるように、ここが彼らの楽園としてあり続けることが出来るように、僕がこの地における勤めを勤め上げたその後も、この日土の里の自然だけは残しておいてあげたいと、その情景を見つめながら思ったものでありました。

 今年も保内中学の職場体験実習が行われ、3人の女の子が幼稚園にやって来てくれました。一人は日土幼稚園の卒園生。向上心と自意識の高かったこの学年の女の子達。仲間内で切磋琢磨する姿と、それぞれにいつも目一杯がんばっていた8年前のこの子達の姿を、昨日のことのように覚えています。事前の顔合わせでは今年のOBはこの子一人だと思っていたのですが、後日、実はもう一人知った顔があったことを思い出した僕だったのです。
 5日間の実習のうち、最初の3日間は園の個人面談の日に当たっていて、時短バージョンの保育&実習となりました。プールをするほどの時間はないけれど、梅雨のさなかにありながら暑い日が続いていると言うことで、この週のメイン遊びは『水着を着ての水遊び』となりました。子ども達は『完全びしょ濡れ対応』の格好なので水鉄砲を使っての水合戦もへっちゃら。段々と遊びがエスカレートしてゆきます。最初は遠巻きにその姿を見つめていた中学生達。初対面の子達との距離感がどんなものなのかまだ分からないのと、ちょっと遠慮&お客様意識で「こんなことしていいのかな?」って顔でその場にのめり込んでゆけません。そんな中学生に対して『遠慮なし』の子ども達。最初こそ『ほどほど』を実践していたものの、それに対する中学生のリアクションが良好であったのが功を奏したよう。大げさに「ひゃー!きゃー!」言いながらも顔は満面の笑みではしゃぎまわる彼女達のフレンドリーさに子ども達もすっかり心を許したみたい。そこからはどちらもびしょびしょ濡れの『水掛合戦』でこの季節ならではの水の感触を大いに味わっておりました。
 そんな子ども達のやり取りを見ているうちに、僕は一人の女の子を思い出しておりました。昔、日曜学校に来ていた女の子で、ちょっとおとなしい子でありながら、根は明るくてユーモラス。でももっと線の細い子だったし何より歳が合いません。しかしはしゃぎまわる実習生を見ているうちになぜかその子を思い出してしまったのです。翌日、その子に「あなた、お姉ちゃんいる?」と尋ねたなら「はい、います」。「○○ちゃん?」「そうです!」、そこで十年ぶりの記憶と事実がつながりました。その子のお姉ちゃんは日曜学校のOBで、よくよく通って来てくれていた子。さらに記憶を辿ると、「お迎えの時にお母さんと一緒に来ていたあの赤ちゃんがあなた?」とその子の存在を思い出しました。そう、この子もお姉ちゃんと一緒に数度日曜学校に参加もしていて、ホールの出席表を見てみれば当時の写真が残っているではありませんか。これには大ビックリ。赤ちゃんだった記憶が強かったのですが、その写真に写っている彼女は1歳か2歳のしっかりとした幼子。当時から大きかったのでありましょう。存在感のある、そして今の面影もしっかりとあるこの写真を見て、思わず納得してしまいました。控え目なお姉ちゃんに対して積極的なこの子、全然違う性格のようであっても、その所作から何かを感じて事実にたどり着いたこの『奇跡』に自分で感動してしまった僕でありました。でもそんなものなのかも知れません。積極的と言いながらも、子ども達に対してちゃんと分別をもって対応してくれていたこの女の子。自分がびしょびしょになりながらも、その仕返しはちゃんとほどほどをわきまえています。更に日曜学校のこともこちらが言うまで黙っていたその奥ゆかしさから、お姉ちゃんと同じ雰囲気をどこかに感じたのかもしれません。そのお姉ちゃんも元気にしていると近況を聞かせてもらって、嬉しい再会の時となったのでありました。

 そんなこの子達、自由遊びでは3人とも幼稚園の子ども達に積極的に働きかけてくれていたのですが、クラスに入っての実習ではなんか少々パワー不足。先生がやって見せる手遊びをただただ眺めていたり、お帰り準備の子ども達に椅子に座ったまま声掛けをしていたり。そんな姿に「一緒に手遊びしたらいいのに」「子ども達に寄り添って声を掛けてあげたらいいのに」と思ったもの。実際、集会における手遊びなどではプレゼンテーターに合わせて他の先生も一緒にやって見せているし、子ども達に話しかける時には寄り添いながら目線を合わせて言葉を伝えている様子がいろんな場面で感じられるはず。幼稚園のお仕事はルーティーンワークではありません。ひとつひとつ目の前で起こる出来事に対応してゆく仕事なので、なかなか実習生に「こんな時にはこうして」と解説しながら子ども達のお世話をすることは出来ません。なので「先生達のしていることを見ながら、分からなかったら聞きながらやってみて」と指導していた僕。こちらの指導不足と言われればそうなのですが、そんなところから気付きを与えられて『この仕事の何たるか』を分かってくれたならと思ったものでありました。
 今時の子ども達、世間の評価がどうしても『減点法』に基づくことが多いので、『××をしたらいけない』と言うことはよくよく知っています。でも『こうしてみよう』と自分の想いと気付きに基づき行動して得られる成功体験があまりにも少ないように思うのです。『こうしてみよう』でやったことに対して大人は『誰がそんなこと言ったの?』『人の話を聞いていた?』と頭ごなしに否定してしまいます。確かに『大人の言った通り』とは違ったのかもしれないけれど、その中にある良い点・悪い点をきちんと評価してあげなければ、自分の想いに基づいて人のために働ける大人にはなってゆけないのではないかと思うのです。最終日を前にしての振り返りでそのようなことを中学生達に伝えた上で、「明日は思いっきりやってみて」とエールを送りました。でもこれは学校ばかりの話ではなく、僕ら自身の反省でもあるのです。幼稚園の時代から『先生の言うことを聞く子がいい子』として育てられて来たならば、『言われたこと以外はしない方がいい』と言う処世術を身にまとうようになるのかもしれません。『個性』『個性』と言いながら、その個性による幅を持ったアプローチをどこまで私達は受け止められているでしょう。それが大人の指示とは違ったとしても、そこに真面目な想いや真っ直ぐな心が込められていたならば、その中の『良かったところ』『悪かったところ』を率直に評価してあげたいと思うのです。大人の僕らもなかなか余裕の持てないこの時代。指示を出したこちらが間違っていることもあるのです。子ども達の方が強い想いを持って正しいことを行なおうとしていることもあるのです。僕らが『全ては自分の思いのまま』と言う神の領域に入ることを望んだならば、そんな子ども達の心を受け止めることなど決して出来はしないでしょう。

 さてさて、そんな僕らの想いが通じたか、最終日の中学生はどこか違ったように感じられたものでした。子ども達の歌う歌を一緒に口ずさんだり、手遊びにもつたなさ一杯の自らの手を一生懸命動かしてみたり。コロナ禍と言うことでマスク越しの口元から想像することしか出来なかったのですが、明らかに昨日までとは動きも表情も違います。ここでこの子達は『見ていること』と『一緒にやってみること』の違いを体感してくれたことでしょう。一緒にやれば子ども達の想いもより実感として伝わって来て、自然に笑みも浮かんで来ます。実習生が絵本を読んであげるために前に座り、子ども達の顔を見回していた時のこと。小さい子のクラスだったのですが、一人の子がバランスを崩して椅子からずり落ちそうになりました。その瞬間、中学生がとっさに椅子から腰を浮かせ、その子を支えようと手を差し伸べたのです。おかげでその時は事なきを得たのでしたが、「昨日までだったらこんな風に体が動いたかしら?」と思ったほどにこの日の彼女達は違っていました。これまでの実習の過程を見て来ただけに、それがこの5日間の学びの成果だったんだと嬉しく思ったものでした。今時の子ども達、大人がちゃんと認めてあげたら・きちんと評価をされたなら、自らの想いを行動としてこんなにしっかりと体現出来るんです。このことを胸に僕らもこれから、自分達の保育をしっかり見つめ直してゆきたいと思ったものです。そんな気付きを僕に与えてくれた、今年の『帰郷』でありました。


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