園庭の石段からみた情景〜園だより2月号より〜 2023.2.9
『自由』に伸ばせ!子ども達の可能性
 今年の大寒はこの冬一番寒い時節と重なりまして、『10年に一度の寒さ』と言われた大混乱をも引き起こし、僕らをアタフタさせたものでした。幸いにもこのあたりは大雪に苛まれることはなかったのですが、地味ながらにとにかく寒さが続いた一週間。雪でも積もれば子ども達と雪遊びを楽しむことも出来るのに、時より雨にも変わり暴れまくる風にあおられて、吹き付ける暴風雪は待望の積雪も残さずに過ぎ去って、僕らの『年に一度のお楽しみ』をも吹き飛ばして行ったのでありました。でも積雪がなかったそのおかげで、翌日記録した零下の中でも道路が凍らず、幼稚園も無事再開出来まして、心より感謝でありました。このように僕らが一喜一憂する目の前の自然現象にも『神様の御心と御守り』が働いていることを改めて感じさせられた、今回の大寒波でありました。

 冬の醍醐味を味わう機会は与えられなかったのですが、一方で雨も少なくお外で一杯遊べたこの一ヶ月。発表会の練習に勤しみながら、頑張った子ども達へのご褒美として午後からお外遊びを一杯プレゼントしてくれた先生達。例年なら発表会前は教師も子ども達も戦々恐々となって、『遊ぶこと』に関して心も時間も余裕がなくなってしまうのですが、今年はちょっと違います。「練習、一緒にがんばろうね!」の投げかけの裏付けとして、「頑張ってちゃんとやって早く全部終わったら、お昼から一杯遊ぼう!」と言う言葉を掛けてくれる先生と、その言葉と約束を励みに頑張ってくれた子ども達。「この信頼関係って素敵だよね」と思ったものでした。
 『お利口な子』を演じることに長けている現代の子ども達。だから幼稚園ではすっごく『良い子』なのにお家に帰ったら『わがまま鬼』がおなかの中でいつも暴れているようなそんな子どもに大変身。そう言う子達は『自分の想い』を担任にも包み隠して、『非の打ちどころのない子』『指摘もされない子』でありたいと言う野望を心に秘めているもの。単なる『指摘』です。『こうした方がいいよ』と言うただそれだけの言葉。そんなにいつもいつも叱られているのでもなく、いつも先生が怒っているのでもない(はず)。ただただ『何か言われること』に恐怖と嫌悪を感じてしまう子ども達。お母さんに言われても『馬耳東風』、だからお家ではわがまま放題を押し通すのに、こう考えたら全くおかしなものです。そんな子が多い現代において、今年のこの子達が「お外で遊びたい!」「まだ遊んでいない!」と担任にずけずけ言って来る風景はなんかとても新鮮です。いやいやそれまでだって部屋で遊んでいたはずなのに「まだ遊んでいない!」と真顔で言って来るこの子達。この子達にとって『遊ぶとはなんぞや』と言うことを考えさせられる場面です。そんな時には「今だって遊んでいたじゃん!」と先生をフォローするのですが、一方で「大人の目線を気にして何も言わない子達より頼もしいなぁ」と思ったりもします。先生を『評価者』ではなく『理解者』として受け止め・受け入れてくれているんだな、とちょっと嬉しく思ったもの。先生も彼らの言葉を真摯に受け止め、「じゃあ、やることを頑張ってやってから一杯遊ぼう!」と建設的な提案を返してくれて、お互いに想いを伝え合う『労使交渉』の中継を見ているよう。「一緒に『落とし処』を見つけられるこの関係性ってなんかとってもいいよね」と、そんな想いで見つめた情景でした。
 そんな契りを交わして始めた一日は、子ども達も先生も集中力が違います。ただの『約束』だけではない、『お互いに互いの想いを叶えてあげたい』と言う想いが、なんかいい調子に練習を進めてゆくのです。劇と合奏の練習をささっと終えたその後は給食。これも手ごわい子達があるのですが、練習を頑張ってやり遂げられた達成感と、この後の外遊びが楽しみな期待感が相まって、一割二割増の『がんばりパワー』が生まれて来ます。大げさに二倍!三倍!とは言いません。でもこの電動アシスト自転車のような『ほんのちょっとのアシスト』が、自分の実力をも増し増しにしてくれるようで、結果としていつもより早く終わった子が多くあったような気がしたものでありました。

 さあお外に飛び出す準備万端整った子ども達。帽子を被り靴を履いてエントランスで待ち構えます。そんな様子を見て、イチ早く外に出て子ども達を出迎える僕。「お外いいよ!」と声を掛けるのですが、子ども達に全く信頼のない園長先生。誰も出て来ようといたしません。そんな僕らの姿を笑いながら見ていた担任が「いいよ」と掛けてくれた言葉をしっかと聞き届け、一目散にお外に駆け出して行った子ども達でありました。外遊びのお約束、まずは植木鉢の水やりと縄跳びの自主練習。縄跳びチャレンジも担任と子ども達で立てた目標があるので、適度に練習をしているのを見届けるのが僕の役目。「もういい?」と言う子に、「もういいよ。後は美香先生が出て来た時に見てもらって」と声を掛けるのでありました。
 それからあちらこちらで始まった子ども達の自由遊び。三輪車に乗ってサイクリングを楽しむ子、「サッカーやろう!」と僕を誘いに来る子、頑張っている子に寄り添って最後に出て来た美香先生の周りに馳せ参じる子ども達と、それぞれ園庭に散らばって思い思いに自分の遊びに興じ始めるのでありました。そんな中で僕がサッカーの相手をする時は大体『大人対子ども対決』。この秋にサッカー協会からいただいたサッカーゴールはワイド仕様で、僕にとってもやりやすい良いゴールです。僕もそんなに強いシュートを打ちはしないのですが、ボールが浮いて顔にでも当たってしまったなら、大したことがなくても子ども達は大泣き必至。そんなことから『地を這うシュート』で彼らの足元を狙うのですが、この新しいゴールの幅の広さに助けられています。するとそれに文句を言い出した男の子。「新先生は強いから、自分のゴールの所から蹴らんとダメ!」。なるほど『蹴る場所が近いと入りやすい』と言うロジックを分かっているようです。サッカーを始めて間もない頃の子ども達は、ボールが足元に入ったところからすぐそのままボールを蹴ってしまうので、なかなかゴールに入りません。それはまだボールを蹴る力が弱くゴールまで届かないのと、遠くからシュートを打つ場合には同じ角度のずれでもボールが持つ誤差は大きくなりゴール枠を目指して飛んで行かなくなるため。でも先月のサッカー教室ではボールを足元に収めた後、目の前のスペースをちょんちょんとドリブルしつつゴール前まで運んで行ったこの男の子。そこからシュートを放てばそのドリブルがボールに与えた慣性力も相まって、見事にゴールが決まりました。最後のワンタッチなどは上手くボールにミートせず、ただただそれまでの勢いでゴールに吸い込まれて行ったのですが、サッカーの世界でも『泥臭い』と讃えられるこんな得点は本当に見事な1点でありました。野球は一つの投球に対してバッターはひと振りしか出来ません。またバッターボックスから出てボールを打つことも出来ません。一方サッカーはボールを何回触ってもいいんです。どこからシュートを打ってもいいんです。『サッカーと言うゲームの自由度と制約』を理解する頭とそれを体現してみせるフィジカルが、彼にそんなプレーをさせたのです。これまで月に一度のサッカー教室でしかサッカーをして来なかったこの子達が、ある日突然『サッカーとはなんぞや』を理解してこんなプレーをやって見せてくれたこと。僕にとっても驚きでありました。自分の体で『サッカーを表現』することが出来るようになったこの男の子。それから自由遊びの時間にも仲間を募ってサッカーをやるようになったのは、その喜びを知り得たからだと、そう信じている僕なのです。

 また今ブームが起こりつつあるのが『うんてい遊び』。最初は一人の女の子が『うんてい登り』を出来るようになったことがきっかけでした。自分の体で『うんてい登り』を体現出来るようになったこの女の子、ひとり見晴らしの良い高みに佇んで足元で遊ぶ友達を見つめています。すると自分もやりたくなった子ども達が次々に『うんてい登り』にチャレンジし始めました。一人・また一人と『うんてい登り』が出来るようになってゆく子ども達。そんなことから子ども達がうんていの周りで遊ぶ機会が増えてゆきました。ある日そこにお部屋から出て来た美香先生が合流しまして、次に『うんてい渡り』に挑戦しようと言うムーブメントが生まれました。どんな投げかけをしたのか聞いていないのですが、これまでだってずっとそこにあったうんていにあまり興味を示して来なかったこの子達。「これ絶対無理なやつ」と思っていたのかもしれません。でも先生の投げかけた魔法の言葉がこの子達のやる気に火をつけて、多くの子ども達がずっと後ろに並んでまで『うんてい渡り』に挑戦しようとする情景を、狐につままれたような想いで見つめていた僕でした。
 年中児が中心になって挑戦を始めたこの『うんてい渡り』。例年、年中でも『うんてい渡り』を見せてくれる子達があるのですが、往々にして身軽な子が多いもの。体の軽さを武器にしてひょいひょい渡ってゆくのです。それが今年のこの子達。渡り切る寸前までゆきますと、年中児にしてもう足が下についてしまうのです。去年も大きな子達はいたのですが、こんな情景が記憶にないのは、自分の体のままならない彼らがうんていを避けていたからかもしれません。自由遊びです。嫌なものをわざわざ選ぶことはありません。でも今年のこの子達は違います。自分で自分に課題を課し、今の自分に立ち向かってゆく気概の持ち主達なのです。しかし鉄棒を始めとするこのような器械運動は体の軽さがアドバンテージとなることは確か。非力であってもそれを補って余りある機動性が彼らを助けてくれるのです。体の大きな子達が『うんてい渡り』をする際、棒につかまっていることは出来るのだけれど、次の一手が出て行かないと言う傾向があることを見つけた僕。先に行けはしないのですが、そう簡単に落ちるものでもないと言うこの状況。今年一年、この子達が自由遊びの終りに続けて挑んで来たのが『鉄棒チャレンジ』。『鉄棒ぶら下がり』を数秒維持するところから始まって、最近は前回りにも挑戦するようになりました。そんなトレーニングによって腕力と握力が少しずつついて来たのでしょう。では何が足りないかと言うとやはり『体幹』。身につけた筋力を思い通りに発揮する身体の芯です。『うんてい渡り』の上手な子の動きを見ていると、印象に残るのがその身のこなしのしなやかさ。前に進むために前後に体を揺らしつつ、加えて左右に『ひねり』の動きも入れて体の起点を作りながら、連続動作によって前に前に体を押し進めてゆくのです。自分の体は慣性による安定した等速直線運動状態にあるので、少々姿勢が崩れてもうんていから振り落とされることはありません。手足の動きで上手にバランスを取りながら外乱を治めつつ進んでゆくのです。でもこれはきっとこの子の天性によるもの。誰かからレクチャーやトレーニングを受けた訳でもなく、こうした動きが自然と出来るのは彼に与えられた天分と言えるでしょう。しかしそんな彼の動きを見つめつつ、僕らが言語化した『ひねる』とか『ゆらす』と言う言葉を受け止めながら、それを自分の体で体現しようと頑張った男の子。するとその子の体が前に向かって動き出したのです。これまた感動の一頁となりました。

 こんな風にして遊びの中で、この子達は自ら考え・また教え合い学び合い・影響し合って、大きくなって行ってくれています。自由遊びの中で、自分の自由意思に基づいて頑張ったそのチャレンジは、この先もこの子達を大きく成長させてゆく何より大切な宝物となってくれるはず。自分でやりたくて・出来るようになりたくて頑張っているのですからきっとそう。僕はそんなこの子達の想いと頑張りをただただじっと見つめつつ、支え励まし応援し続けていたいとそんな風に思うのです。


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