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<陽だまりの中の気づき> 梅や寒桜の開花が例年より遅いと感じていた今年の春。発表会が終わり、のんびりとした心持ちで野山の陽だまりにこの身を置いてみたならば、いつの間にか咲きほころんでいる花々に気がついて、「せっかくの移ろい咲きゆく姿を見逃しちゃったな」と思ったもの。でも僕らの『気づき』とはいつもそんな感じかもしれません。『固い殻にかこまれた、小さな木の芽が見つかった』と歌うのは2月の讃美歌『まもり』。何もなかったところに木の芽やつぼみが膨らみ出した時には「あ!」と気づいて声を上げるのだけれど、そこからまた時間がかかるのが自然の育ち。僕らが日常の風景の中にある自然に目を向ける時、往々にして遠目の俯瞰で見てしまうから、微細な変化になかなか気付けません。また季節も一定速で進んでゆかず、三寒四温の行ったり来たり。それに刺激を受けながら自らを変化させてゆく自然物も同じく一定のベクトルをもって成長してゆくものではありません。昨日と今日が変わらぬ同じものに見えたりして、『春の訪れの遠さ』ばかりを感じてしまうもの。でも自然は着実に巡りゆく季節から刺激とエネルギーを受け取って、自らの中に蓄えているのです。そこに大きなトリガーが与えられた時、それは冬の終りに降る温かい雨であったり、その後に訪れる春の日差しであったり様々なのですが、そんな刺激に対して自然のものは「あれ?もういいんじゃない?」と言う衝動に駆られて花を咲かせるもののよう。春の訪れを待ち望み、その証として花々のほころびを待ちわびていたつもりだったのに、日々のあわただしさに追い立てられ、その一番の時を見逃していた自分の体たらくに笑うしかなかった僕なのでありました。 年が明けて間もない頃、戸外には咲く花も少なく、僕らが繰り出す自然探索で拾うお土産と言えば桃や椿の種や殻ばかり。砂場で椿の種を拾いながら頭の上を見あげたなら、固く閉じた赤いつぼみが見えました。「今年の椿もこれからだね」と思いながらその場を行き過ぎたのがついこの間のことのよう。その頃はまた一年で一番寒い時分で、子ども達の外遊びも運動遊びが中心。僕もしゃがみこんでの砂場遊びから遠ざかっていたのですが、二月終りのとある雨上がりの日のことです。砂場のブルーシートの上に出来た水たまりと共に椿の花が一杯散り落ちていたのに気がつきました。「いつの間にこんなに咲いていたんだろう」、こう言う状況になって初めて気づく朴念仁。『ブルーシートに赤い花』と言うコントラストを持って初めて気づく自分の鈍い感性にちょっとがっかりしたものでありました。 早速ブルーシートの水を砂場の外に流し砂場を解放したならば、子ども達がわらわらわらとやって来て砂遊びを始めました。いつの間にやら季節も進みゆき、もうしゃがみこんでいても寒くないほどに春の陽が園庭に差し込み温かさを増し加えてくれています。そんな中、ここそこに落ちている椿の花を自らの遊びに取り入れて遊んでいた子ども達がありました。砂型カップの底に椿の花をちょこんと置いて、その上から砂を詰め込んで押し固めていた男の子。おもむろにそれを砂場の上に返したなら、椿の花がてっぺんから顔を出している『椿プリン』の出来上がり。これには感心してしまいました。プリンを作ってから上に花を乗せるのではなく、一番最初に型の中に置いて成形するプラスティック製品で行ったなら『インモールド成形』と言えるこの技術。プリンの中から咲き出でているように埋め込まれ、かつ椿の花が綺麗に露出している見事なプリン。「こんな作り方をしたら花の表面が砂まみれになるのでは?」と思うのですが、その仕上がりの見事さに驚いたもの。僕より砂場遊びに精通している子ども達の『技術』に改めて感動させられたものでした。 他の子の方に目を移しますと、平皿に砂を敷き詰めて、その上から椿の花びらを並べている子がありました。ちょっと気が弱くメンタルもナイーブなこの男の子。でもその繊細さがこの作業に表されているかの如く、花びらがちぎれないにように丁寧に外しながら、一枚一枚砂生地の上に置いてゆく彼。最後に残ったおしべなども「どう使おうか?」と思案しているその姿は、本物のパティシエのようにも見えたもの。僕などは料理をしても最後の盛り付けが特に苦手で、いつもががーっと上から流し込む『〇〇どんぶり』のようになってしまうので、こんな細かな作業が出来るこの子の姿を羨望のまなざしで見つめたものでありました。 またすみれの二人と砂場に大きな山を作った時のことです。その側面に『椿プリン』を施して行った男の子に呼応して、菜の花を根っこの大根ごと引っこ抜いて来た僕。山の頂上に穴を開けて埋めました。するとその根にしっかりと砂を被せようと勤しみ始めたおふたりさん。後からやって来たももさんにも「この菜の花が埋まるように砂を一杯かけといて」と伝え、『僕らの山頂菜の花畑プロジェクト』が発動したのでありました。合同クラスの共同生活のその中で、普段から弱い・もろい・ヘタレの姿を下の子達にさらして来たすみれさん。そんな彼らの信望がいかほどのものかと思って見ていたのですが、ももの子達はすみれからの引継ぎを忠実に守り一生懸命砂をかけているのです。僕の言うことなどちっとも聞きもしないこの子達が、すみれさんのメッセージを真摯に受け止め、彼らが製作に呼ばれてその場からいなくなった後も、ずっと砂かけ作業に邁進していたのでありました。これはすごいなぁと思ったもの。ももの子達からしてみれば、与えられた課題に対して泣きそうになりながらもその場でふん!とふんばり・がんばって見せるすみれさんってやっぱり『リスペクトの対象なんだね』と思ったもの。自分達だって課題と向き合った時にはどうしようも出来なくて、何も言えなくなってしまう弱い存在であることを身をもって分かっているこの子達。でもすみれさんはそこからがんばってその状況を打破して来た、彼らにとって憧れの対象であり、やっぱり越えられない大きな存在なのです。そんなことを感じながら共に過ごして来たこの一年間は、この子達にとっても大きな財産になったと思うのです。すみれにはすみれの課題があり、ももにはもも年相応の課題が与えられます。出来る子からしてみれば軽々とクリア出来る課題かもしれませんが、出来たら出来たで『出来ない子』を軽く見てしまうのが人間の性と言うもの・驕りと言うものなのです。でも年上のすみれに与えられる課題はももにしてみればとてつもなく高い壁。それを時より涙を浮かべながらも真正面から向き合って、ひとつひとつ乗り越えて来たすみれさんと言うのはやっぱり『尊敬すべき存在』であると彼らをして思わせて来たのでしょう。下の子達にとって、今年のすみれは本当に身近であり、かつそのすごさを日々感じさせられた良きお手本であったのです。そんなことを想いながら、一人見つめていた情景でありました。その菜の花も大地から引っこ抜き、砂山に植えられてすぐはしなっとなってしまい、「やっぱりだめだったかな?」と思ったもの。しかしそのあと降った雨のおかげかそこから元気を取り戻し、1〜2週間経った今でも砂場の山の頂上でしゃんと花を咲かせてくれています。『自然力』と言うか『生命力』と言うか、その力強さを改めて感じさせられたもの。この菜の花は大根に蓄えられた栄養と雨の水に支えられながら、砂場と言う有機物も栄養素も十分には与えてくれない環境下においても、ずっとその身を伸ばし花をつけ続けたのです。『自然育ちの田舎暮らし』で沢山のたくましさをその身に着けて来てくれたこの子達もこれからも、きっとここで培った適応能力をより拠り所に力強く育って行ってくれると信じています。 一方、園庭の方に目を向けたなら、春の暖かな陽射しの中でそれぞれの想いにいざなわれ、好きな遊びに邁進している子ども達の姿が見受けられます。うちの娘のおさがりなのですが、その前日にやっと持って降りて来たアンパンマンの三輪車。買ってもらったはいいものの、うちではあまり使われずに0歳児仕様のまま倉庫に眠っていたこの三輪車。セーフティガードやサドルの後ろから出ている『カジキリ押棒』もついたままでは、幼稚園で使うには扱いにくいことも分かりました。そこでその朝なんとかそれらの拡張部品を外したのでありましたが、それを見たたんぽぽの女の子。『ここにあったやつをつけて!』とアピールして来るのです。「だって邪魔でしょ」と言っても『つけて!』と譲らない彼女。幸い差し込むだけのワンタッチでくっついていたのですぐに元に戻せたのでありますが、この三輪車に友達を乗っけて自分はその押棒を持って後ろから押して遊び出したたんぽぽさん。一台限りのこんな遊具はすぐに取り合いになるのが常なのですが、この子達はかわりばんこに押して・押されてやりながら上手に遊んでいるではありませんか。この子達にとってこの『押棒』は大切なコミュニケーションツールだったのです。前日にもあったであろうそんな姿を見逃して、扱い勝手なんかばかりに気を取られていた僕のチョンボでありました。でもそうやって新たな遊び方・友達との関わり方を見出し開発もいたしながら、嬉しそうに体を一杯に使って戸外で遊んでいるこの子達の姿をほんわか・あったか気分で嬉しく見つめた僕なのでありました。 またサッカー遊びにも興味深い変化が見られ始めた今日この頃。去年サッカー教室が始まった頃には『サッカー、ボール取ったり取られたりって嫌だなぁ』って顔をしていた男の子や『疲れるからイヤ』って億劫そうにしていた女の子が、「サッカーやりたい!」と言って僕の所にやって来るようになりました。「へぇー」と思いながらゴールを出してあげたなら、それぞれに持って来たボールと戯れながら遊び始めました。運動会練習が始まった頃には『ケンケンパ』もなかなかだったこの子達が、跳ね上がるボールを追いかけジャンプしたりボールと一緒に走り回ったり。そんな姿を見つめながら「心も体も大きくなったねぇ」と嬉しい想いで彼らと遊んだものでした。そこにいつものサッカーメンバーが合流して来て、試合が始まりました。彼らは例によって『大人対子ども』で僕に挑んで来るのですが、ひとり僕の側について試合に参加する男の子。僕の後ろに陣取りこちらのゴールを守っているつもりのよう。ゴールを越えてボールが転がって行った時も、自ら走りゆき取って来てくれまして、「新先生、パス!」とか「あとはよろしく!」と僕の口癖を真似ながら嬉しそうに加勢してくれたのです。あまり得意でない運動遊びではいつも渋い顔をしていた彼が、けらけら笑いながらこんな遊びに興じているその姿は、春の光と相まって本当にまばゆく見えたものでありました。 僕らも子ども達も、みんなで発表会をやり遂げて、一年間の歩みを振り返りながら何気ない日常を過ごしていると、いつもの情景がなんか違った風景に見えて来るからなんとも不思議。発表会の舞台では目に見えて感じられるこの子達の成長も、日常の姿の中では実感として感じられるようになるまではだいぶ時間がかかるように思えることでしょう。でもこちらが昨日とは違うまなざしで見つめるそれだけで、昨日には感じられなかったこの子達の変化や成長が『気づき』として感じられるのではないかと思うのです。そう『目に見えて』ではなく『なんかちがう』と。そう感じたその時に『ではどう違うんだろう』とこちらが一昔前の記憶を引き出して検証・照合することによって初めて、『これは成長だね』と認定されるものなのかもしれません。確かに春の日差しにいざなわれ、それまで固く閉じていたつぼみが一日二日で急に花を咲かせることもあります。でもそれはその一日二日の成長なのではなく、冬の寒さに耐えながら自らの中にエネルギーと体力を蓄えながら過ごして来た何十日にも及ぶ『日常』がその背景にあればこそ。その何気なさに目を向けながら子ども達を見つめてゆくことそれこそが、僕らにとって大切な業なのではないかと、そんな想いで春・啓蟄の陽だまりに佇んでいる僕なのです。 |