園庭の石段からみた情景〜園だより7月号より〜 2022.7.7
そしてカエルの父になる
 先月の園だよりをしたためていた頃、その涼しさ・過ごしやすさに「『例年並み』って良いものです」って言っていたのが、翌週早々に梅雨が明けてしまいました。例年並みどころか史上最短の梅雨となり、その週は急激な気温の上昇にみんなげんなり。しかし県内において八幡浜は比較的気温が上がらない所のようでして、松山や宇和島・そしてお隣の大洲で33℃34℃の真夏日になった日でも28℃29℃とちょっと控え目。これは伊方にも共通して見られる傾向で、豊後水道を吹き抜けて来る海風が佐田岬とそこから連なる半島に導かれ、このあたりの熱を冷ましてくれるのかもしれません。日土に至っては山の新緑・谷を流れるせせらぎに冷やされた風がもひとつ涼しさを感じさせてくれています。ピアノの日の夕方、小学生がやって来る頃に『ミスト水撒き』を始めると、山風が園庭を吹き抜けその霧をさらに拡散させてくれまして、熱く火照った僕らの肌をほっと冷ましてくれます。こう言うことからも「やはり風って大事なんだね」と思わされます。『停滞している状況』を打破してくれるのは、そこを吹き抜ける風だと言うことを改めて感じたものでした。
 「梅雨って大事だね」と思わされた梅雨明け初週。数字の上では「まだいい方」の日土ですが、そうは言っても炎天下での肌をじりじり焼くような感覚に、「今日は暑いねぇ」と声が漏れてしまったもの。梅雨があるからこそ蒸し暑さはあるものの、こんな灼熱地獄から免れることが出来ることに気付かされた僕。梅雨の雨雲が太陽の陽射しを遮って、しとしと降る雨が熱くなった大地の熱を冷ましてくれるのです。それがなくなってしまったなら気温はずっと鰻上り。夏休みまでの毎日がこんなお天気続きとなったなら、僕らにはきっと耐えられません。そんな僕らの熱いため息を吹き飛ばしてくれたのは今年初襲来となった『大風』の台風でありました。
 文字通り『恵みの雨』となった台風4号。愛媛県でも連日警告が発せられていた『危険なほどの暑さ』がいったん落ち着き、梅雨に戻ったような日々となりました。『梅雨の雨』ではないけれど、この時期に雨に恵まれることのありがたさを実感。僕らはまた『自然』に助けられたのです。しかし自然は『優しいだけのもの』ではありません。宇和島や愛南地方では大雨が降り続き、住民に避難勧告も出されました。四年前の『7月豪雨災害』のこともあり、「なぜまた同じ所で…」とも思わされます。でもそうなる要因がそこにあるから、同じ所で同じ危険が生じるこの事実。それはその土地の配置・地形および現在行われている開発や保全の形が、近年偏向して来た気象状況下において災害を誘発する確率を高めてしまっていることを示しています。今回の自然災害危機は台風の消滅をもって『ほっと一息』となりました。しかし『自然の力』は僕らを助けるものとなる一方で『過ぎる力』は災害発生の引き金になると言うことを、自然はこうした『事前警告』をもって僕らに知らしめようとしているのかもしれません。それを受けて私達に出来ること、それが『自然に目を向けられる人間を増やしてゆくこと』。自然の発して来るサインから異変や異常を感じ取る能力と感性、それを磨き育ててゆくことだと思うのです。毎朝子ども達と乗っているバスの中で交わされる会話、そこでは『自然談義』が山盛り。町中から日土の里に向けて走るバスの中から見える風景は、人工物が次第に自然物に置き換わってゆきます。雨の上がった朝、日土の山肌を覆う霧雲を見つけた子ども達が「すごい雲!」と声を上げました。その見つめる先に目をやると、斜面にへばりついた湿気た空気が雲となって山腹の途中から蜜柑畑や人家を覆い尽くしている光景が見えます。「山では霧も雲も同じようなものだから、ここから見えるあの家は霧の中みたいに真っ白になってるんじゃない?もしかしたらあそこはまだ雨が降っているかもね」、なんて話をすれば「ふーん」と聞いている子ども達。また川を眺め、「すごい水!濁っている!」といつもと違った景色の発見を興奮気味に口にする子もありました。連日の日照り続きで日土橋辺りから水が枯れてしまっていた喜木川に、あちらこちらの水路から雨水が流れ込み轟々とうねりくねっています。水も枯れ、怖さも力強さも感じたことなどなかったいつもの川が、いろんなものを飲み込みながら流れてゆく姿に怖さも感じている様子。「この間、ノアの箱舟のお話したでしょ。あんなになったら怖いよね」とつい先週の合同礼拝で話した旧約聖書物語のことを持ち出せば、「うん」とうなづいた男の子。合同礼拝のお話など聞いていない・覚えていないようで、しっかりと覚えていてくれていた子ども達に、一筋の希望を感じたものでした。そう、この子達には『小さいなりにも目の前で起こる自然の変化を見たり聞いたり感じたりする』そんな体験が必要なのです。自然の不思議に興味をいだき、かつその美しさと怖さを感じる経験を積み重ねてゆくこと。そのことが自然の姿を敏感に感じ見つめる感性を育むことにつながるのです。自然が美しくなければ「それを守りたい」と思うこともないでしょうし、怖さを感じなければ「『自分の思うがまま』にして構わない」と思ってしまう。その自然の怖さから逃れる手段として『自然を作り替えてしまう』のではなく、自然と共に暮らす中で『手入れ』を旨とした、自然に逆らわずに生きてゆく生き方を僕らは模索してゆかなければならないと思うのです。『手入れ』とは自然本来の姿を尊重しながら、その中で下草を刈ったり枝打ちをしたり、自然と人間が共存してゆくためのアプローチ。「それは子育てにも通じる考え方」と言うのは解剖学者の養老孟司先生。子育ても子どもの想いを尊重しつつ、伸びすぎた枝を払ったり下草を必要に応じて刈ったりとそれくらいにして、干渉し過ぎないのが肝要。彼らが自分らしく生き生きと自らを伸ばしてゆく様を見つめながら、「それはちょっとこうしたらいいんじゃない?」と添削をしてゆくやり方なのではないかと思うのです。最初から盆栽のように自分の良しとする針金で『あっちに延びろ』『こっちに曲がれ』と矯正することは決して良い子育てにはならないだろうと言う先生。戻って『自然も人間の力(コンクリートや鉄骨)で押さえつけたら災害は起こらない』と言うのが人間の驕りであるならば、そうなった時の対処や老朽化のチェック・定期的な対策の見直しをあらかじめ盛り込んだ『日々の防災』を私達は考えてゆかなければならないと思うのです。そのためにも子ども達が『自然を見つめる目』を養うことが大切になって来るはずです。

 日常の保育の中でそんなことを願いながらも、相変わらず今年はなかなか自然とのふれあいの機会が訪れません。例年ならこの季節、『ひよこクラブの子ども達に見せてあげるため』と集め育てているはずの日土の山の生き物達、カナヘビ・イモリ・ヤモリ・サワガニ・ヤゴ・オタマジャクシなどなども、出会いも捕獲もなかなかままなりません。それはこの空梅雨のせいなのか、はたまた昨年度行われたホール裏崖工事のせいなのか。『カニマンホール』と呼ばれるほどに雨が降るたびサワガニが流されて来ていたあの『生け簀』も、今年はサワガニを捕らせてくれません。ホール裏に溝を掘った上からコンクリートで舗装したり、崖も擁壁を施しモルタルを吹き付けたりしたせいでしょうか。このマンホールには今でも時より石灰質の泥が流れ込み、今までと違った『環境変化』の匂いを感じさせます。自然災害を未然に防ぐために行った施策が、自然破壊の一翼を担ってしまったかもしれない現実に感じるなんとも言えないジレンマ。『自然と共に生きること』の難しさを感じます。そんなある日、やっと一匹のカエルとの出会いが僕らに与えられたのでありました。
 それはブルーシートを新館前に引っ張り出して、プールの準備をしていた時のこと。青いシートの上にうずくまる茶色い影一つ。僕の見立てでは大人のアカガエル。身動き一つしないカエル君に両の掌を差し出せば、何の抵抗もなくすっぽりとそこに収まってくれました。梅雨の雨の日には幼稚園の築山で、ものすごく大きな声で鳴いていたカエル達。その声を頼りにそこまで行ってみれば確かにこの足元でカエルが鳴いています。彼らも求愛のためのラブソングを奏でるのに夢中みたいで、僕がすぐ傍まで来ているのに気付きもせず鳴き続けます。「ここだ!」と」確信をもって草の葉をめくってみるのですが、しかしそこには何もいないと言う空振りを何回も経験したものでありました。それくらい自らの身を隠すのに長けているカエル達が、時よりこうしていとも簡単に捕まることがあるのです。そんなカエルをよく見てみると、往々にしてたっぷりぷっくりしています。過去にカエルを飼った経験から、一口サイズのミミズや蜘蛛を食べたところでこんなになることはないと知っている僕。彼らも食うか食われるかの世界の中に生きています。空腹で何日も過ごすこともあるし、久方ぶりの御馳走が相当な大物であったこともあるでしょう。何を食べたかは分かりませんが、そんな時には大概動けなくなってあっけなく僕らに捕まってしまうのです。やはりカエルと言えど『慢心は命取り』と言うことなのでしょう。そんなカエル君をみんなにも見せてあげたいと思ったのですが、こう言うのがちょっと苦手な美香先生。それでも去年は子ども達と一緒にオタマジャクシを飼って、子ガエルになるまで育ててくれた一生懸命さに頭が下がります。でも「最初からこんなに大きなカエルはちょっと…」と言うので、子ども達に見せてから放してやろうと言うことになりました。例年ならカエルを飼うには良い季節なのですが、早くも梅雨が明けてしまった今年のこの暑さには、カエルもサワガニも堪えられずきっと弱ってしまうことでしょう。と言うことで「一日限りの『カエル保育』を楽しもう!」と言うことになったのでありました。
 そうは言ってもその日はプールに夕涼み保育の準備に朝から予定が一杯で、僕自身もなかなか『カエルモード』になる時がありません。そんな中、お昼ご飯を済ませて子ども達の元に行ってみれば、飼育ケースを目の前にしてみんながそれぞれに図鑑を広げているではありませんか。「美香先生が投げかけしてくれたんだな」と思いつつ、その輪の中に入ってゆく僕。「これは何ガエル?」と言うお題に対して、一生懸命図鑑をめくる子ども達。でもその手元を覗き込んでみると、イモリや蝶の所で止まってしまっていて『カエル』のページまでたどり着きません。そんな子達の元にすみれさんがやって来て状況を察し、「『はっけん』の図鑑で調べてみる!」とマイ図鑑を取りに行ってくれました。さすが『季節毎の生き物の特集』で構成されている教材の図鑑です。難なくカエルのページにたどり着きました。そしてその中から一匹のカエルを選び出し、「これはニホンアカガエルだ!」と結論付けたのでありました。なるほど、一番確率の高い選択で良いジャッジだと思います。アマガエルにも褐色系の個体があるのですが、オーソドックスに見たならやはりニホンアカガエル。しかしいつも僕の判断を悩ませるもう一人の候補生が『ヤマアカガエル』。図鑑には『上から見た背部の側線がまっすぐなのがニホンアカガエル、曲がっているのがヤマアカガエル』と簡単に見分けられるようなことが書いてあるのですが、今回の『食べ過ぎガエル君』はお腹も背中も『腹一杯』のパンパンで、側線もはっきり見えないそんな有様。「でもこの子が言うんだから、これはニホンアガエル」と賛同した僕。どちらがどちらか分からない僕らにとって、逆に言えばそれってどっちでもいいことで、この子が一生懸命自分で調べた結果としてたどり着いた答えなんだから『ニホンアカガエル』でいいじゃない。ただの『カエル』ではなくこの子が初めて呼んだこの『ニホンアカガエル』と言う名前こそが、このカエル君の名前になったのです。そこに喜びの息吹が生まれ、更なるカエル達との関わりが始まるのです。これってお父さんが我が子に名前を付けて、そこから父性の自覚が生じて来るようなそんな関係性に似ているような気もします。『カエルのお父さん』になったこの男の子、これから生き物に対してどんな興味や想いを膨らませてゆくか、どう関わってゆこうとするのか、ゆっくりじっくり見つめてゆきたいと思っています。


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