園庭の石段からみた情景〜園だより9月号より〜 2022.9.16
『サイン』と『シグナル』
 今年の秋もまた季節が先に先にと『かかり気味』。暑かった夏のせいもありましょうが、桜の木が早くも葉を落とすようになりまして、毎朝の掃き掃除で集められる落葉の山はコンテナ2〜3杯にもなるほどです。また去年は手ずからもいでヤギに振舞った花桃や柿の実が、今年は熟するのが早かったのかポトポト落ちて、九月の初めにほぼ『売り切れ状態』。手土産として届けた桃の実を、ヤギが嬉しそうに食べるその姿を1〜2回、目の前で見ることが出来たたんぽぽさんは幸運だったと言えるでしょう。そんな訳で牧場に行ってもヤギにあげられるものがあまりないので、桃やアカメガシの葉っぱを採ってあげようと高枝ばさみを持ち出せば、たんぽぽさんの前にいたヤギ達が「メー!」と鳴いてこちらにやって来ます。子ども達にヤギとの触れ合いを楽しませてあげたいと願っての所作だったのですが、それに反してヤギ達は『高枝ばさみ⇒葉っぱくれる人』と言う自身のロジックから子ども達を置き去りに。急いで枝を切り落とし、子ども達に手渡した僕でありました。それにしても僕が手ぶらで柵越しに立っていても、ヤギがこんなに寄って来ることはありません。そんなことから「『高枝ばさみ』がヤギ達への『シグナル』になっているのかもしれない」とそんな考察にたどり着いた自分をちょっとおかしく思いつつ、ヤギと子ども達が戯れる情景を嬉しく見つめたものでした。

 今年はおかげさまで二学期から5人のたんぽぽさんが与えられ、嬉しい悲鳴でスタートした新学期となりました。最近ではなかなか『5人もいっぺんに』と言う状況がなかったのでどうなることかと思いましたが、新生活に慣れるのに新たな体験とチャレンジを繰り返した日々を経て、この週末には「なんとか行けるんじゃない?」って感じに見えて来たから本当に不思議。子ども達が慣れて来たのか、それとも僕らが彼らに慣れて来たのか…。『大わらわ』に見える情景でも日に日にちょっとずつ、「大丈夫、ここからなんとかなってゆくんだよね」と言う前向きな想いで受け止めることが出来ました。入園直後の数日は涙が溢れて大泣きしちゃった子もあったけれど、徐々に幼稚園児としての自信とスキルを身につけて来てくれたような気がします。それを一番分かっているのは当人達。最初は『どうしたらいいのか』『それって自分に出来るのか』と言う想いをその小さな心と肩に背負い込んでいるかのように、笑顔も少なめだったこの子達。それが時が経つにつれて嬉しそうな表情や自分の言葉で想いを伝えて来てくれるようにもなり、これが僕らの前向きな想いの糧となっています。『挑戦して出来たこと』を一緒に喜んで欲しいと想いを伝えて来るこの子達に、潜在的な向上心の大きさと適応能力の高さを感じます。それは短い単語であったり、笑顔をほころばせた素敵な表情であったりするのですが、自分の想いや感動を自ら伝えようとする子ども達のこの『サイン』に、心揺さぶられる気がしたものです。そんな彼らに対して大げさな笑顔を送り返したり、『OK』の指丸や『グッジョブ!』のサムアップで応えた僕。能動的な『サイン』の方がこの子達には伝わるような気がしたのです。それは僕の言語化能力や相手に向けて発する『話し言葉』が稚拙なせいもあるのですが、十八番の『ちょっと違うことを言って笑わせるボケ』がこの子達に通じなかったから。『面白いこと好き』なばらさんは「あはは」と嬉しそうに笑ってくれるし、年中児になると大受けの『僕のボケ・彼らの突っ込み』で互いにジャレ合える仲になり、年長(特に女子)くらいになりますと「なにまた馬鹿なこと言ってるの!」って寂しいくらいに相手にされなくなる僕の『ボケトーク』。子ども達に対して投げかける最初の『言葉遊び』なのですが、入りたてのたんぽぽさんとの間では、現状における距離感と彼らの『言葉遊びスキル』の分化度とが相まって、『・・・』の表情か、はたまた「ちがうよ」と真顔で返されて終わってしまう滑り具合。売れない若手芸人の苦悩を実感したような心持ちになります。そこで『顔芸』」ならぬ『象形パフォーマンス』に挑んだ僕。本来『変顔』とか出来ない性分なのですが、それがたんぽぽさんに『伝わる』ことが分かった時、既存の価値観を捨てて新たな『芸』に挑んでみようと思ったのでありました。コロナ禍にあって『マスクは表情や感情が伝わらない』と再三にわたって言われて来たのですが、身振り手振りを交えつつ、そこに想いが込められるように唯一マスクから出た目尻と眉毛を一生懸命動かしながら、『笑っている顔』『困っている顔』『面白いよ!って顔』を表現してみたならば、それまで無反応だったたんぽぽさん達が「くすっ」っと笑ってくれたのです。「今年のたんぽぽさんとはここから始めてみよう」と言う想いで、そんなアクティブサインを発信している今日この頃です。

 一方のすみれ・もも・ばら組の在園児達。通常保育初日こそ「幼稚園、いやだ…」と言う子が複数人いて、「おっとこれは大丈夫か?」と思ったものですが、それがみんな男子だったと言うのはご愛敬。そう言う僕も新しいものとか生活リズムの変わる瞬間って苦手で、「最初はそうだよね」と情けない共感をしたものでありました。新たなミッションに時間をかけて慣れたなら、あとは毎日コツコツ積み重ねてゆくのが僕のスタイル。だから家の中での家事分担などでも、ある日突然ポンと違うことを要求されると、もう出来ない。「ああしたら」「こうした方が」と自分なりに積み重ねてやっと履行出来るようになったシーケンスを、リセットされるともう対応が出来ないこの融通の利かなさ。夏休みなどの長期休みで生活リズムが変わったのを元に復帰させるだけでも、前のやり方を忘れてしまっている体たらく。それを自分で分かっているから、『あれほどやって来たのに』と言うことでさえ「出来るかな?」と不安が先立ち、「いやだなぁ」「やりたくないなぁ」と言う気分になってしまうのです。そんな僕らを横目に女の子達はと言いますと、新たに始まった二学期に対しても前向きで、夏休みの思い出・お土産話を聞いて欲しくって仕方のない様子。『新たなる環境に対する適応能力が高い』と評すべき彼女達。僕らからしたなら『超能力』とも思える彼女達のこんなパフォーマンスを、ただただ「すごいなぁ」と感心しつつ見つめるばかり。そうは言いながら男子連も翌日からは『昨日のことはなかったこと』って顔で幼稚園に来てくれています。楽しいことを一杯見つけて、幼稚園の楽しさを思い出してくれたのでしょう。嬉しそうな顔をして大はしゃぎで遊んでいるその姿を見て、僕らもやっとほっと出来た気がしたものでした。でもそのくせお家では「〇〇が嫌だった」なんて言うそうで、「あんなに大喜びでお調子してたのに!」と家と幼稚園の両方で上手に甘えている彼らの姿に思わず笑ってしまいます。まあ、そんな感じの再起動であったとしても、彼らにとってみたならば、確かに必要な工程だったのでしょう。せっかく自らの想いをこうした『サイン』で発信して来てくれているこの子達に、今しばらくゆっくり付き合ってみたいと思います。一学期の自分を取り戻し更に乗り越えてゆくための『慣性力』をつけてあげながら、多少のわがままを受け止めながら。その『わがままを受け入れてもらったと言う自己肯定感』を糧に、段々とそれなしでも自分の足で歩いてゆけるモチベーションと実力を育んで行ってくれることを信じながら。

 さあ、そんな風にして始まった新学期。夏の終わりと言いながら幼稚園に賑わいをもたらせてくれているのは、バッタにコオロギ・アゲハ蝶に群れを成して飛んで来るトンボ達と、そんなものを見つけてはあっちにこっちにてんこを持って走り回る子ども達。虫捕りに関して手と足が速いのは元気盛りのもも男子。本能のままにバタバタ走っては網をブンブン振り回しています。シジミやコジャノメなどの小型蝶は、表面積の小さな羽をひらひらはためかせる飛び方のせいかあまり速くは飛べません。そんな蝶は子ども達の恰好の標的で、この半年間の鍛錬でよくよく捕まえて見せてくれるようになりました。春の時点ではこの小型蝶さえも捕まえられず、誰かが一匹でも捕ったなら「すごい!」って讃え合っていたこの子達。それが段々と彼らのスキルも上がって来て、みんなこの小さな蝶なら簡単に捕れるようになって参りました。しかし一方でこれらの蝶は羽が弱く、網にかかったものを籠に移そうとする際に傷めてしまう事故が続出。その都度「かわいそうだよね」「もう逃がしてあげたら」と声掛けをして来たものでありました。でもあくまで考え、選択するのはこの子達。そんな繰り返しを重ねているうち、「シジミは捕っても逃がしてあげよう」と声掛けし合う『自主規制』の想いが子ども達の中で育まれて来たみたい。そんなこの子達の変化と成長に、「これこそが本物の命と付き合ってゆく中で培われてゆく心なんだよね」と思ったものです。豊かな時代を生きている現代の子ども達。おもちゃが壊れても代替品はあふれんばかりに存在しています。しかし愛しみ追いかけ求めた蝶が傷んでしまった・死んでしまったとなると、その心と手に後味の悪い『感情と感触』が残ります。「あんなに元気に飛んでいたのに」「あんなにきれいだったのに」と。でもその失敗・後悔を経験して初めて、命のはかなさや自然の大切さを身をもって感じることが出来るようになるのです。
 『成功体験』は僕らが前を向いて歩いてゆこうとするモチベーションを保つための原動力。一方『失敗体験』は自らの行いを省み『次はどの道をゆくか』の熟考を支える『シグナル』・道しるべです。大人の言葉や専門家が述べるセオリーは有用な『情報』であるかもしれないけれど、『前に進むか、そこでぐっと踏みとどまるか』の判断に大きく寄与するのが自らの『体験』。体験には自分の心や体を突き抜けて来た喜びや痛みが付随しているからこそ、大きな力を持って僕らを励ましたり諫めたりしてくれもするのです。『知識』は世の中にあふれかえっているけれど、それが正しいのか・それをその場に用いるのが適切なのか、その評価は時代と共に変わってゆくもの。でも全てのことが『不確定』だからと言ってその場で判断しなければ僕らは前に進んでゆけないし、僕らがその場で立ち止まっていたとしても『時間』だけは先に進みゆき、その結果の総括を僕らに求めて来るのです。僕らは刻々と変わり続ける状況と社会の価値観に対峙しながら、自らの判断として何らかの答えを出さなければいけません。だから『省み』が必要なのです。自分に課した『蝶を捕まえ、籠一杯にしてみたい』と言うミッションにチャレンジしてゆく時の高揚感や達成感は、彼らにしてみれば何にも代えがたいものであるでしょう。そしてこの子達はそれが出来るまでに虫捕りのスキルを向上させて来てくれました。最初は虫が怖くて触れもしなかったこの子達が、生き物達の多種多様性に心惹かれ、手ずから触れてその命を感じてくれるようにもなりました。それこそが『命のリスペクト』へのはじめの一歩。彼らが物事を判断する過程において、『自分はこうしたい』と言う想いを大切にいだきながらも、『そうすることによってこの命は・この自然はどうなるのか』と言うことを一考するファンクションがここに付け加わった瞬間と言えるでしょう。その習慣が、彼らがこれから構築してゆくであろう友達関係・人間関係を豊かにしてゆくために、そしてこの地球を守り後世に大切に受け継いでゆくそのために、必要となる『相手を思いやる心』を大きく育んで行ってくれるはず。数えきれないほどの『成功体験』『失敗体験』をこれから一杯積み重ねながら。

 新学期が始まって二週間、新たな出会い・新たな交わり・新たな場面を体験しながら、子ども達はこんな風にちょっとずつ大きくなっています。このことを神様に感謝しつつ、またそっとこの子達を見守ってゆきたいと思っています。教師としての『オーダー』ではなく、共に生きる仲間としての『サイン』を発信し続けながら。


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