園庭の石段からみた情景〜園だより1月号より〜 2024.1.24
この地で子ども達と生きる意味
 今年の年末年始は幾人かの預かりさんと一緒に過ごした冬休みとなりました。幼稚園の山の木で、一番最後まで葉っぱをつけていたのは滑り台上のどんぐりの木達。それもこの頃にはほとんど葉を落とし尽くし、『すっからかん』の状態に。おかげで見通しがすっかり良くなって、山の上から園庭の様子を臨んだり、逆に牧場の柵から身を乗り出して「エサちょうだい!」と呼びかけるヤギの姿が幼稚園から見えたりと、この季節ならでは様相を呈しています。葉っぱ達はその後、山の斜面や丘の上の台地に降り積もるのでありますが、ここが源泉となって風が吹くたび園庭は葉っぱだらけに。毎年の事とは言え「なんとか出来ないかな?」とあれこれ考えていたところ、「この落葉、牧場に運べばヤギ達が食べてくれるかも。今年は預かりさんも居ることだし」と思い立ち、その『プロジェクトX』を子ども達とやってみることにいたしました。『運べば』と言ってもその作業がまたひと仕事。また持って行ってもその時々のヤギの気分で『食べたり・食べなかったり』があるのも知っています。『最適解ではない』と分かっているのですが、預かりの子達と過ごす時間の教育課程として十分価値はあると、そのミッションに挑戦してみたのでありました

 山の上に繰り出した僕らは、いつも砂場道具洗いに使っている『大たらい』を山に持ち込んで、熊手と子ども用の大シャベルでその中に落葉を掻き込んでゆきます。最初はシャベルで機嫌良く葉っぱ集めをしていた子ども達だったのですが、その作業の中で不具合に気づきます。葉っぱを救おうとすると下の土までが掘れてしまい、どうもうまく救えないのです。すると僕の手にしていた熊手に目をつけて、「こっちがいい!」とトレードを要求して来た女の子。彼女が熊手でかき集めた山盛りの葉っぱを、僕が『子どもシャベル』でたらいに押し込むと言う役割で、葉っぱ集めの作業を進めてゆくことになりました。するとその目論見が見事に当たり、どんどん葉っぱが たらいの中に集められてゆくではありませんか。とりあえず彼女の考察と改善策が見事にハマった情景となりました。
 そうして集められた落葉ですが、ふわふわの葉っぱはすぐさま たらい一杯になってしまいます。でもその容量に対して収容された葉っぱはいかにも少なく、「もっと詰め込めるんじゃない?」とたらいの中に足を突っ込み上から葉っぱを踏みつけた僕。するとその仕草が面白そうに見えたのか、子ども達もたらいの中に足を踏み入れて、大喜びで『落葉踏み』を始めました。しかし残念ながら、彼らの靴裏面積の小ささと体重の軽さから、自分の足が葉っぱの中に埋まるばかりで、思うように圧縮されてくれません。またそのことをすぐさま見抜いたこの子達。「はい、これは新先生がやって!」と言い渡されて、『圧縮係』は僕の係と言うことになりました。苦笑いしつつまた足踏み作業に戻った僕の横から、葉っぱをたらいに掻き入れる子ども達。でもこうした一連の活動の中で、大人がやっている作業をすぐさま自分も真似てやってみて、うまく行かないと分かったら『それがどうしてか?』をすぐさま分析し、新たに役割分担や作業方法の改善提案をしてみせたこの子達。これっていわゆる『情報分析能力』『システム構築能力』、更には『マネージメント能力』(子どもにマネージメントされてしまう僕ってどうなの…と言うのはあるのですが)の自己啓発とも言えるもので、目的達成のために総合的かつ客観的に物事を考える力の分化だと思うのです。日頃しない体験の中から、そんな気付きと学びをすぐさま得て、物事に対処しようとするこの子達の姿を、「大きくなったねぇ」と嬉しく見つめた朴念仁の僕でありました。

 さてさて、そうして集めた たらい一杯の葉っぱをヤギ牧場まで運んでゆきまして、柵の外から投入作業を始めた僕ら。ここでは熊手がうまく機能しないと言うことが判明します。たらいの間口に対して熊手は手先が広すぎて、中の落葉を上手に救えません。そこで今度は砂場シャベルを二つ組み合わせて『UFOキャッチャー』のように葉っぱを挟み込んで掴んだなら、それがとっても良い感じ。すると「今度はこっち!」と熊手を僕に押し付けて、シャベルで葉っぱを牧場の中に投入し始めた女の子。しかし一人一本しかシャベルを持って行かなかったそれ故に、『一人二本使い作戦』によって道具の無い子が出来てしまいました。「またもめ事の種が…」と思いつつこの子達の様子を見ていたのですが、でもそこはちゃんと変わりばんこで上手にやってくれたこの子達。『一本使い』で効率悪くフラストレーションを抱えたまま作業をするより、順番待ちでも達成感を感じられる『二本使い』を選んだこの子達。そんな物事を客観視出来る視野の広さと深い考察能力に「賢くなったね」とこれまたその成長を嬉しく感じた光景でありました。幼い時分は『設定した目標』に対する自己実現よりも、『自分がやる』と言うことにこだわるのが子ども心。人に譲ったり順番を待ったりするのが嫌で、ただただ自分の想いにこだわろうとするのが幼心と言うものです。いわゆる『幼稚』と言われてしまう行動の中によくよく表れて来るもの。それが心の成長と共に、自分達の達成したい目標に対して色々な方法でアプローチを試み、その過程や行動によって生み出された成果に対して喜びを覚えるようになってゆきます。加えて他者と達成感を共有することや、『一緒にやること』自体に喜びを感じるようになる『社会性』をも分化させてゆくのです。そう言う意味で言ったなら、『自分!自分!』だったこの子達が「よくぞここまで成長して来てくれたな」と嬉しく思えた情景でありました。

 さて、こんなして子ども達にエサを振る舞ってもらったヤギは大喜び。この秋に幼稚園で流行った『おめでとう!葉っぱシャワー』の如く、頭の上から振りかけられた葉っぱを嬉しそうに食んでおりました。彼女らはなにかと『動きのあるもの』に反応するようでして、目の前に入れられた葉っぱに対しては興味と食欲を示すのですが、まだ大量に残っていてもじきに反応を示さなくなるのが面白いところ。茶色の『さくらチョコちゃん』に至っては、大きな体を駆使して独り占めした葉っぱがあるのに、新たに入れられた落葉に気付きそちらを食べに行った黒ヤギの『ハートちゃん』の動きにつられ赴き、そこでもハートちゃんを追い払って『ムシャムシャムシャ』。なんか幼稚園に入りたての『我がまま三歳児』の姿を見ているようで思わず笑ってしまいます。しかし子ども達はそんなヤギの姿に大憤慨。さくらチョコの横暴ぶりに怒りの声を上げ、「ダメ!」「わる!」とたしなめます。そして「可哀そうなハートちゃんが食べられるように」と想いを寄せながら、たらいの葉っぱを彼女寄りに入れてあげる姿を見せるのでありました。それにしても「自分も幼い時には同じようなことをしていたことを、もう忘れているのだろうな」と思ったなら、なんだか可笑しくなってしまいます。でもそうやって目の前の出来事から『物事の良し悪し』を感じ取り、公平なジャッジと差配が出来るようになったこの子達の成長を、ちょっと嬉しくも思うのです。『生物の持つ本能』には人間・ヤギの差を問わず、『自分のことを最優先に行動する』と言う一面があることに気づかされます。でもそれは生きる者として大切なもので、それがあるからこそ『自分と言う個体が生きること』にこだわる『生命力』を持ち続けることが出来るのです。その上で種を繁栄させてゆくために、『社会』と言うシステムの中に生きるすべを見出して来たのが我々人間。『社会』と言う集団の中で、『客観性』と言う視点を持って自分と他者を見つめることで、自らの不利を受け止めつつ相手に想いを寄せる心と言うものを分化させて来たのです。そのガイドラインとして道徳や宗教と言った『人間の心』に向き合う教育がなされて来たことが、現代の私達の世界観や倫理を構築するために大きく寄与して来たと言えるでしょう。それに加え、自分達が大きな戦争や惨状を体験して来たその省みから、「やっぱり自分だけが良ければいいと言うのではダメだよね」と言うコンセンサスをやっと共有・具現化出来るようになって来たのです。でもそれもまだ道半ば。言葉では民主主義を謡いながら、力によって相手を支配しそこから利を搾取する『封建主義』が今でも横行しています。その力とは軍事力であったり経済力であったりそしてまたそれらを司る政治力であったり、形を色々と変えながらではありますが、その不公平の上に乗っかって利を得ようとしている姿に変わりはありません。「でもそれじゃダメだよね」と言うことを、僕らはこの子達に伝えて行かなければならないのです。不公平や不条理を目の当たりにした時に、こうして声をあげることの出来る子ども達が、これからの世界と未来を変えて行ってくれると信じつつ、日々彼らと共に祈る僕なのです。

 冬の間、大たらいで10杯分は運んだであろう山の落葉。丘の斜面を見渡せば確かに例年より少なくなったように見えるのですが、かと言って園庭に吹き寄せられる葉っぱはなくなりはいたしません。ヤギ達も落葉を入れたその時はパリパリと食べてみせるのですが、じきに飽きるのか全部食べ尽くすこともありません。アカメガシの生木を切って来て入れてやったなら、葉っぱは勿論、皮まで全部かじってしまう食べっぷりに、『お腹一杯』ではなく『食べ飽きた』ことが見て取れます。お世話する方からしてみれば、あるもので賄える落葉は扱い勝手が良いのですが、『飽きる』と言う感覚は人も動物も同じなのかもしれません。でもそこにも『個性』と言うものが寄与して来るものでもあるようでして、僕などは『変わる物事に対していだく違和感』が強いたち。同じルーティーンを繰り返すことに安心を感じてしまう性格なので、物事に『飽きる』と言う感覚は一般の人より希薄なのかもしれません。でもだからこそ同じ仕事を20年も繰り返して来れたのだとも思うのですが、それぞれに神様から与えられた賜物があり、それが『傾向』として表わされるものが『その人の性格』。時代と共に、ニーズや『物の考え方』が変わってゆく幼稚園と言うコミュニティを続けてゆくためには、新たな発想やチャレンジが必要となる一方で、その『幼稚園らしさ』を保ち続けるためには『かたくなさ』も必要です。そう言う意味でも子どもも教師も、『多様性』が必要かつ重要となって来るのです。僕みたいな人間ばかりだと時代の変化や意志に対応してゆくことは出来ないし、時流を追いかけるばかりでは『日土幼稚園らしさ』を受け継ぎ守り抜いてゆくことは出来ません。僕が初代園長・清水仲治郎の『建学の志』を受け継いでゆきたい願う最大のモチベーションは、彼が『キリスト教保育を良きもの』と謳っていること。自分が良いと信じる教育を、細々ではありながら、でも確かに次の世代に引き継ぎ受け継いで来た先達のこの想いを、僕も大切にして行きたいと思うのです。組織運営する者が普通にいだく『もっと園を大きくしたい』『地域の教育界における影響力を大きく持ちたい』などと言う野心はもとよりない僕。数の大きさと効率を追い求める時代の潮流の中にあって、『こう言う保育をする園があってもいいよね』と言う野党マインドを堅持してゆくのが『日土幼稚園の立ち位置』だと僕は思うのです。私達に「『地の塩』になりなさい」とおっしゃったイエス様。それは僕らに『自分が体制になること』を求めた言葉ではなく、体制となるものに対して気づきと省みを与える存在になりなさいと言う意味。祖母の清水佐和子は「子どもが一人になっても幼稚園を続ける」と言っていました。子ども達がここに集い、ここで幼稚園を続けてゆき、そこに子どもが導かれて来ること。それが神様の御心であると信じていた彼女。そして僕もその想いを受け継ぐ者として、この地でもうしばらく子ども達と生きてゆきたいと思うのです。そんな想いと願いを新たにされた、2024年の年の始めです。


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