園庭の石段からみた情景〜園だより10月号より〜 2023.10.11
どんぐり拾い狂騒曲
 運動会と共にやっと暑い夏が過ぎ去って、少々肌寒い神無月の入りを過ごしています。『神無月』と改めて漢字で書いてみれば十月は『神がいない月』とのこと、即物的な思考アルゴリズムなのね…と思いつつ、『神様がいてもいなくても大勢に関わりなし』と言うことなのか、はたまた『神様がいなくて凶事が起これば、それは不運』で済まされてしまうものなのかと、そのロジックに想いを馳せたものでした。キリスト教は『神はいる』と言うことが基本信条。聖書では神はご自身のことを『わたしは,有って有る者』と名乗り、民にも『わたしは有る(方)』と呼ぶように言われたと書かれています。つまり『神はある』と信仰告白する全ての者に対して神は存在し、『今は誰かの所に行っているからあなたの所には行かれない』と言うことにはならないのだろうなと、双方の対比より考察したものでありました。
 運動会をやり遂げて、只今伸び伸びと日土の秋を満喫している子ども達。運動会のミッションでは目標に対する結果は様々ではありましたが、課題に向き合うその姿に神様の守りと子ども達自身の成長を感じることが出来ました。いつもはフワンフワンの夢見る少女なのに、運動会本番のディズニー体操では誰より大きな声で歌い演技していた女の子がありました。『その気になってやれば出来る』を体現し、そしてそれを大いに評価してもらった彼女は今週、上級生も交えた『凍り鬼』に馳せ参じ、ずっと走り回っておりました。いつも『まったりちゃん』で体を動かすこともおっくうそう、園庭を駆け回って遊ぶ姿など見たこともなかったのに…、とその変化に驚くばかり。彼女の心の中に咲いた大輪の花をまばゆく見つめたものでした。
 また本番までの過程でどうしても出来ないミッションに、心も体も力が入らなかった男の子。その子が本番で出来た前回りが嬉しくて、運動会後も園庭の鉄棒でくるくるくるくる回りまして「20回まわった!」と嬉しそうに言いに来てくれました。運動会で使った鉄棒+マットの高さより10cmも高い鉄棒だと知りもせずに。『出来た!』どころではないこの急成長。一つ出来るようになった喜びと成功体験が、奥手だった彼をこんなにも変えてしまったことに本当に驚かされたものでした。
 一方、本番では成功しなかった逆上がりに、只今闘志を燃やして挑んでいる男の子。出来そうで本番には届かなかったあの結果に、悔しかったのは実祐先生も同じ想い。二人して何回も何回も、逆上がりに挑んでおりました。たいてい運動会が終わったなら良くも悪くもそれで一区切りついてしまい、こんなにもその後のチャレンジに執着する姿は見られないのですが、この二人の心に残された想いがその後の大きな原動力になったことを嬉しく見つめた僕でありました。
 このように「『神無月』で神様がいなかったんだよ、残念だったね」で終わるのではなく、「その結果は『神様の御心』で、それによってその後の子ども達の想いと行動を促しているのです」と言うのがキリスト教。つまりそこに神様はいつもいるのです。成功に心満たされ更にがんばることが出来るようになった子がありました。出来なかったからこそ新たなる闘志と奮起に満たされて、本番で成功したとしても得られなかったであろう『その後のがんばり』を与えられた子もいます。人は皆一人一人違う個性を持った存在で、その子のことを全て知っている神様が、最良の未来につながってゆく『結果』をその時々に与えてくださっているのです。この『神はある』と言う信仰に支えられ、子ども達一人一人を見つめている僕。その瞬間に与えられた結果が最良のもののように見えないこともきっときっとあるでしょう。でもそこにも全てを見守って下さる神様がいて、その結果は子ども達を導くための通過点であると信じられたなら、きっと子ども達・先生達・そしてお母さん達の心が安らぎと平和と幸せに満たされて、また前を向いて歩いてゆけると思うのです。

 さてさてそんな凛々しい姿も見せながら、秋ゆく日土の里の暮らしをまったり満喫している子ども達。忙しくがんばって来た運動会練習の日々の中、なかなか赴くことの出来なかったお山へと毎日足しげく通っています。どんぐりが落ち始めてひと月ほどが経ちますが、2〜3週間拾う者がいなかった山路にはどんぐりが一杯落ちています。大滑り台の上で何やらわらわらやっているすみれさん達の姿を、下から仰ぎ見つめた僕。「なんかやってるなぁ」と気になりながらも、園庭で遊ぶ小さい子達のお相手にかまけて、しばしその姿を見上げるだけでした。しばらくしてその現場に上がる機会を得、目に飛び込んで来た情景にびっくらこ。滑り台の滑り口にはいろんな種類のどんぐりが山のように積み上げられていたのです。落ちているとは言ってもこんなに集めるのは大変だったことでしょう。でも年長児が仲間達と連れ立って一つのことを集中してやったなら、こんなにも大きな仕事が出来るんだと言うことを見せてくれたこの子達。リスが冬支度のために古木のうろに大量のどんぐりを集めため込んでいる映像をTVでしばしば見かけるのですが、そんな現場に居合わせた発見と感動を僕に与えてくれたこの子達。「がんばったなぁ」と感心してしまったものでした。仲間と力を合わせて大仕事を成し遂げて、嬉しそうな顔をしていたすみれさん。丁度そのタイミングで『お片付け』の鐘が鳴り、あまりに大量だったが故にとりあえずその場にそのまま残して下山した子ども達でありました。
 その日は『パン屋さんへお買い物』がありまして、忙しく活動していた年長中児と、そのお留守番でちょっとまったりのんびり過ごすことの出来た年少・満三歳児。そのお買い物も大成功、『自分セレクト』の昼食でいつもよりさっさと食べることも出来まして、お昼からまたお外で御機嫌に遊び出した子ども達。すみれさんはあのどんぐりを回収しようと大滑り台に登ってゆきました。すると上から「ない!」と子ども達の声が聞こえて来ます。僕もその場に馳せ参じてみたならば、どんぐりはみんな綺麗さっぱりなくなっておりました。事情を知っている先生が「たんぽぽさん達がおさんぽに行った時に拾ったみたい」と説明してくれたのですが、すみれさん達はちょっと落胆顔。そんな顔を見つめながら、確かにこの子達の集めたどんぐりは大量だったけれどまだまだこんなもんじゃないはずと言う確信があった僕。「じゃあまた拾いに行こう!」と子ども達を連れて山路を登ってゆきました。それにしてもたんぽぽさんは良い拾い物をしたものです。でも自然とはそう言うもの。採集が得意な動物が一人勝ちするのではなく、隠した場所を忘れてしまって他の者がご相伴にあずかると言うのは良くある話。そう言うイレギュラーな事象を用いながら神様は『富の再分配』をしてくれるんだよねと、少々笑ってしまった僕なのでした。
 さて、僕らのどんぐり拾いが再び始まりました。山路に落ちていたものは午前中にあらかたすみれさんが拾ってしまったようで、確かにあまり見当たりありません。でもどんぐりと言うものは歌にあるように「どんぐりころころ」と転がってゆくもの。普通は平らなところまで転がってそこで停まるものなのですが、山の斜面はツルツルすべすべではありません。降り積もった落葉や山肌に出来た窪みに引っ掛かったどんぐりがごろごろ埋もれているのです。それを目指して普段は足を踏み入れない山路と山路のあいなかの斜面を進みゆけば、それについて来るすみれさん。足元を探してみればありますあります、ここにあそこにどんぐり達が盛り沢山。今度は一人ひとつずつビニール袋を手に手に持って、拾ったところから袋に詰めて行った子ども達。そんなすみれさんに引き続き、ももばらさんも斜面に足を踏み入れたのですが、そこから登るに登れない・降りるに降りれないの立ち往生。それでも本能なのでしょうか、上に登ってゆこうとするこの子達。下に体を向けるのはどこまでも落ちてしまいそうな怖さがあるのでしょう。僕が下にいるのに、みんながみんな上の小路に向けて登ってゆこうとするのです。しかし落葉敷きの山肌はアリジゴクの巣のようで、彼らが登ろうとすればするほど足元をすくわれもがく羽目に。そうなると半泣きになる子も出て来ましてひと騒動。こちらとしては想定内ではあるのですが、この子達にしてみれば人生初ともなろう『絶体絶命』。その子達に笑いながら手を差し伸べて、「大丈夫。下に行った方が行きやすいよ」と声をかけた僕。その手に自らの手を精一杯伸ばす男の子。手がつながれたところでその手をもって下向きに誘導してゆきます。でもやっぱり怖くて腰が引けてしまうこの子に対して、「お尻を下に向けて降りたらいいよ。手もついて」とちょっとずつ状況が改善してゆくように言葉を重ねてゆきます。途中『ずりっ!』『ずる!』っとなりながら「こわい!」と言ってた男の子ですが、滑ろうが尻もちをつこうが僕がこの手をしっかり持っている限り大丈夫。でも「こわい!」と言うのは僕の信頼無さ故でありましょう。相手に信じてもらうことの大切さを逆に僕が感じさせられた場面となりました。途中、足が滑ってぶらーんとなりながらも、しっかりつないだ手と手が支えとなって、無事に下の山路まで降りることが出来た男の子。なんともほっとした顔をしておりました。でも思い返してみたならば、去年は階段を下りるのもやっとだったのに、こんな山路に自ら足を踏み入れて、さらに崖まで伝って降りて来られたこの男の子。その成長とこれまでの姿を、嬉しく思い返していた僕でした。
 そんな情景も見せながら、山肌を縦横無尽に行き来してどんぐり集めに精を出した子ども達。その一人一人が手にしたビニール袋を合わせてみれば、午前中にこの子達が集めたものよりはるかに大量のどんぐりが拾われたことが分かります。これでたんぽぽさんに事実上おすそ分けした件をぼやく必要もなくなりました。せっかく良いことをしたとしても、自己犠牲の感が強く残念な想いが心を覆ってしまったなら、きっと次につながらない。だからここではどうしても『ご褒美』となる報酬が欲しかったのです。目論見はあったものの、それがいつも思い通りにならないのが自然であり、その自然をも用いて僕らに課題と心の糧を与えてくださるのが神様です。そうした導きにいざなわれ、秋ゆく日土の里で今日一日、素晴らしい体験をすることが出来た僕とこの子達でありました。

 こうして省みながら気がついたことが一つ。あの崖を降りることが出来た男の子、あれは僕らの姿そのものなんだと言うこと。僕らは日々の暮らしの中、思い通りに目標に向かって行けないことや、足元をすくわれて下に落っこちそうになることがしばしばあります。でも僕があの子の手を握っていたように、僕らは神様にしっかりつながっていたならば、多少すべっても尻もちついても大丈夫。必ずこの手を・体を・そして心を確かに支えてもらっているのだから。でも実際に手をつないでいたあの子が「こわい!」と言ったあの瞬間、僕のこの手を感じる余裕がなかったのです。この手につながっていれば必ず支えてもらえると信じることが出来なかったのです。それと同様に僕達も、『神様は御手を差し伸べて、しっかりこの手を離さないでいてくださる』と言われても、時々の混乱や焦りによってその御言葉を受け入れることが出来ないのが常。こんな朴念仁の僕でさえ、不安に苛まれることがあります。誰より自分は神様に守られていると知っているはずなのに。でも逆に、『神様がそこにいる』とそのことを思い出せたその時は、状況を楽しむ余裕さえ生まれて来るから不思議。自分が落ちてしまいそうと感じながらも、「でも大丈夫なんだろうな」と再び顔を心を上に向けることが出来るのです。僕らの神様はいなくなる神様ではありません。いつでもそこにいて「私はある」と言ってくださいます。だから僕らも「あなたはいつもそこにおられ、共にいてくださるまことの神です」と賛美しその御名を讃えられたなら、「私達は大丈夫」と言えるのです。喜びから始まって、楽しみ・哀しみ・恐れ・救いなどなど様々な想いを豊かに与えられ、子ども達と共に心も体もいろんなことを味わえた、僕らの『どんぐり拾い狂騒曲』でありました。


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