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<僕らの『人権・同和教育訪問』物語> 今年の気候はちょっと極端。ひと月以上もまとまった雨が降らない日々が続き、幼稚園下の喜木川は日土の『昭和橋』あたりまで干上がって川底を呈している状態。高気圧の強い状況が続いていることにより秋の行事はここまでお天気を心配することなく行われ、敬老参観・運動会・おまつりパレード・公開保育に親子遠足まで全て上天気のもとで実施することが出来、感謝でした。でもこの天気によって困っている人々に想いを馳せると申し訳ない心持ちです。みかん農家の方々は、この冬の収穫について今から心配。先日親子遠足で行った『ちぬやパーク』では利用人数の多さと雨不足からでありましょう、芝生が根付かず地面が露呈し西部劇のような『空っ風埃』が吹きすさぶような状況でありました。やはりこの季節は台風がもたらす程よいお湿りや、秋の長雨と言った恵みの雨が必要。それによっていくつかの園行事に変更・延期・中止があるにしても。私達は行事に際して万全の状況で臨めないことも多々あります。でもそこにはそのことを感謝して受け止めるための『恵み』がちりばめられているはず。そのことに気付かなければただの『不運』で終わってしまうのですが、いつも神様はそこに学びと気づきを備えてくださっているのです。 10月26日に行われた愛媛県教育委員会・八幡浜市教育委員会主催の『人権・同和教育訪問』はおかげさまで秋の晴れ渡った青空の下、無事に行なうことが出来ました。この公開保育が決まった時、「うちの幼稚園で見てもらうのは、やっぱり自然遊びだよね」と言うことでカリキュラムを策定した僕ら。「そのままの姿を見てもらったならそれが何より」と思ったものの、それが故に危ぶんだのは雨天時のプログラム。個性豊かな子ども達が織りなす室内遊びもそれなりに見所はあるのですが、『日土幼稚園らしさ』を表現するにはやっぱり外に飛び出して繰り広げられる自然遊びが必須。なので雨の少なさを憂いながらも、この日お天気に恵まれたことを神様に改めて感謝したものでありました。一方でその週頭から風邪・流感が流行り始め、当日は8人お休みの緊急事態。でも『与えられた状況と環境の中で精一杯やる』と言うのが日土幼稚園のいつもの姿。言ってみたなら、そんな『らしさ』を見てもらうことの出来た公開保育だったのかもしれません。『9時受付開始』と言うプログラムの中、子ども達はさっさと朝の準備をやっつけて、いつもより早いピッチでお外に飛び出して参りました。10時20分にはお片付けとなるので、早々に活動を始めた眞美先生とたんぽぽさん。日課であるヤギ牧場への散歩に向かう背中を見つめながら、保育を見に来てくださった先生方に「今、満三歳の子ども達がヤギの所へ行っているので、よかったらどうぞ」とアナウンス。まだその場に居合わせた方は4〜5名ほどだったのですが、牧場への道をご案内した僕でした。スーツ姿の先生方に「舗装道で行きましょうか。汚れたらいけませんので」とお伝えしたなら、「子ども達が行った道でいいです」との答え。「さすが教育のプロ。子ども達のことを身体で理解しようとしてくれるのね」と思いながら遠慮なく山路を案内したならば、急に歩みが遅くなった先生方。『満三歳児が行った道』と聞いて高をくくった所もあったのでしょう。でもうちの満三歳はちょっと違います。毎日眞美先生に「足に力を入れて」と言われながら滑り台脇の道を行ったり来たりして来たこの子達。毎日のおさんぽは伊達ではなく、自然路を歩く体力と体幹を嬉しいほどに体得して来てくれました。お客さんに「こんな路を満三歳が」と感じてもらえた場面とエピソードになりました。そのお客さんを失礼にも置いてきぼりにしてまでも、早く牧場へと着きたかった僕。このところ段々とヤギにあげる葉っぱが手の届くところからなくなってしまい、きっと手持ち無沙汰だろうと思ってのこと。でもちゃんと準備してくれていた眞美先生は、熟した柿の実の入ったバケツを手に来てくれていたのでありました。食べ出のある御馳走をもらってご機嫌のヤギ達は、あっと言う間に甘柿を食べてしまいました。ヤギはそれでよかったのですが、やっぱり今日はこれから上がって来る先生方へのプレゼンに『子ども達のエサやり』は必須演目。そこで高枝ばさみを持ち出しまして、花桃の枝にアカメガシ・イチジクの葉などを手早く刈り取り、子ども達に「はいどうぞ」。ちょうどその頃ヤギ牧場まで上がって来られた先生方の目の前で、子ども達がエサをやって喜んでくれている場面を見てもらうことが出来ました。これはいつもやっている『エサやりとそのお世話』の情景なので、造って見せているヤラセでは決してないのですが、その場面を見てもらえるかどうかで印象が大きく違って来ます。その場面に居合わせたお客さんは大いに喜んでくれたのですが、早々にヤギ牧場から降りて来たたんぽぽさん達と入れ違いにヤギの元へやって来た教育委員会の方々は、ただ『ヤギがいる牧場』を見ることに。ここに『8人お休み』が効いて来ます。もう8人もいたならば『ヤギ牧場さんぽ第二弾』もあったでしょうが、それはその日実現することはありませんでした。でもでもさすがは教育委員会の先生方。『教育の現場にヤギがいる』と言うことを大いに評価してくださって、ご自身のヤギの思い出、「うちもヤギを飼っていた」「僕はヤギのお乳で育った」なんて話に花を咲かせ聞かせてくれたものでした。「お乳が出るようになったら絞りに来ますから連絡してください!」なんて言ってくださる方もありまして、大いに面目躍如となった幼稚園のヤギ達でありました。 さて、ヤギ牧場からの帰りがけ、山の小路に歩を進め『どんぐり拾いコース』に進路を取ったたんぽぽ組。今週も毎日のようにこの路を歩き、どんぐりを拾ったこの子達。今年は他所では『山のどんぐりが不作で熊が山里まで下りて来て…』なんて言うニュースを聞いたりもしたのですが、幼稚園の山ではそれなりにどんぐりも採れて良いシーズンとなっています。そうは言ってもこんなに毎日採っていたならば、公開保育当日にはなくなってしまうのではないか…とも思ったもの。前日には「今日ぐらいはどんぐり拾い、お休みしてもいいんじゃない?」と明日の盛り上がりを期待する下心からそんなことを思った僕でしたが、嬉しそうにどんぐりを求め歩くこの子達の姿を見ていると、こちらも嬉しくなっちゃうからもう何も言えません。それで挑んだ公開保育当日、「今日はどうかしら?」と思いつつ園庭から見上げたこの子達の姿。「あったー」と嬉しそうにどんぐりを拾うその姿にほっと胸を撫で下ろしたものでした。でも「あったー」と言う声はあちこちに響いているのですが、言うほど収穫は出来ていないよう。僕が『通勤』のために降りて来るこの『幼稚園に至る山路』には、毎朝幾つずつかどんぐりが転がり落ちています。『山盛り』と言うにはほど遠い数ではありますが、毎日数個から十数個、新たなどんぐりが足元に転がり落ちているのです。僕らにとって一番切ないのは『与えられないこと』。毎日の外遊びにしてもどんぐりにしても、『行事の準備に忙しい』『もう季節ではない』と言うことで出られない・得られないことも多々あります。でもわずか20分の外遊びでも・たった一個のどんぐりでも、それは子ども達の『与えられた』と言う想いを満たし、『また明日も!』と言う希望につながるのです。僕にとっても子ども達にとっても、それが何より嬉しいことなのです。そんな子ども達の元に馳せ参じ、この日は彼らのどんぐり拾いに密着したのですが、落ちているどんぐりを取り尽くすほどには彼らのスキルは熟していないことが分かりました。「ほらそこ、足元!」と指差してもそのどんぐりを見つけられないこの子達。それを知った上での『毎日散歩』だったんだなと眞美先生のこの子達を見る目の確かさを改めて感じさせられました。そんなこの子達にプレゼントを届けようと、また崖に足を踏み入れどんぐりを拾い集めたこの日の僕。当日は午後から全体会もあり、来賓の前に立って話をすることになっていたので、いつものブルージーンズではなくスラックスのようにも見える薄い色のチノパンを履いていました。山路を行き来することは想定内だったのでこれを選んだのですが、ここでコケれば酷いことになるのは必至。それでも足元を確かめつつ崖を伝ってどんぐりを拾い集め、たんぽぽさんの元に届けた僕。「まだ持ってない人?一人一個ずつね」と言って差し出せば、全部わし掴みにしてニヤッと笑う男の子。「そうだよね、目の前にあれば全部欲しくなっちゃうよね」と笑いながら、雛にエサを届ける親鳥のように、またどんぐりを拾いに崖路に飛んで行ったのでありました。そんなこんなでここでもまた、『どんぐり拾いに興じるいつものこの子達の姿』をお客さんに見てもらうことが出来ました。 この日は上に下に走り回った園長先生。園庭では子ども達のどんぐり遊びが大盛況。ももばらの子ども達は『どんぐりキャンディ』をお客さんにセールス・大売出し。葉っぱをお金に、素敵な手作りキャンディを販売しておりました。お買い物のやり取りに最初は嬉しそうな顔をしていた男の子。でもお客さんから「本当にもらっていいの?」と尋ねられると段々と切なそうな表情に。そのために準備したと言うことを自分でも分かっていたはずなのに、そんなに改めて聞かれちゃったら愛着も物悲しさも湧いて来て、アンパンマンに出て来る『もらわれてゆく野菜に別れを告げるオクラちゃん』のような切ないお別れの顔になってしまいました。そんな彼の表情に「やっぱりいけんよね」と辞退しかけたお客様。そこに居合わせた美香先生の「いいんですよ」のフォローの言葉に我に返り、笑顔を取り戻し、キャンディをお客さんに渡せた男の子でありました。でも商売だからと言ってウハウハお金と交換しちゃうのでなく、自分の手塩にかけたどんぐりキャンディに愛情を感じ、別れを惜しんでくれた彼の想いを、半分笑いながらも嬉しく見つめた僕でした。 またいつもの『カニ・マンホール』にしゃがみ込み、「カニがいる!」と言い始めたすみれの男の子。そんな彼とのやり取りに促され、マンホールの蓋を開けた僕。雨が降った時には園庭隅に横たわる水切りグレーチングにサワガニが流されて来て、その後雨水や排水と共にこのマンホールまでたどり着きます。沈殿槽になっているこのマンホールから先にカニ達は行くことが出来ず、長いことほおっておかれると死んでしまうこともあるのです。なので定期的に網ですくっては幼稚園の杜に逃がしてやっていた僕とこの男の子。この日もそんなルーティーンを始めたならば、見学の先生方がその周りに集まって来ました。クラスの仲間達はほとんどお休み、男の子二人で年長組を支えることとなったこの子達。初めのうちは『どんぐりコース作り』で共闘していた二人のすみれさん。そこに下の子達も加わって来て、おかげさまでそのブースも賑わいを見せ、見学の先生方を相手に素晴らしいプレゼンをしてくれました。ひと段落つきまして、次の遊びに想いがうつろうそんな頃、ふと我に返るといつもの相棒もディスカッション相手の女の子達もいないことに気付いた男の子。そんな時、彼の想いと目の向く先は、やはり日土の自然でした。『今の子どもは人間の相手ばかりしているからしんどいんだ』と論じるのはまたまた養老孟司先生。『自分の中に人間との関係による世界しかないから、そこに行き詰まった時、逃げ場をなくしてしまう。自分は小学生の頃、一週間の半分は川で魚を釣ったり虫を捕まえたりしていた。人間関係がうまく行かない時にも、こうした何も言わずに受け止め受け入れてくれる自然との関りが、自分の救いとなった』と言うようなことをことあるごとに述べられています。逆説的ではありますが、ふと一人になったその時にこの子に『関心の赴く先』を提供してくれたこの豊かな日土の自然は、彼の後ろ姿を通してその言葉を僕に思い出させてくれました。カニと戯れる彼の姿に引かれるように集まって来た先生方。自分のことを聞かれるのではなく、相手のことを聞かされるのでもない。目の前のカニを『依り代』にお互いの言葉を重ねながらしばしの時を共有しておりました。お互いに興味の先はカニにあり、『それがどうか・それをどうするか』の話によってコミュニケーションを取っていた彼とお客さん。知らない人との対話や見ず知らずの人からの干渉がちょっと苦手な男の子。でもサワガニを介してのコミュニケーションなら相手の存在を受け入れて、自分の想いも言葉にして伝えることが出来たのです。別にしゃべりたくなければしゃべらなくてもいい。カニを一緒に見つめていれば、それでいい。でもそうして一緒にカニを眺めているうちに、相手も同じ想いを感じていることに気付き、自分の想いも投げ掛けたくなってしまう、そんなこともあるのです。自然を介したコミュニケーションは、お互いに圧を感じない文字通り『自然さ』が魅力なのです。 そこに割って入って来たのはももの男の子。カニ捕りの現場には居合わせなかったのですが、バケツの中に集められたサワガニを見つけ、お客さんに幼稚園のカニについてプレゼンテーション。こちらの彼はさっきの男の子と違って、誰彼構わず話しかけられる優れた『コミュ力』の持ち主。自分が捕って来たかのような口ぶりで、カニに関するあれやこれやを友達に話して聞かせるが如く、ずっとしゃべりまくっておりました。そんな人懐こい彼の人柄とおしゃべりを大いに喜んでくださった先生方。ここでもカニがきっかけとなって自己表現&自己アピールを見せてくれたこどもの姿がありました。「自分はこれ出来るんで!」の一人称ではなく「君ってあれだよね」の二人称の話でもない、「これってさあ」と言う三人称の話題を提供してくれる日土の自然。僕らの日常の中に当たり前にあるものだからこそ共通認識の土壌が生まれ、『人間関係』だけではないトピックスを僕らに提供してくれるのです。 そんな子ども達の様子を見つめながらある先生が「子どもが開けてくれてって言ってマンホールを開けてくれる先生、偉いですよね。私達だったらためらってしまう」とおっしゃっておりました。そう、何かあったらすぐに『危機管理が出来ていない』とやり玉に挙げられて、息苦しさを感じる今時の教育界。特に公立の幼稚園・保育所は教育方針や保育の中味を色んな所から、注目され・クレームを言われて、きっと大変なことでしょう。日土幼稚園は自然保育を謳い、『本物の実体験』の大切さを保護者の皆さんに訴えかけています。勿論、であるからこそ安全管理には十分配慮し、こんなカニ捕りの場面でもずっと大人が寄り添いその姿を見つめています。『子どもが勝手にマンホールを開けてはいけない』とルールも決めて伝えているし、開けっ放しのマンホールが放置されるようなことはありません。でもそんな括りを課しながらではありますが、こんな保育が出来るのは『この園だからこそ』だとも思うのです。自然保育をPRし、『この園を選んで来てもらっている』と言うのが今の日土幼稚園。保護者の方の利便性とこの園の保育を天秤にかければ、多くの人が他園・他所を選びます。少子化も勿論ありますが、それでここまで園児数を減らして来た日土幼稚園。でもそれもこの幼稚園なりの教育理念と覚悟をもってのこと。こんなに保護者の方に『子ども達の為』と言って我慢を受け止めてもらっている幼稚園が今の時流に対してウケることは決してないでしょう。でもそんな僕らの保育を支持してくださっている皆さんに支えられ、私達は『日土幼稚園の保育』をこれまで続けて来させていただきました。この想いを共有し、『これが日土幼稚園らしい保育』と受け止めてくださる皆さんだからこそ、「子どもに危ないことさせないで!」と言われることなく『子どもの目の前でマンホールを開ける保育』が成り立っているのです。このこと本当に感謝です。それに加えこの園児数にこの職員。誰かが一人に寄り添って時間を費やしても、他の意識の高い職員が残された子ども達を見てくれることで、十分に補え合えるこの園の今の規模が、僕らにこんな保育をさせてくれているのです。少子化はこの園にとっても大きな課題でしたが、紆余曲折を経て今、より良い保育を実現するために美しいバランスを見せてくれています。僕らにとっては何気ない日常の一コマだったのですが、そんな気付きと省みを与えてくださったお客様の一言に、感謝したものでありました。 2時間ほどの公開保育でしたが、僕の目から見ただけでもこのように見所満載の関わりや子ども達の姿があちらこちらで見られました。午後の全体会でも諸先生方から沢山のお褒めの言葉をいただき、本当に嬉しかったです。僕らにしてみれば日頃と同じくそのまま行われたうちの保育を、見に来てくださった方々が大いに喜んでくださったこと、それが何よりのことでした。全体会の中で時間を与えられお話させていただいた『基本方針説明』では、当園の『建学の精神』『保育の理念』が『キリスト教』と『キリスト教保育』に由来するものであることを朗々と語り、その中で『僕らの掲げるキリスト教保育とはいかなるものか』を皆さんに聞いていただきました。公立園や県・市の教育委員会の方々に対して『キリスト教』を熱く語ったこと、それは『場違い』なことだったのかもしれません。しかし自園の信念に基づく保育が許されているのが『私立幼稚園』であり、その教育理念とそれに基づく『保育の形』を公に対して発信することこそが、日土幼稚園の『存在理由』だと思うのです。僕らの『子ども達・そして皆さんとの向き合い方』を裏付けているもの、それは『神様の愛』。『子ども達・そして我々教師と保護者の皆さん』は全て神様に愛されている尊い存在であり、その人権は守られるべきものであると説いた僕。そしてそのためには三者が己の利を譲り合い・想いを分かち合い・共に愛し合うことによって、皆が嬉しくなれる幼稚園の具現化を目指しますと述べさせてもらいました。ご参加くださった先生方によって心温められ、語り合うことで心熱くさせられた『人権・同和教育訪問』の研修会。皆さんのご協力とご支援に心より感謝です。 |