園庭の石段からみた情景〜園だより2月号より〜 2024.2.14
たんぽぽの『とある一日』の物語
 今年も立春を過ぎましたが、まだまだ寒さに身を縮める日々が続いています。その昔、うちのじいちゃんは「お水取りが来たら暖かくなる」とよく言っていたもの。お水取りとは奈良東大寺の二月堂で悔過法要として行なわれる行事。このあたりで言ったなら椿神社の『お椿さん』も春を告げる行事として人々に親しまれています。こちらに対しては「インフルエンザが流行る頃だから、あの人混みに行くのはいかん」とTVニュースを見ながら苦言を呈していた祖父。自身はほとんど村の外に出ることなく、日土の里に引き籠って『清水病院』を営み、農村の地域医療を支えて来た資明翁。その生き様は尊敬に値するものなのですが、いまだに『お水取り』と『お椿さん』の良し悪しの評価の違いが分からない僕。『お椿さん』と『お水取り』の間には10日ほどのずれがあるのですが、インフルエンザの流行に関してその10日間の差が肝なのだと、医者としての直感が言わしめていたのでしょうか。
 そんな昔話を今思い返しても「難しい人だったなぁ」と思う資明翁。生前はそんな祖父にあれこれ『ダメ!ダメ!』言われることを煩わしく思うこともありましたが、今ではそんな『世間と違う切り口』で物事を見つめる独特の視点を『僕自身の省み』に用いることが多くなりました。祖父に『ダメ!ダメ!』言われて、「ではどうならいいんだろう」と幾度も再考して答えを導き出していたあの頃。そこは『祖父のダメじゃない領域』を分析しつつ、その間をかいくぐって自分の想いを入れ込む『鍛錬』と『自己研鑽』の場に確かになっておりました。祖父が他界してからこの日土幼稚園も大きく変わりましたが、その際は『時流』や『流行り』・そして『損得』や『利便性』だけで判断し改築を押し進めて来た訳でなく、『じいちゃんだったらなんて言うだろう』と言う視点でその度毎に立ち止まって考えて来た結果です。だから『今時の幼稚園や社会』と比べたならアナクロで時代遅れに見える日土幼稚園ですが、昔を知っている人から見たならば大いに『変化』『進化』していると驚かれることでしょう。でもそれが僕らの歩みの歩幅であり速度だと思うのです。一歩一歩を踏みしめ確かめながら歩んで来た結果の95周年。日土幼稚園らしさを保ちつつ、今時の人からも『これくらいなら、まあ、しょうがないかな』と受け入れ愛される幼稚園であり続けられるよう精進してゆきたいと思っています。神様の御心に聴きながら、そしてこの秋に20回忌を迎える資明翁の『偏屈さ』と『辛口評価』に自分自身の判断の正当性を尋ね確かめながら。

 先日、たんぽぽの部屋にお留守番に行った時の事でした。『たんぽぽさんの自由遊びを見守る』と言うお仕事だったのですが、久方ぶりにこの子達の部屋遊びをじっくり見つめる機会となりました。入園間もない頃は、それぞれが好きな遊びに独自に興ずる『平行遊び』が目についたもの。園児数が少ないとは言え、遊具も一人に一個ずつある訳ではありません。人気のおもちゃには皆の想いが集まるのですが、まだまだ貸したり貸してもらったりのやり取りが出来るお年頃でもありません。そこでおもちゃを介在しつつ1〜2人のコロニー(集団)がぽつんぽつんと出来てゆきます。そこでも基本は一人遊び。一人で遊びつつ、時より先生に声をかけ関わってもらって満足そうに遊んでいた子ども達の姿がありました。あれから半年ほどの時を経て、じっくりと観察してみたたんぽぽの部屋。そこには『レゴのコロニー』『レール遊びのコロニー』『トミカのコロニー』『アンパンマンのコロニー』と以前と同じようにおもちゃごとに『遊びの島』がぽつんぽつんと出来ているのが見受られます。でも前と違うのはその間を流動的に行き来する子ども達の姿。トミカを並べて遊んでいた男の子のところに、別の子がやって来てトミカを持って行こうとするものだから、「これぼくの」と主張する男の子。「・・・(ふーん)」、男の子の顔を見つめつつ別のトミカに手を伸ばし「・・・(これは?)」。「これならいいよ」と貸してくれた男の子。そこでめでたく商談成立。言語コミュニケーションの分化度に差はありますが、でも相手の想いを確かめながら『貸し借り』を成立させて見せてくれたこの二人の関わりを、感心しながら見つめた僕でした。並行遊びから一歩先に足を踏み出しつつあるこの子達の姿と関わりが確かにそこにはありました。

 そんなたんぽぽの部屋で、ある男の子が「おべんとバスごっこ!」と言って椅子を並べ始めました。『おべんとバス』とはご存じ発表会の演目。そこからイメージをインスパイアーされたのでしょう。現存するコロニーをちゃんとよけて、スペースのある端っこに椅子を並べます。その遊びに乗って来た仲間達と連れ立って、あっと言う間に人数分の椅子を並べてくれました。彼らの始めた遊びに全員が賛同して「やる!やる!」と言った訳ではないのに、その日そこに居た人数分の椅子を並べると言うこの子達の配慮にちょっと感心。「これならば喧嘩にならないね」と思い見つめていたのですが、先頭中央の椅子に後からやって来た男の子がさっと座りました。すると椅子を並べた男の子が「ここは僕の!」と自己主張。人数分の椅子を用意しながらも、ちゃんと自分の場所はイメージしていた男の子。そう言われて後から来た子は「・・・(?)」。お互いに「・・・」の状況が数秒流れたのですが、沈黙を破って「〇〇君はこっち!」とその子に対してその右の席を示した男の子。その言葉に「・・・(!)」と納得したようで、一つ隣に移動してくれた〇〇君。それで一件落着。お互いに了解し合って『おべんとバスごっこ』が再開されたのでありました。そう、後から来た子も「とってやろう!」と言う想いで割り込んで来たのではないのです。その時、先の彼は別の列で椅子を並べていて、その先頭中央の椅子は空いていたのです。ちゃんと言語コミュニケーションをもって自分の想いを自己主張出来た男の子も偉かったし、それを聞いてちゃんと受け止められた〇〇君も偉かった。『言葉で返事を返す』と言うところまでは行きませんが、相手の言葉をちゃんと聞いて理解して、その想いを受け止め上で行動で返した彼。「・・・」だったけれど。それでちゃんとコミュニケーションが成立した現場を嬉しく見つめた僕だったのでありました。たんぽぽさんの関わりにおいて、このような『もめごとの種』は日常的に発生するものなのですが、なんかこんな『ブレイクスルー』をその時々において見つけ出し、肉弾戦の大乱闘に発展しないのが偉いところ。入園当初は自我の強さから少々のフィジカルコンタクトもあったようですが、最近はこんな風に『ふにゃふにゃふにゃん』ともめ事が収束してゆく情景をよく見かけます。これは彼らのコミュニケーション手段の多様性が功を奏しているのかもしれません。『口が立つ同士』『言語コミュニケーションが未発達同士』の関わり合いであったなら、お口がヒートアップしたり、または先に手足が出ちゃったりするところを、その『異種格闘技戦』のようなコミュニケーションが、「よく分からないけれど、まあいいか」と事を上手に収めてくれているみたい。その際もお互いの想いを確認し合う作法は決して忘れていないこの子達。言葉にはならなくとも、相手の顔を見つめコンセンサスを取ろうとする姿の中に『相手を慮る想い』が感じられます。「これが『相手の想いに寄り添う』ってことなんだよね」と感心しつつ、その想いが相手に伝わる現場を嬉しく見せてもらった情景でありました。まあ今でもいつもいつもそうではなく、突発的な動きや接触もあるみたいですが、その『太刀合わせ』によって学んで来た『相手との距離感や想いのやり取り』もあるでしょう。いずれにしても満三歳クラスにおける自由遊びのやり取りで、それも抑止力となる先生の視線がない状況で(僕はこの子達には先生として認識されていないようです)、こんなに平和裏にやり取りが行なわれたことに、大いに驚きと喜びを感じた僕だったのでありました。

 僕らは『言葉による想いの伝達と分かち合い』の分化を目指して、子ども達に言葉かけをしています。「お口で言って」「お話して」と。でもこれには得意不得意がありまして、僕なんかも瞬時に自分の想いを言葉にして投げ返すのは苦手な方。割と人の言葉や話は聞いているのですが、それを受けて自分の想いを言語化して返そうとすると、『あ、ここで矛盾しちゃう』とか『これはなんか違う』とその時の想いから言葉が発散して行ってしまい、一つの言葉に収束しないのです。それが『想いを文字にする作業』だと、瞬時の瞬発力がなくとも何度も推敲を重ねることが出来るので、こうしてなんとか想いを表現出来るのです。そうではありながらこの原稿一本書くのに何度も見直し書き直しているので、やっぱり月イチがいいペース。それでは日常会話にはなりません。小さくても巧みに言葉を使うあの男の子を見つめながら、「おしゃべり上手はいいよね」とうらやましく思うのでありました。
 さて、そこから遊びが急展開。あの男の子プロデュースの『バスガイドツアー』が始まりました。彼が生まれた頃にはほぼ絶滅していたであろう『ガラケイ』を耳に当て、電話の向こう口と打ち合わせ。「はいはい、次はアンパンマンミュージアムに行きます!」と誰に向かって言っているつもりなのか定かではないのですが、その日点在していたコロニーの所へゆきまして、御一行様をご案内。そこでアンパンマンのおもちゃで遊んでいる子とちょろっと遊んで、矢継ぎ早にバスに戻って来ます。バスの座席に座って早々に出発進行!またまたケイタイを耳に当て、「次はトミカ博!」と言って『トミカのコロニー』に移動…。そんな彼に引き連れられて、バスのお客さんはあっちにこっちに観光旅行。そんなこんなを繰り返し、着きつ離れついたしながら一緒になって嬉しそうに遊んでいたたんぽぽさん達でありました。そんな彼の『ツアコン』ぶりに、嬉しいやらおかしいやら、にやにやしながらその情景を見つめていた僕。並行遊びから一歩踏み出そうとしている段に入ったとは言え、やっぱり自分の想いに駆られて「これで遊びたい!」と『人』よりも『遊具』と向き合って遊んでいるこの子達。そこに『ごっこ遊び』を持ち込んで、バラバラに遊んでいた仲間達を見事につないでしまった彼の発想とコミュニケーション能力に脱帽してしまいました。彼は以前にも『避難訓練ごっこ』だとか『消防士さんごっこ』とか、自分が見たり聞いたり体験したものを遊びの中に再現して遊んでいると言う話を聞かせてもらったのですが、これほど見事なものとは思いませんでした。僕自身、『ちいさなコロニー』で一人集中して遊ぶようなタイプなので、この男の子の姿を見つめながら、「言語コミュケーションとそれを上手に転がしてくれる人の存在は大事だよね」と思ったもの。その言葉はコロコロと転がる石のようにどんどん変わってゆくのですが、そんなこと一向に気にしていない様子。でもなによりその『対応力』の高さに驚かされます。出向いた先のコロニーで予想外のテナントさんの言葉が返って来ても、ひょうひょうとその想いや言葉を受け止めて、「じゃあこうしよう」とお互いの想いが満たされるようプラニング変更をしてくれるのです。この辺りはもはやベテランのツアコンさんのような臨機応変さ。新入り社員だと「いえ、決まっているので」となかなかお客さんのニーズに応えてくれません。ほとんどの場合お客さんの『わがまま』なのですが、お客さんにしてみれば譲るに譲れない理由が存在する訳で、その願いを叶えられないまでもその人の想いに寄り添うことを大切にしなければ、その旅行社は廃れて行ってしまうでしょう。その辺の折り合いや落し処の見つけ方のとても上手な彼。上手なおしゃべりと相まって、これからもみんなの間に立って『平和』を築いて行ってくれることでしょう。そんな驚くような世界観とスキルを見せてくれたこの日のたんぽぽさん達。なんかこの子達の日常の姿から、僕自身学ばされることが多かったような気がします。こんな『平和』な日々がずっと続いて行ってくれますようにと、神様に祈る僕なのです。


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