園庭の石段からみた情景〜園だより3月号より〜 2024.3.6
『個性』が救うこの国の未来
 今年度も残りひと月となりまして、『卒園・進級の春を待つばかり』のつもりでいた僕ら。のはずがそこから『厳しい寒の戻り』に苛まれ、身を震わせる日々を過ごして来たものでした。今年は平均気温から言ったなら『暖冬』と言える冬だったかもしれませんが、時より訪れる異常に暖かい日が平均点を引き上げただけって感じもしています。南岸低気圧に向かって南の暖かい空気が呼びこまれ、『2月なのに夏日(25℃越え)』なんて日もあって、その日は『半袖で過ごす人もありました』と報じるニュースが流れました。しかし一転、翌日低気圧が東に抜けると『西高東低』の気圧配置に置き換わり、それに向けて北の寒気が流れ込んで…と言う真冬に逆戻り。昔は三寒四温と言って上がったり下がったりを繰り返しながらも程よい振れ幅の中を徐々に春を目指して季節が巡りゆくものだったのですが、今は本当に両極端。『0 or 1』で全てを表し評価しようとする『デジタル化』の風潮が季節の移り変りの中にも投影されているような気がするのは、僕ばかりでありましょうか。

 先日の放課後、預かりの子ども達と一緒に園庭で遊んでいた時のことです。三輪車を駆り走り回ったり、野球やバドミントンに興じていた子ども達が預かり特有の興奮状態でちょっと熱くなり過ぎたそんな時、「ちょっとクールダウンしたいな…」と思った僕。何か彼らの興味を引くものはないかと思い、久々に『カニマンホール』を覗いてみたならば、赤い影がうごめくの見えました。穴底の暗闇を格子の上から覗いて視認するのは難しいことなのですが、『マンホールにうごめく赤い影と言えばあれでしょう…』と言うことで子ども達に「見て!」と声をかけた僕。すると覗き込んだ男の子が「カニ!いる!」とさっと網を取りに走ります。勝手知ったるこの子達。カニを見つけたなら『タモアミ』のもとに走ると言うのはもうお約束。早速マンホールを開けてみたならば、サワガニが三匹、近々に降った雨に流されて来たのかマンホールの中に入っておりました。そしてそのうちの一匹は何を足掛かりにしたのかマンホール桶の周壁に掴まって、水面近くでモゴモゴしていたのです。そう、マンホールの底にいるサワガニは蓋の上からはなかなか視認しにくいものなのですが、この日は簡単に見つけられたことが不思議であった僕。どうやら上の方にいたのですぐに見つけられたよう。子ども達も「いる!いる!」と口々に声を発し、カニ捕り作戦に参画し始めました。ちょっと前までは「いる!」「捕まえる!」ってところまでは行っても、なかなか自分で捕獲出来なかったももばら年次の子ども達。でも今ではタモアミを駆使しながら果敢にカニに挑んでいます。そんな彼らの奮闘がいっとき続き、おもむろに「どうしたらいい?」と声をかけて来た男の子。「こうやって捕ればいいんだよ!」ってやって見せるつもりで振り返ると、すでに網にサワガニが入っているではありませんか。なんだかんだ言ってカニ捕りを成功させたこの子達を「やるようになったじゃん!」と言う想いで見つめた僕。『じゃあ、なにがどうしたらいい、なの?』と思いつつ彼らのもとに近づくと、『捕ったカニをどうすればいい?』と言う意味だったよう。困った顔をした男の子に、「入れ物を持って来たらいいんじゃない?」と言うことでバケツを取ってあげたのですが、それでもそこから物事が進展して行きません。「入れればいいじゃん!」と言う僕に「何とかして!」と言う男の子の声が飛び出したのでありました。

 そこにはピアノレッスンのために来ていた一年生と彼のお母さんがいたのですが、「なんか聞いたことあるぞ、この言葉!」とその顔を見つめ笑ってしまいました。そう、『今は一年生となった彼のお兄ちゃん』も幼稚園の頃、網で蝶やカニを捕ってはその後「何とかして!」と大騒ぎしてたもの。「兄弟だねえ」と大笑い。「バケツの上で網を逆さにして振ったら落ちて来るよ」とアドバイスしたなら、その言葉通りになり一件落着となったそのカニ騒動。頭でっかちの今時の子ども達。タモアミを使ったなら『非接触』でカニを確保出来ると言うロジックを元に行動を起こしたのでありましたが、本当に捕れてしまったらその後どうしたらいいか分からずパニックになったと言うこの案件。網を振ったら落ちて来るし、それでダメなら『背中から甲羅をつまめば挟まれずに掴める』と言うのが僕らのセオリー。でもそれらは実際に自分で体験してみないと分からないノウハウ。相手がサワガニなら挟まれても大事に至らずまず大丈夫。彼らにとっては不本意かもしれませんが、指を挟まれたり、無理に力を加えたら足が取れてしまったり…と言った体験を重ねながら、『どう関わって行ったらいいか』を自ら学んで行ってくれたなら、それがなによりだと思うのです。サワガニを始めとする自然の者達は雑菌や寄生虫を持っていることもあるので、『触った後は手を洗う』、それがエチケット。アカハライモリも毒があると言われますが、手で触ったくらいでは大丈夫。それが口や目の粘膜などを通して体内に入ると『毒』となり得るのですが、正しい知識持った上で適切に扱ったならまず大丈夫。いずれにしても『とにかく触ったら手を洗う』『触った手で口や目に触れないこと』が大事でありますので、そこは注意しつつ色々な生命や自然物と触れ合って欲しいと思う僕なのでありました。

 現代では『こうしたらいい』と言う正解を教えてくれる指南本や動画は一杯あるので、一つの答えにたどり着くのは簡単です。でも『それが自分に合ったやり方か?』と言うのは人それぞれ。また他の事例に応用してゆくためには『直・答え』のインプットではなく、トライ&エラーの実体験がやはり有用だと思うのです。またネットや書籍などから得た知識は一つの切り口から見たものが多く、『良い』『悪い』の二元評価に傾倒しがち。だからそれを読んだ読者は『生物には触れない方がいい』とか『この種の虫は全駆除すべき』と片方に振り切れたロジックに陥り易いのです。しかし何にでも『利点』『欠点』は共存しているもの。多角的な視野を持った上でバランスの良い判断をすべきだと思うのです。僕もお母さん方から子ども達をお預かりする仕事を生業としているので、教材を選定する際に安全率は高めに設定して判断をしているつもりです。しかし時代の風潮はそれを遥かに超えての二元論・『YESかNOか』と言うところで良し悪しを論じ、みんな『ダメダメダメ』とそんな社会になってしまったように思うのです。そうした方が『管理』しやすいから。何かあったら『責任問題』。最近になって『非認知能力』と名付けられ、「大事ですよ」と言われるようになって来たこのような『対応力』『状況判断能力』もまだまだ評価の基準が画一化されておらず、その重要度の認知も世の中に浸透していません。数値化・比較化出来る『知識量』や『運動能力』などに重きが置かれている現状も変わらないのです。その方が分かりやすいから。『新記録』は数値化されて初めて他者より優れていることが分かるもの。でも数字は一つの『切り口』で、スライスした観察対象をプレパラートに乗っけて顕微鏡で見た断面のようなもの。一つの切り口でこんなにも個性的で感性豊かな子ども達の何を評価出来ると言うのでしょう。違う部分をカットしたなら、また全然違う絵が見えて来るでしょうし、切る方向を変えただけでもまた評価が変わってゆくものかもしれません。そんな『誰かが決めた規格』から外れたものを『ダメダメダメ』と言うだけの評価では、この子達を知ることは出来ません。その子の素晴らしさはこの世に生まれて来た時に神様が与えてくださった賜物。何が好きで・何が嫌いで、何に興味を持ち・何に喜び・何に哀しみ・何に不安を感じるか。昔から『三つ子の魂百まで』と言いますが、幼い頃に関わりを持ったもの・体験したことからそれらの自覚(無意識の中に生じるものではあるのですが)が形成され、その後の人生において彼らの行動の基となる思考や行動原理につながってゆくのです。それが『個性』。何に執着し、何に一生懸命になれるか。はたまたどのように物事を捉え、どのように向き合えるか。これは人それぞれ違います。一つのことにぐっと集中・執着し、それを極めることに喜びを感じる子がいます。逆に想いが次々移ろいゆき、興味の対象がどんどん変わってゆくような子もいます。これだけの表現で評価したなら、前者が優良で後者が劣性のように思えて来るかもしれません。しかし切り口を変えてみたならば、一つのことを極める子は少なくともそれに集中している間は他のことが一切出来ず、他人との関係構築が苦手だったり、自分の身の回りのことが全然出来なかったり、時間にルーズであったり…と、一つの良い面の代償として様々な『苦手』を有している場合が多くあります。逆に後者は広く浅く物事を俯瞰で見ることで、全体のバランスを取って一人一人の仕事や個性をつないでみんなで大きな仕事をしてゆく力に長けていたりもするもの。また優れた洞察力・観察力を持つことで、人の気持ちに気付いたり、相手に想いを寄せて寄り添うことが出来る人だったりするかもしれません。「さて、どちらが良い子どもでしょう?」と言われてもそれぞれ単独の切り口での評価しか出来ないでしょう。今は例えで話すために二通りの『個性』を提示して比較してみましたが、人間とはもっと複雑なるもの。このような分類で定義出来ない、一人一人素晴らしい想いと考えを持った子ども達を目の前にして僕らは、日々彼らと向き合いながらその向き合い方・受け止め方について、常に考え・自らの想いを投げ返す者でありたいと願っているのです。

 このように論じることの出来る個人の尊厳としての『個性』と、それを受け入れる社会の『多様性』。これを違う切り口で見たならば、『この関係は社会にとっても大事』と言うことも分かるはず。人間がみんな同じ画一的な存在となってしまったら、その社会はいずれ一つの外乱によって滅んでしまうでしょう。『多様性とは、人と違った多様さを持つ個人を救うための理念』と思われる方があるかもしれません。しかし社会にとっても多様性は大切な切り札なのです。同じ抗体しか持っていなかった文明が『一つの未知なるウイルス』によって絶滅してしまった歴史がありました。画一化は効率化。経済性も生産性も良く、無駄が排除されて良いように思えます。『こうしたらそうなる』、それを『システム』と言います。徳川幕府の時代が300年続いたように、その制度・施策が状況にマッチしている時には一つのシステムが機能して安定した時代を作ります。しかし未知なる黒船がやって来た時、その思想や思考ロジックは全く役に立たず、ともすれば日本は当時の諸後進国と同様に植民地になる危機さえありました。それを救うきっかけとなったのは『反徳川』の維新の志士達。徳川からしたら異分子です。彼らの存在と主張により国策転換したこの国は、『多様性側の人々』によって救われたとも言えるでしょう。
 しかし戦後、『大量生産・大量消費』と言う経済システムを踏襲してゆくことによって再びこの国の安寧は保たれ、『画一化の時代』が長く続きました。そんな時代にあって私達は子ども達に幼児教育を施しているのですが、それは決して個性的な彼らを凡庸なる画一に集約する為ではありません。彼らが自己発揮出来るよう、『個性』を伸ばして行けるよう、それに有効な手立てを教授しているのです。その結果、得意なものがどんどん伸びて行ってくれたらそれでいい。苦手なものがあってもそれでいい。一般的手法が有効とされる場面においてそれが苦手な子ども達は、自分の好きなものや得意なものを使った『別ルート』でその課題を克服してゆけたらそれでいい。そのために必要なのは自己実現や自己肯定感を伴った『対応力』の啓発。その子の想いが宿ったやり方で、一杯一杯成功・失敗体験を積み重ね、オリジナリティーあふれる『個性』と言う能力を伸ばして行って欲しいと思うのです。


戻る