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<帰郷2024春> 春休みに入っても花曇りや菜種梅雨が続き、まだまだ肌寒さを感じる日が続いています。でも例年なら春休みに入ってから咲く花桃が一週間も早く咲き、修了式を迎える前に子ども達と愛でることが出来たのは嬉しい誤算でありました。日土の春の風物詩でありこの季節の『日常』を感じさせるのは菜の花。緑と黄色で埋め尽くされた日土の山を背景に、『お祝いの季節』『旅立ちのはなむけ』を感じさせる花桃の華やかなクレナイ色が点描画のように重なり加えられた様を眺めながら、「やっと春が来るんだねぇ」とそんな想いがしたものです。そうかと思えば園庭のソメイヨシノはいつまで経っても咲く気配を見せてくれず、枯れ木のようにそこに佇むばかり。桜から思い起こすのは『進級・進学』のイメージでありましょうか。「まだまだすっとここにいたい」「学校よりも幼稚園がいい!」なんて言ってくれていた子ども達の姿に重ね、「まだかなぁ」と見つめている今日この頃です。 でもそんなことを言うのは男の子ばかりだったのが興味深いところ。女の子に「ずっと幼稚園にいてよー」と言っても、「ダメ。小学校に行くんだから!」「暇な時にまた来てあげるから」と僕をタシナメなだめる彼女達。さすがいつも前を向いて歩いている女子達です。一方、男子は一度弱音を吐いてからじゃないと先に足を踏み出せない生き物のよう。『今この時を大事にしたい』と言う保守的思考は僕も同じなので、その想いがよくよく分かります。でもあっちとこっちを隔てる線の上に自分の足で立ってみて、改めて双方の景色を比べたならば、「やっぱり行かなくちゃ」と思えるのは相も変らぬこの子達の真面目なところ。改めてそんな作法を経てからでないと前に進んでゆけないのも、僕と彼らの共通項なのでしょう。先に先に行こうとする女の子の姿を見つめながら、その想いを促され引っ張られして来た男の子達。それに加えて『卒園』を課題に掲げつつ、一つ一つ年長児としてやるべきことを成し遂げ歩んで来たその足跡が、自分の心のコップを自信の蜜で満ち溢れさせ、そこから滴り落ち始めたのは『未来への希望』。それによって彼らも『次のステージに足を踏み出す勇気』を手にし始めたのでしょうか。しばらく『へたれ心』を口にしていたのが次第に、僕が誘惑の言葉で留年を促しても「小学校に行くんだから!」と確固たる言葉で固辞するようになったのは、その証なのでありましょう。 暖冬と言われながらずっと続いて来た寒さの中、『記録更新の暖かさ』が時々にもたらされた今年の冬。春になったら花をつけようと待ち望んでいる草木達も、「早いなぁ」「もういいかなぁ」と頭を悩ませているようなそんな様子。でもそうして迷いながらも一つ一つの物事を自分で決めて足を踏み出して行ったなら、結果はどうであれそれでいいと思うのです。『咲きたい時に咲いてくれればいい』と。それは子ども達も同じこと。その子にふさわしい『その時』を備え与えてくださるのは神様であり、その御心が子ども達の心の琴線に触れることで「よし、行こう!」「やっぱやめよう…」「でも、やっぱりやろう!」と心の揺らぎと熟考を与えられるのです。そうして心も体も備えがしっかりと成されて初めて、満を持した『確かなるその時』となるのです。これからもそんな自分の想いを信じながら、その決断を・意気を感じながら歩いてゆけたなら、それがなによりだと思うのです。 今年の卒園式は当初危ぶまれた『延期』もなく、予定通り3月19日に執り行うことが出来ました。ただ僕がここに来てからは初めてだったと思うのですが、『欠席一名』での卒園式となりました。お休みとなった彼はこのクラスのリーダー的存在で、卒園式の練習でもみんなを引っ張ってがんばっていた男の子。『出られない』と分かってからの数日間、すみれ組の中では彼の抜けた穴によるギクシャクが随所に顕れていたように思います。いつも「せーの!」と小声で言う彼の振りから始まっていた『卒園生お別れの言葉』。そんな彼のかけ声はなく、『じゃあ誰が言うの?』のところから「・・・」となってしまったこの子達の卒園式練習。それはそうでしょう。決して押しが強い訳ではないのに『僕がやらなくっちゃ』と言う想いからみんなを引っ張って来てくれた男の子。そんな彼を『おやぶん』に戴いて、あーだ!こーだ!を言うのが自分の『分』だと思っている他の子達。その突っ込みや被せてくるアイディアはピカイチなのですが、「さて、どうする?」となると「・・・」。そんな時に「僕がやる!」と言ってくれるのが『おやぶん』で、その言葉が出るとみんなほっとして「どーぞ!どーぞ!」と言った感じで後に続く、それがこのクラスのカラーでした。思えば『ブレーメンの劇』でのやり取りがこの子達の関係性をよくよく顕していたように思うのです。そんな仲間の態度が彼を『専制君主』にしてしまうかと思いきや、根が真面目で小心者のおやぶんは「やっぱり逃げるー!」と言う愛されキャラでこのクラスを引っ張って来てくれたのでありました。そんな彼が抜けて一番痛手だったのは実祐先生。初めてのクラス担任で初めての年長児を抱え、初めて迎える卒園式。段々と形が定まり・まとまって来た中で突如空いた大穴に動揺しないはずがありません。そんな状況にあっても、ただひたすら練習を繰り返していたすみれ組。見ている僕が「もう上出来なんじゃない?」と思う程の出来になっても「もう一回!」とリクエストしていた実祐先生。今思えばそうすることで自分の不安と戦っていたのかもしれません。でもその時はそんなことに想いを馳せることも出来なかった朴念仁の僕は、「実祐先生、意外としつこいのね(笑)」と思いつつ練習にお付き合いしていたものでありました。 クリスマスの合奏練習の時も「もう一回!」と何度もリクエストを繰り返していた実祐先生。でもあの時は通しでやってみて(「なんかちがう」)「もう一回!」って感じでした。そんな彼女に「どこがどう違うのか言葉にして言ってあげないと子ども達に伝わらないよ」とアドバイスしたものでした。それが今回は「この間、ここを直してって言ったところ、ここはとっても上手になりました」「『ここで一度きちっと止まって』が出来ていなかった子がいたよ」と一つ一つ具体的に説明をしていて、その姿を見つめながら「成長したなぁ」としみじみ思ったもの。そう、『成長』とは子どもばかりのものではありません。与えられた課題に対して一生懸命立ち向かった人すべてに与えられるものなのだと言うことを改めて教えてくれた新人先生の一年でありました。子ども達も頼りにしていた『おやぶん』の欠席を受け止めて、改めて「僕がやらなくっちゃ!』と言う想いを揺り起こしてくれたみたい。未知なる自分に向き合おうとする姿を見せてくれた卒園式までの数日間となりました。物覚えが早く、いろいろなことをそつなくこなすことの出来るこの子達。その反面、自分に自信がないことは探り探りでいつも「(あってる)?」と先生の顔を見つめながら確かめている…ってそんな感じ。勿論、合っているんだけれど。そして間違えていないと言う自負が生まれて来ると、今度は『早く終わらせたい』と言う想いから小声の早口でさらっと終わらせてしまおうとするその姿に、この子達の課題を感じます。卒園式の答辞はクイズやテストではありません。その想いを言葉にしながら朗々と謳い上げ、聞いている人に伝えることがなにより大事な言葉達。それには自分の想いをしっかり入れ込み自己陶酔するくらいでなければ、人前であんなパフォーマンスは出来はしません。卒園式の練習の時には、いつも園長席で背中越しにこの子達の『お別れの言葉』を聞いていた僕。故にその表情を見ることは出来なかったのですが、その顔を見ずとも彼らの言葉が段々としゃんとしっかりして来たのが伝わって来た数日間でありました。 そうして迎えた本番当日。答辞の段になりまして、子ども達の声がホールに響き渡りました。誰が代わりに言っているのかは分からなかったのですが、あの男の子のやっていた役割も他の誰かがしっかり担ってくれています。小声の「せーの」や彼の分の台詞も確かに補われ、目をつむって聞いている分には『彼がお休み』だと言うことも全然分からないくらい素晴らしい答辞でありました。卒園生の席は一つ空いていたのですが、確かにその場に彼はいたのです。『彼の分まで』と言う想いで卒園式に臨んだすみれさん。その想いが、これまでだったら誰かに頼り切ってしまったり、本番のプレッシャーに負けてしまった子ども達の心を奮い立たせ、一人一人の背中を押してくれたのでありましょう。そう、これがこの子達の想い、そしてこのクラスなんだな…と思いながら聞いた、卒園式の『すみれ答辞』でありました。 感染症に関する規定によって出席停止が決まってから、僕と先生達はあれやこれや彼のために何か出来ないかと議論を交わし合いました。その時は他の子にもお休みが広がる可能性もあって『式の延期』についても考えてみたり、卒園式当日を保育日数から除外した『自由参加』として式が行えないかと言う超法規的措置まで画策したもの。しかし彼にとって卒園式が大事であるように、他の6人達にとっても幼稚園生活の締めくくり且つ一生ものの一大イベントであることを考えれば、やっぱり卒園式は『王道』から外れて行なってはいけないと思ったのです。『王道』と『覇道』。これは正しいことを正しく行い徳を持って物事を統べる『王道』と、物事を統べるためになりふり構わず時には策略も用いて自己実現してゆく『覇道』の違いを顕した言葉です。僕らは神様の御心に従いながら、正しいことを正しく行い、その結果与えられた現実を感謝して受け止めることを旨としてキリスト教保育を行なって来ました。であるならば彼らの最後の旅立ちの時もそうして送り出してあげなければいけないはず…と言う想いから、最終判断をいたしました。そしてその瞬間から別日における『たくま君のための保育証書授与式プロジェクト』の企画構想を考え始めました。それとほぼ同時期にお母さん達から『翌20日のピアノ発表会の後にみんなで集まれないだろうか』と言う提案もいただきました。その言葉をありがたく受け止めそれについても検討したのですが、ピアノ発表会はグランドピアノの位置も変えて『発表会』に特化した会場となっています。そこから卒園式が出来るように戻すには時間も労力も必要と言うことで、『発表会が終わってすぐ』の開催にはちょっと無理がありました。なにより教会幼稚園の卒園式において証書の授与も大切ですが、その式を神様に祝福していただくために『牧師によるお祈り』が欠かせないと思ったのです。それは一個人としての想いを述べる園長の話なんかよりずっと大事。翌21日は日土教会の木曜礼拝があるので松井牧師もいらっしゃいます。その礼拝の前に彼のためにお祈りをしていただけないかと松井先生に相談させていただきました。そのオファーに快く応じてくださった松井牧師。先生にはそれまでもこの件の経緯をお知らせし相談させていただいていたので、たくま君のことを心に留めていてくださいました。木曜礼拝の前と言うこともあり、先生には「聖書の朗読とお祈りをお願いします。その一連のくだりの中で、たくま君に一言メッセージをいただけたなら感謝です」と出来るだけ負担のないようにお願いしたのですが、それに対して快諾をいただいたこと、本当に感謝でありました。 また式後続けて木曜礼拝が行なわれると言うことで、椅子の並びなどはいつもの大人の礼拝通りにして、その最前列にたくま君親子が座るレイアウトを考えていた僕。しかしそれに対して「練習と違うことをするとたくま君も他の6人も混乱するだろうから、卒園式と同じ並びにした方がいいのでは?」と先生達が助言をくれました。こちらの都合と想いから立案したプログラムに対して、いつも子どものことを一番に考えてくれる先生達。「そうだね」と思いつつ、座席も卒園式と同じ並びに改めることにいたしました。式の始まりもみんなが着座したところから始めるつもりだったのですが、「7人の卒園児が入場するところから始めた方がいい」と言う意見が出て、それもまた考え直しに。『たくま君の卒園式』と銘打つことによって、彼専用の式をイメージしていた僕。でもこの『入場行進』が彼らの大きな見せ場・晴れの舞台であると感じていた先生達。僕もみんなにとっての『たくま君の卒園式』とするためにそうする方がいいと思い、それもそうすることにいたしました。そんな段取りが決まったところで、卒園生・及びご家庭の方々に『これこれ・このようなことで式を執り行いますので、ご参加いただける方は証書を持ち卒園式の時の服装で集まってください』と連絡をさせていただきました。前々から春休みの予定を待ち遠しそうに話してくれていた子もあったので、「全員出席出来なくても仕方ないよなぁ・・・」と思いながらも、『これが今の僕らに出来る精一杯。出来ることを精一杯やって、後は神様に委ねよう』と言う想いで21日を迎えたのでありました。 さて、その式当日となりました。久方ぶりに顔を見せてくれた男の子。元気に挨拶をしてくれました。お父さんによるとさっきまでふてくされていたそうなのですが、幼稚園までやって来て僕らと顔を合わせた瞬間にさっと切り替えが出来る姿を見せてくれました。そんな彼の様相から「これもこの子に与えられた課題と、それによって与えられた成長だったんだな」と思ったもの。そこに仲間達が次々と集まって来ます。改めて見渡してみたならば、卒園生7名が全員集合してくれた嬉しい再会の時となりました。子ども達には『式服で来て』とお願いをしたものの、お母さん達もみんな正装で来てくれたことは驚きでした。その姿に『お母さん達が今日のことにどれだけ心を砕いてくださったか』と言うことに改めて気づかされた僕でありました。 時間となり、厳かに式が始まりました。開会礼拝で松井先生が聖書を読まれ、続けて「お祈りします」と祈り始められました。打ち合わせ通りの展開ながら、彼へのメッセージがなかったことに「あれ?」っと思った僕。しかしそのお祈りの中で先生が彼のことに触れ、時間をかけて祈ってくださいました。そんな先生の振舞いに改めて感謝をしたものでありました。『保育証書授与』もブランクを感じさせることなく堂々と証書を受け取りに来た男の子。5日間も練習出来なかったのにこれだけきちっと出来るのは、それまでに実祐先生がきっちり練習を積み重ねて来てくれたから。その始まりは自分自身の不安からのことだったかもしれませんが、その想いとそれに基づいてみんなでがんばって来たことが彼のことをも助けてくれたんだと、その時初めて神様の御心に気づかされました。そして卒園生7人がそろって壇上に立ち、お母さん達に向かって述べた『答辞・お別れの言葉』。卒園式に6人で謳いあげた答辞も立派でしたが、やっぱり彼を迎えて7人そろって述べ聴かせてくれたこの日の答辞は本当に素敵なものでありました。それまで彼がいない6人編成で練習して来た子ども達も、再び7人になっても何も変わることなく、『これがほんとでしょ』と言った立ち振る舞いでしっかりとやり遂げてくれた姿を、まばゆく見つめた僕でした。最後に男の子の退場をみんなで見送り、彼がホールから退出したのですが、その後のことを何も考えておらず誰も動き出せない刹那が訪れます。『シナリオがない』と言うのもあるのですが、みんながこの時を与えられたことに感謝・感動して時が止まったようになりました。そのまま佇んでいたなら僕もウルウルして来そうな気がして、講壇に進み出て「はい、これで式は終わりです」とこの時を遮った僕。照れ隠しもあったのですが、いつもの自分に早く戻りたかったのかもしれません。壇上での『みんなで証書を持って記念撮影』を経て外に飛び出せば、子ども達はすっかりいつものすみれに戻っておりました。全てのことをやり遂げた想いからか、式服のまま園庭を駆け回ったり、幼稚園の門横の石垣を駆け登ったり、普段はしないようなはしゃぎぶりを見せていたこの子達。「それ、入学式でも着るんでしょ!」と言っても、ひとたびリミッターを解除してしまった彼らは留まるところを知りません。大きく開かれた正門の前で最後の記念写真を撮りまして、ようやく彼らの旅立ちを見送ることが出来たのでありました。 過去に例がなく、僕の言葉足らずの想いとお願いに、それぞれの想いをもって応えてくださった先生達・お母さん方・そして松井牧師。そのことがこの日の式を『僕の思った通りの卒園式』よりも何倍も素敵なものにしてくれました。一人が一つの頭で考えたことよりも、みんながそれぞれの立場で・それぞれの想いを持って・そしてそれぞれのことを想い合って出した答えは、この時をなんと素敵なものに生まれ変わらせてくれるかと言うことを、僕らに教えてくれたこの日の『たくま君の卒園式』。今こうして振り返ってみたならば、「小学校より幼稚園がいい!」と言っていたこの子達の想いを満たすために行われたような『卒園から中一日』の彼らの『帰郷』。でもどの子もこの子も・僕らもそしてお母さん達も、「こんな切ない想いを残したままでは『未来に向けての新たな一歩』を踏み出せない」と言う想いはきっと同じだったはず。教育課程の中では想いを果たせずに終わってしまった彼らの幼稚園生活だったのですが、今一度やり直すチャンスと舞台を与えられ、そこでそれぞれが自らの想いをもって挑み、最後の一歩とそれによる成長の足跡を確かに刻んで行ってくれました。後ろを振り返り振り返りしながらも、自分で心に区切りをつけたその後は、もう前だけを見て歩いて行くはずのこの子達。そう、この子達は甘えん坊のくせにひとたび自分の心に折り合いをつけたなら、『次になすべきことは何か』と言うことをきちっと理解し体現して行ってくれる真面目君・真面目ちゃんぞろい。みんなこれですっきりと、次なるステージに向けて『はじめの一歩』を踏み出して行ってくれることでしょう。彼らの次なる帰郷を待ち望みつつ、この『すみれロス』をしばらく引きずりそうな予感の僕を除いて。 |