園庭の石段からみた情景〜園だより6月号より〜 2023.5.26
子どもの想い・教師の想い
 「大洲で早くも30℃?」とニュースが報じた5月半ば、今年もこれから一気に暑くなるのかと思ったもの。でもそれからは比較的なだらかに季節が移ろいゆき、日土の里では気温が上がるも木陰で子ども達と佇めば、山から吹き抜けて来る風がこの身に心地良く感じたものでした。「そうそう、5月ってこう言う季節だったよね」と久方ぶりに順当に巡りゆくこの季節を味わいました。紫外線の強いこの季節、陽射しの中では肌を焦がす感触もあるのですが、日陰は心地の良い別天地。子ども達もターフが影を作る砂場にしゃがみこんでひたすら砂遊びに励んだり、園庭の真ん中にそびえる桜の木陰では『バーベキューごっこ』と称して幾人かの集いが催されたり、またテントの下では連日色水遊びに興じる子ども達と先生の『色水研究会』が行われたりと、一年の中でも一番過ごしやすく『まったり遊び』が楽しいこの季節を思いっきり堪能しています。そんな子ども達の楽しげな姿を見つめながら、彼らの繰り広げる『面白物語』を毎日探して歩いている僕なのです。

 今年は寒い冬から一気に温かくなった春のせいでありましょうか、サクランボが良く良く実をつけました。食べられるサクランボは一足早く野鳥に食べられてしまったのですが、その後ソメイヨシノを始めとする『お花見桜』が花を散らしたあとにつける実が今年は完熟するまで木にとどまって、今頃その実を子ども達に届けてくれています。例年、花の後には実をつけるこの桜達。でもその実は大きくなる前の段階で早々に落されてしまうのです。これは近年言われる異常気象のせいなのかもしれませんが、気候の気まぐれさに体力を奪われた桜の木々が『己の生命力』を温存するための施策だったのかと思うほど。一昔前はこの熟した実をヒヨドリがお腹一杯ついばんで、ブルーベリー色の糞をうちの車の上に落して行くのが常だったのですが、ここ最近そのような光景はとんと見かけなくなりました。それが今年は十数年ぶりの大豊作。野鳥もつついてゆくのですが、この完熟した桜の実を手にした子ども達が始めたのは色水遊びでありました。触っただけで赤い汁がべったり指に着くほど熟れ切った木の実からインスパイアーされた遊びは『ぶどうジュース作り』。確かに色味はウエルチ級のぶどうジュース、いやワインと言ってもいいほど濃厚なクレナイ色。でも自分で拾って来たサクランボから抽出したことを知っているはずの子ども達に「サクランボジュースじゃない?」と聞くと、「ちがう!ぶどうジュース」と言い張ります。僕みたいに『サクランボから作ったからサクランボジュース』と言う『頭でっかちロジック』で考えるのでなく、「ぶどうジュースみたいだからぶどうジュース!」と言い切るこの子達のことを、「至極自然な発想と考え方で自分を取り巻く世界を見ているんだなぁ」と感心させられたものでありました。
 またこの流行りの色水遊び。花の日礼拝のためにみんなが持って来てくれた花が咲き終わった後の花殻を材料に、いろんな色の色水が子ども達によって作られました。いつもならそれを作った端から無造作に混ぜ混ぜブレンドしてゆくので、最終的には褐色に収束してゆくのがこの子達の色水。ですが今回は「混ぜんといて!」と訴える男の子の想いを受けて、美香先生がそれぞれに取り置きペットボトルに入れてくれました。なるほどそのペットボトルを見てみると、透明度の高い黄色や紫色のジュースが生成されており、初夏の日差しの中にかざしたならキラキラときらめいて本当に美しく見えたもの。「これは希釈度まで計算して作られたのでは」と思わせるような見事な品々でありました。僕もそうですが、他の子達の勢いに任せていたなら、どんどん濃く不透明度を増してゆくのが色水遊びの常。でもこの子の色彩感覚は僕の持つそれより何倍も繊細且つ敏感であるのでしょう。そしてそれに共感して彼の想いを具現化するアドバイス&サポートをしてくれた先生も豊かなるアート系のセンスの持ち主。僕などは色には無頓着で、その日着ていたシャツの色も覚えていないような体たらくですから、今回の遊びの展開・発展は美香先生あってのもの。「やっぱり教師は大切な教育的環境だよね」と思ったものでありました。

 子ども達は一人一人興味の対象・関心の赴く先が異なります。一人の教師がいくら勉強しても、その子の想いに共感し・一緒に遊び込んであげるには限界があるもの。子ども達にとって遊びは『良し・悪し』ではなく、効率でもなく、成否でもありません。自分で立てた仮説や目標にアプローチする中で、ただただ自分の想いを満たすことを目論みながら『ひたすら遊ぶ』それこそが、この子達の学び・遊びなのです。その中で『ああすればこうなる』の規則性を学習し、『ああしたら嬉しかった』を感じ取る。そのことにより『自分とはいかなる者か』と言う自我とアイデンティティーを確立し、その想いを肯定しながら・その想いを糧にしながら、繰り返し繰り返しトライを重ねることによって『自分と言う人間を生きるプロフェッショナル』になってゆくのです。自分は何が好きなのか・自分はどうしたいのか・自分がしたいことを実現するためには何をしたらいいのか、それらは全部そこから導き出されます。自分由来の学びやチャレンジには際限はありません。その時々に与えられた結果に対して自分の想いは常に動的に変化して、新たな想いを満たすために子ども達はまた新たな一歩を加え踏み出してゆくのだから。そしてその想いに寄り添い支えるために、僕ら教師は神様から召しを受けています。それぞれに得手・不得手を持ちつつも、その賜物をもって子ども達と一緒にひたすら遊ぶことによって、いつもではないけれどこの子達と想いを満たし合えるこんな素敵な瞬間に巡り合えることもあるのです。自分の想いとスキルを子ども達の為に捧げ、自らの想いをこの子達に向けて奉仕してくれている先生達に心より感謝です。


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